人生初!?料理に向き合う!!

この休みはもしかすると私の人生の転機となったのかもしれない。全く大げさな表現!と言われそうだが、しかし振り返ってみて、これほど真面目に料理を取り組んだことがない。学生時代に仕方なしに自炊を少し。めんどくさくて、いろんなお店や学食にたよった5年間。東京パン修行の際は、いい歳になっていたので、少しは自炊せねばと頑張ったが、最終は近くの飲み屋で特別食を食べることに。現在もママに頼って生きている。パンに関わる具材や料理はほぼ自力でやれる。やれるし、味に関しては人に任せられない。そんなこだわりが強いのに、いざ自分の食事となるとめんどくさくて、すぐインスタントに頼る。ラーメンとか、かなり上手に作れる。

以前にも書いたが、私はカレーが大好き。だからオニパンのカレーパンもかなり工夫している。二日間かけてじっくり作る。お食事としてのカレーも、いろんなお店に出かけて食べてきた。しかし、なかなか休日も忙しく、休みとカレー店の休みが重なっていたりで・・・。FBの知り合いが、カレー屋さんの記事を載せているのを読むにつけては、(アー自分も行きたいなあ)とため息をつく。

また休みがやってきた。火・水の休みは、私にとってはルーティンの作業日。やらないと行けないことが迫ってきて、ゆっくりなどできない。それと最近では、オヤジの介護も含め大変。カレー屋に行ってる暇はない。そこでふとある考えがわいてきた。「カレー屋に行くことばかり考えないで、自分がカレー屋になるつもりでカレーを作ればいいのでは。そうすると、ママだって助かるし、じぶんもおいしいカレーをいつでも食べられるし・・」しかし、ことはそう簡単ではないだろうなあ。まず、カレーのルーを作ったことないし。オニパンカレーは基本的にルーは「SBのカレー粉」で作る。料理をしたことがない私にとって、ルーを自分で作るなんて考えにも及ばないことだ。スパイスについては、一年前くらいからガラムマサラ作りを学び、オニパンカレーの仕上げに使っているが。

この月曜日に決めました。「明日はルーティンではないぞ!人生初のカレーを作ってやる!」

どんなカレーを作るか。それは、以前から気になっていたカレーの本を参考に。鎌倉「オクシモロン」という店のスパイスカレー。カレーの虜になっていた奥さんがカレー屋を開き、本まで出している。そんな人のレシピだからきっとうまいはず。しかしできるかなあ。やるっきゃない!

出来ました!人生初の手料理!!信じられない!!!

材料は?

自分の勉強をかねて、写真に撮りました。スパイスの知識は多少あったのでそんなに抵抗はなかった。5種類のスパイスとガラムマサラ。ガラムマサラはオニパンで作っているオリジナルのもの(7種のスパイスでつくってます)。作った感想は。下処理というのかな、お肉をヨーグルト塩胡椒で一晩つけるなど、その準備が大切なのかなと思った。スパイスを使って香り付けを行う場合も、パウダーとホールの使い方にも注意が必要なこと。オニパンのカレーと違って作り出したら1時間で出来てしまうのがびっくり。

そして出来たカレーのお味は・・・・

なんと言おうか、カレー好きな私の舌からして・・・絶品!の一言!!うますぎる!!!

村上愛子さんのレシピ。さすがです。その通りに作りました。私が食べたカレーの中の3本の指に入るもの。もしかするとトップかも。これから、カレーの種類を増やしていこうと思います。こんなに早くできるのであれば苦じゃない。下準備はいるけどね。

さて、話が長くなりました。気になっていた雑草退治はオニパン畑第一段階終了。

気が滅入るほどの雑草の世界。自然の生命力はすごい。大きなものは草刈り機で。しかし、やってられない量!思い切ってトラクターの力を使い・・・。

やりました!この広さのまだ3倍はしないといけない。そして、この作業を2週に一回のペースですれば雑草はなくなるとのこと。これはトラクターがあるので出来るでしょう。農業って大変ですよね。あとワルナスビの処理。これが大変そう。なんとかせねば。

修正 冷蔵ショーケース

みなさん感じているだろう世の中の不穏な状況。平和な日本でこんなことが起きるなんてと。しかし、私は今の日本、決して平和だと思っていない。多くの自死、貧困死、社会制度不備(セーフティネット不備)による死・・・。近年とみに増えてきた、社会に対する復讐的な巻き添え死。今回の阿倍元首相の事件もそれに近いのでは。

