あったか祭り 盛況! そしてあの子が・・・

一年に一度、恒例のあったか祭り。今年もがんばって販売。今回は老々コンビではなく、私お一人様。

寒い中、ありがとうございます。この販売で、一番嬉しかったことは・・・あの子がお母さんとやってきたことです。あの熱烈な、オニパン号のちびっ子ファン。https://onipain.com/9728/

二年と三ヶ月前、はじめて会ったあの子です。

このとき3歳。移動販売車に興味を持って、オニパン号を手作り。そして、オニパンソングを覚えて毎日のように歌っていたと聞いて驚き感動したこと。この子が、あったか祭りに現れたのです。金曜日は幼稚園があり、青葉台の移動販売に行けないので、日曜日にわざわざ別府中央公民館へ。

2作目のオニパン号を持ってきてくれました。やはり、オニパンソングを毎日のように歌っているとお母さんが教えてくれました。ごめんね、名前を忘れてしまってます(聞いてないのかも)。僕ちゃん今年一年生になるんだって。はじめて会ったときは恥ずかしくて、声も出さずにただニコニコでしたね。でも2年過ぎて、今回は、チラリとしゃべって、目もしっかりカメラ目線で。成長しました!!お母さんも本当に嬉しそうに、終始微笑んでいました。

本日(日)は、あったか祭り!

いよいよ今日となりました。毎年参加している別府中央公民館主催の「あったか祭り」。10時スタートですが、オニパンは多少遅れると思います。昨年のあったか祭りで、すっごいキッチンカーが参加していました。その流れがこれからのお祭りのスタイルとなりそうです。駐車場にひしめくキッチンカー。その中に、ささやかなオニパン号が並びますからね。見落とさないでね。昨年の様子をアップしときます。

移動販売やっています!スケジュール、アップしてませんでした。😣

昨日は天候が悪い中、OBSでの移動販売が盛況でした。完売で、品不足状態。その日の朝、📞で「今日、移動販売あるのですか」との問い合わせ。お客様は「ホームページを見ても、何も書いてないので、電話しました」とのこと。あ~!!💦

そして、大分医大へ注文商品を搬入。現在、泌尿器科と微生物学科で注文依頼の商品を届けています。エレベーター前で女性の先生(だと思います)が話しかけてきました。「注文とか出来るのですか?」「も、もちろんです」「オニパンカフェなんですが、ご存じですか?」「はあ~、聞いたことあるような」

こんなケースもあるんですね。食べたことがないのに、注文するとは。注文表とホームページのご案内をしておきましたが、「見ますね~!」とのご返事。何でだろう?この好意的態度は?

新しいステージ

昨夜はママと一緒に「玉ちゃん」へ。久しぶりのご馳走。玉ちゃんの料理はとてもおいしい。お客さんが多いので、予約が必要だ。何故平日に玉ちゃんかと言えば、昨日は私のお誕生日。ありがたいことに、70の大台に。古希っていう。古くなっても希望を持って古希なのか。70代はまだ体が動く。気をつけながら、仕事にがんばろう。多分80になる頃には、仕事への意欲はかなり減退しているような気がする。まあ、続けようとは思うが、今思っているような熱は出ないだろうな。

オニパンの未来への模索は続いている。この数年で、形を作りたい。持続可能なスタイルを。

よう食べた!稲庭うどんは久しぶり。ブリかま、味噌汁うまい!串揚げセットもうまい!卵焼きも!気がついたら、食い過ぎに。二人ともダイエット中なのに。

さよなら 片付け 

12月から黙々とマンションの片付けをしている。3月15日が父の命日。あれから早10ヶ月が過ぎた。私の実家、センチュリーマンション日名子。

父母は大の引っ越し好きだった。記憶のある5歳くらいから11回ほど引っ越ししている。ただし、訳あって、私は祖母の家で育てられた。だから、一緒に住んでいないので、時々会いに行くのも大変だった。

忘れられない思い出の一つは、小学校に上がる前、買ってもらった中古の自転車で別府ラクテンチ近くまで冒険小旅行。大好きなお母さんに会いに行った。遠く感じられた道のり。自転車だから行けると思って行ったのだろう。着くと親はいなかった。そして運悪く自転車はパンク。泣きながら押して帰ったことを思い出す。

子どもの頃から私にとって必要不可欠だった自転車。それは、親に会いに行くための道具だった。今考えれば、広い別府の中で11回の引っ越しだったが、全て私の暮らしていた光町からさほど離れていない場所だった。一番遠かった家は野口町。子どもからすれば、野口は遠いなあと感じていたが。野口って言えば別府店から近くだ。

高校生になったときに一緒に暮らすことになった。朝見温泉近くの2階建てのアパートの一室。二間。両親は夜の仕事(水商売)なので、私がクラブ活動を終えて夕方帰ってきても、さほど一緒の時間は少ない。それがよかった。半年くらい一緒に暮らしたか。しかし、父親といさかいばかりで、祖母の家に逆戻りとなった。

ぁ~いろんなことがあったなあ。父や母と。それが私にとって良かったのだろう。こんな大人にはならないぞ、みたいな強い決意が心にあった。そして大学での経験が私を少し大人にしてくれた。

20歳の頃から、ほとんど親とけんかはしていない。客観的に冷めた心で対応してきた。冷たい心ではない。もう十分怒りのエネルギーは使い果たしたって感じで。だから、親の相談事を聞く立場で。親に頼るような気持ちは全くなかった。

私が40過ぎの頃、親が家を購入する話しが持ち上がった。それがセンチュリーハイツ日名子。内弁慶な父親は、社会に対して全く不向きな人間だった。人と交渉することが極端に苦手で、正式な対面の場面ではいつも相手に対して「はい、そうですね。」と卑屈な低姿勢で臨んでいた。マンション選びから、不動産の選定、売買契約全て私が代行した。大阪と別府を行き来して。

父母にとって、初めての持ち家。人生の中で最も嬉しく充実した瞬間だった。

そのマンションで30年近く暮らし、他界した。きれい好きで多趣味な父親。その遺品の多さには驚く。捨てるにはもったいない数々の品。片付けに時間がかかるのは、共有できなかった父との思い出の数々を、片付けの手間の間に、私も父の思い出を共有するからだろう。(あ~こんなことがあったなあ)と、父の代わりに思い出に浸る私。

3LDK、結構広い。やっと終わった。業者に任せなくて良かった。全ての思い出が瞬時に消滅する。そして、生前父が口にしていた、孫たちへのお小遣いも、ちゃんと発見できた。認知が少し入っていた父はしっかり私たちや孫のことを考えてくれていた。

少し長くなったな。お休みの日、片付け仕事の翌日、報告に別府霊園へ。

「お父さん、ちゃんと片付けましたよ。」