さよなら 片付け 

12月から黙々とマンションの片付けをしている。3月15日が父の命日。あれから早10ヶ月が過ぎた。私の実家、センチュリーマンション日名子。

父母は大の引っ越し好きだった。記憶のある5歳くらいから11回ほど引っ越ししている。ただし、訳あって、私は祖母の家で育てられた。だから、一緒に住んでいないので、時々会いに行くのも大変だった。

忘れられない思い出の一つは、小学校に上がる前、買ってもらった中古の自転車で別府ラクテンチ近くまで冒険小旅行。大好きなお母さんに会いに行った。遠く感じられた道のり。自転車だから行けると思って行ったのだろう。着くと親はいなかった。そして運悪く自転車はパンク。泣きながら押して帰ったことを思い出す。

子どもの頃から私にとって必要不可欠だった自転車。それは、親に会いに行くための道具だった。今考えれば、広い別府の中で11回の引っ越しだったが、全て私の暮らしていた光町からさほど離れていない場所だった。一番遠かった家は野口町。子どもからすれば、野口は遠いなあと感じていたが。野口って言えば別府店から近くだ。

高校生になったときに一緒に暮らすことになった。朝見温泉近くの2階建てのアパートの一室。二間。両親は夜の仕事(水商売)なので、私がクラブ活動を終えて夕方帰ってきても、さほど一緒の時間は少ない。それがよかった。半年くらい一緒に暮らしたか。しかし、父親といさかいばかりで、祖母の家に逆戻りとなった。

ぁ~いろんなことがあったなあ。父や母と。それが私にとって良かったのだろう。こんな大人にはならないぞ、みたいな強い決意が心にあった。そして大学での経験が私を少し大人にしてくれた。

20歳の頃から、ほとんど親とけんかはしていない。客観的に冷めた心で対応してきた。冷たい心ではない。もう十分怒りのエネルギーは使い果たしたって感じで。だから、親の相談事を聞く立場で。親に頼るような気持ちは全くなかった。

私が40過ぎの頃、親が家を購入する話しが持ち上がった。それがセンチュリーハイツ日名子。内弁慶な父親は、社会に対して全く不向きな人間だった。人と交渉することが極端に苦手で、正式な対面の場面ではいつも相手に対して「はい、そうですね。」と卑屈な低姿勢で臨んでいた。マンション選びから、不動産の選定、売買契約全て私が代行した。大阪と別府を行き来して。

父母にとって、初めての持ち家。人生の中で最も嬉しく充実した瞬間だった。

そのマンションで30年近く暮らし、他界した。きれい好きで多趣味な父親。その遺品の多さには驚く。捨てるにはもったいない数々の品。片付けに時間がかかるのは、共有できなかった父との思い出の数々を、片付けの手間の間に、私も父の思い出を共有するからだろう。(あ~こんなことがあったなあ)と、父の代わりに思い出に浸る私。

3LDK、結構広い。やっと終わった。業者に任せなくて良かった。全ての思い出が瞬時に消滅する。そして、生前父が口にしていた、孫たちへのお小遣いも、ちゃんと発見できた。認知が少し入っていた父はしっかり私たちや孫のことを考えてくれていた。

少し長くなったな。お休みの日、片付け仕事の翌日、報告に別府霊園へ。

「お父さん、ちゃんと片付けましたよ。」