考えてみれば、この10年、世の中は本当にすさんできたように感じる。苦しい生活、働き方、余裕の無さ、夢の無さ。これは長く生きているとよくわかるものだ。10代、20代には分からない。多分30代、40代にも分からない。60代以上にはよく見える。政権は年々良くなってきているかのような演説で信じ込ませる。そんなお話は上手だ、データーまで改ざんして。

確実に悪くなってきた世の中。これだけ、ものが豊かになり、科学技術が進歩してきたにもかかわらず、なぜ人間の生活はゆとりなく貧しくなってきたのか。この事実から目を背けてはいけないと思う。

80年代の松田聖子ちゃんの歌を聴いていて、当時のことを思い出す。大変だったけど、前向きにいろいろと頑張ってた。周りの人間もそうだった。明るかったなあ。

70年代はもっと良かった。中学校出でも、真面目に働けば家が持てた。いつも正論で生きようとしてたし、それが通じた。私の大学の授業料は一年間で12000円だった。舟木一夫の「君たちがいて僕がいた」「学園広場」の歌詞が(これは60年代初頭だけれど)世の中の清純さを繁栄していた。♫~「心の悩みを打ち明け合って、眺めた遙かな山や海。言葉はつきても、去りかねた。そんなときにはいつの日もあ~あ。君たちがいて僕がいた。」♫。全ての歌詞が空で、今でも口に出る。小学校の6年生の時、加山雄三の「お嫁においで」を聴いて、ワクワクしていた。自分にはどんなお嫁さんが来るのだろう。早熟だった。そんな場面も思い出される。もちろん、悩みは抱えていたが。それは誰にでもある個人的な悩み。家のこととか。しかし、そんな中でも、世の中は人々を励ます明るさを持っていた。それは、未来への夢と可能性。

今の世の中、人間を大切にしていない!それに対する自分の意思表示方法として選挙がある。基本、それが一番大事なこと。だと思う。

真面目な文章になった。でも、近頃、良くそんなことを考える。戦前の日本へ、現在の中国へ、みたいな。たとえは悪いかもしれないが、私は本音でそんなことを考えている。私が青春時代を送ったあの70年代があまりに美しく輝いて見える。若い人たちがそんな経験も出来ず、自死や巻き添え死を考えるまでに追い詰められている現在をみると、苦しくなる。政治家よなんとかしてくれ。そして私たちももっと社会を見つめなければ。人生は一度きり。死に様は生き様に通じる。幸せな死に方がしたい。意味のある生き方がしたい。

と言うことで、昨日アップした冷蔵ショーケース、ママの一声で修正。

よく分からないでしょうが、蓋の部分の厚さを2倍にして、中にサンドがゆっくりと入れるようにしました。昨日のだと押されて潰れそうになっていた。お客様が、すごいねえ、手作りでと褒めてくれる。しかし私の仕事は本当にいい加減。横から見れば・・・

こんな風に寸足らずで、隙間があるとか。

朝起きて気がついた 祝14周年

仕事に入る朝4時のこと、携帯のメール着信音。こんな朝早く何事かと思って見ると、大学時代の後輩から「祝14周年」とのタイトルでメールが届いていた。そうか、今日はオニパンの創業記念日かあ!(先ほどママが「違うで今日と」と言われた。なるほど28日だった。私も後輩もちょっと危ない)

まあ、正解は28日だったが、その日は休みでもあるので、本日それにまつわる記事を書こうと今パソコンの前に座っている。

塚原に惚れて、ここで暮らそうと思ったのが25年くらい前か。そして16年ほど前にこの土地にログハウス(小さい)を建てた。ママと二人で、あるときは友人にも手伝ってもらって。

今ではお店の方からは木々でほぼ見えない由布岳もお隣の「忘路軒」さんも見えている。自力で基礎を打ちログを建てることが出来た。この写真は「原点」って名付けている。

そして2年後お店をオープンした。

この写真は塚原の友人熊谷さん(現在ブルーベリー農園オーナー)が撮ってくれたもの。綠の芝生がきれいだったなあ。オープンの日、大阪から私が所属していた「太鼓サークルどっこい」の有志たちが駆けつけてくれた。

まるで技量のない私を助けてくれる近所の人や親戚。

出せるパンがあまりないのに、お客がたくさん来て「人生最大の危機」と思った一日だった。

そんなあぶなっかしい初日からほぼ一年近く過ぎた頃の写真か。通販で大阪の友人のお店に食パンなどを送るときのラベルシールに使った私とママの写真。

まだ老人には見えない。55歳の頃。

よく続いてるなあと思う。この頃(13年前)は、パン作りも下手くそで、パンもあまり売れなくて、仕事が終わってからもいろんなところにパンを売りに行ってた。とにかく石にかじりついても3年は続けなくてはと必死だったなあ。みんなにパン屋になると公言し、早期退職した身の上で、「やっぱりな」なんて目で見られるのはいやだった。

3年たった時、「石の上にも3年」の意味がわかった。3年たたないと基礎がみにつかないのだな。3年たってやっとパンらしいものが焼けるようになった。お客さんも増えてきた。最近のInfoで「諦めないでよかった!」と書いたが(小麦の収穫)、本当に大事なことは「諦めないこと」いいかえれば「継続すること」。「継続は力」と言うけれど私は「継続こそ力」だと思う。継続してないことは何の力でもない。

辛かった東京での修行時代。修業先の社長(あこ酵母の創業者)が、悩んでやめようとした私に「パンだけを見なさい」と叱ったことを思い出す。あれやこれや人間のこと、体のこと、悩み気持ちが萎えてきていた私。何のために修行しているのか目的を見失っていた。その言葉を頼りに、なんとか持ちこたえることが出来た。

出来れば、まだまだ頑張ってパンを焼き続けたい。ほそぼそとでも。きっとママも同じ気持ち。オニパンをこれからもよろしくお願いします。

「奇跡」の小麦収穫

もう半ば諦めていた。日曜日から雨だとすれば、5日も雨に当たり穂発芽で全てがおしまいになるかも・・・。11月からつぎ込んできた小麦栽培への努力と時間があだ花と化す。しかたないよな。じいさんが亡くなり、コンバインを動かすこともできず、そして天候がこんなことになれば。

ふと見ると、ヤフー天気では日曜日「晴れのち曇り」となっている。諦めかけていた収穫への思いがまた頭をもたげてきた。日曜日の朝、決意する。「とにかくやれるだけやってみよう!」そして、湯布院の農家さんに電話をかける。「今日の夕方、もしかしたら小麦を持って行くので、乾燥機の準備をお願いします。」

これがじいさんの残したコンバイン、クボタ「SR-J1」。一度試乗してみたものの果たしてYouTubeだけのにわか勉強で乗りこなせられるか。雑草だらけの小麦畑で。

刈っていくとピーピーの警告音が鳴り響く。機械が止まる。小麦がつまる。掃除しても何度も繰り返す。どうなってるのだ。コンバインの構造もよくわからんし。あの手この手で試してみるがなかなかだ。しかし少しずつ構造が分かってくるものだ。「機械が教えてくれちょる。」じいさんの言葉を思い出す。

それにしても遅々として進まぬ収穫作業。2時間くらいやっているとあのアスキュー先生が現れる。APUの教授。塚原の農民。そして困った人のお助け人。コンバインの操作方法を教えてほしいと以前頼んでいたのだが、たまたまこんな時に現れてくれたとは。天の助け、仏のお導きか。

アスーキューさんは私が分からなかった構造や操作方法を教えてくれた。な~るほど、そうか~!そして作業を継続。はるかに効率よく進められる!有り難う、アスキュー先生!

コンバインを操作する私。ちょっと信じられないショット。しかし現実に小麦は収穫されている。

我ながらすごい集中力。じいさんの魂がのりうつったかのよう。6時間の作業もあっという間だった。

心配だった収量も・・・・

去年同様30キロ×6袋。

6時半頃湯布院に持って行くが、農家の小山さんはまだ田植え作業。そして30分後にいよいよ「乾燥機投入の儀」。

やはり相当湿っぽい状況。27%ほどの湿り気。じいさんの教えでは、「収穫したあと袋に入れたまま放置するとすぐに芽がでてくるぞ!」とのこと。普通、天気の良い日に収穫し、その後ブルーシートで天日干しするそうだ。その後乾燥機へが常道。それを聞いていたから、とにかく収穫したその日に乾燥機に入れなければ、今までの全ての努力がおじゃんになる。小山さんが小麦を入れてくれているそのシーンに、(全てが終わったなあ)と緊張がゆるみ力が抜けるような気がした。乾燥度数は12%でお願いした。やく10日ほどかかるという。

奇跡のような一日だった。やればできるもんだなあ。しかし、そのお膳立ては、周りの人が用意してくれたからだ。機械、じいさん、息子さん、アスキューさん、小山さん・・・まだ気がついていないお助けの人もいるだろうが(おっと、従業員さんを忘れていた。私を自由にしてくれているのは従業員さん、ママがいるからだ)。

帰リ道。湯布院から塚原へのちょうど峠の場所。落ち着いた夕空。慌ただしかった一日の終わりがこんなに静かに平穏にくれていく。諦めなくて良かった。

コンバイン試乗 追悼 園田のじいさん

小麦畑の地主さんである「園田のじいさん」が亡くなられた。失礼な呼び方ではあるが、親しみを込めた以前からの呼び方であり、あえて「じいさん」と書かせてもらう。、オニパンの小麦畑は以前メガソーラーの建設予定地だった。契約した園田のじいさんは私たちの反対運動をずいぶん腹立たしい思いで見ていたに違いない。建設が頓挫した広大な敷地を私たちと交友のあったじいさんの奥さんが「責任取って借りてくれ」と言いに来た。そこからオニパンの小麦作りがスタートした。

ワケも分からず小麦作りを始めたわけだが、その働きぶりを見ていたじいさんは私の努力を見過ごしてはいなかった。「ようがんばりよる」と評価し、こっそりコンバインを購入していた。あとで知ったのだが、合同新聞に書かれていた(自家栽培小麦の記事を掲載してくれた)。じいさんは口は悪いが、とても他人思いの優しい人だった。播種機を貸してくれたり芋の苗を分けてくれた。そして小麦が育った時じいさんは収穫してくれた。

この写真は初めての小麦の収穫時のもの。とても貴重な一枚だと今になって思う。じいさんは毎年芋の苗をくれた。昨年は、だまって店の前に置いていた。じいさんは耳が悪く人と話すのが苦手な人だった。しかしいつも人のために行為してくれていた。

調子が悪いのは知っていたが、そこまで深刻だったとは。今年になって芋の苗が例年になく不作で手に入らない(じいさんからもらうもの以外に安納芋だとかの苗をコメリで購入していた)。しかし、じいさんが持ってきてくれるのではと思っていた。入院していたとは知らなかった。

オニパンに突然じいさんが現れた。3月のこと。鹿肉をたくさん持ってきてくれた。そんなところがあるじいさん。それが6月の初めに亡くなられた。お参りに行ったとき息子さんたちも消沈していた。ブドウの作業をしているときも力が入らず、ペースが上がらないともらしていた。息子さんはここ数年オニパンの小麦を収穫してくれているのだが、「今年は収穫する元気が出ない。ぶどう園も忙しいし。オニパンさんが自分で収穫してほしい。」と言う。

コンバインを貸してくれるとのこと。土地の造成工事のためにユンボを貸してくれた。それで、毎週ユンボに乗っている。やっとユンボが操縦できるようになった。そして、次はコンバイン。ユンボは以前乗ったことが少しあるのでやる気になったが・・・コンバインは全く初めてだ。気が重い。しかし乗らざるをえないのか・・・。

収穫直前の現在、時間がない!昨日コンバインに初試乗した。その前日、またYouTubeでお勉強。

夕方暗くなりかけの頃、コンバインを動かした。なんとか動かせる。そのときじいさんの声が聞こえてきた。

「機械が教えてくれるちゃ」

私が初めてトラクターに乗ったときじいさんに乗り方を尋ねたことがあった。そのときじいさんが言った言葉だ。

不安で何ごとも誰かに尋ね教えてもらわないと出来ないと思っている都会のぼっちゃんである私に言った言葉だ。じいさんは教えてもらうこともなく全てを自分でやってきた。そうせざるをえない状況だったのだろう。生きるために。そんなじいさんは誰かに甘えることなどするわけもない。むずかしい機械の操縦も、自分の力だけでやってきた。そんなじいさんの言葉だったのだ。何か目頭が熱くなる。

今年は自分で小麦の収穫をするぞ!「機械がおしえてくれるちゃ」