楽器2

ハーモニカといってもいくつか種類がある。詳しいことはわからないが、小学校で初めて使う奴は、一段の♯♭が出せないもの。私が合奏団で使っていたのは、2段あって、上段がピアノで言う黒い鍵盤の音、下段が白い鍵盤の音。「剣の舞」は、半音が多いのか、いつも、上下にハーモニカを揺らして、左右に滑るように吹いていた。よくぞ小学生であそこまでやっていたものだと今更ながら、レベルの高さに驚く(自慢ではなく、今の音楽教育と比べての話です)。さらに、クロマチックハーモニカとか・・・・。説明してたら本題から外れて行きそうなので、ここで切るが、私の憧れのハーモニカは、ブルースハープという10の穴しかない、小さなハーモニカ。10しかない穴だが、そこから、たくさんの音階の、様々なテイストの音色が出せる。聴きようによっては、ハーモニカではなくサックスのようにも聞こえてくる。とても深い音色が出せる。そして、キーごとにハーモニカがあって、G,A,B,B♭、・・・・・と20以上(?)ある。
小学生のそれのように、吹けば簡単に音が出ると思ったら大間違いで、なかなかいい音が出てくれない。フルートもケーナも、しの笛など共通に言えることだが、息の吹き込み方で音色は大きく変わって来る。私が憧れたブルースハープも同じ仲間で、そこがネックとなった。
リードと呼ばれる細長い薄片が震えることで、音色が出るわけだが、それを無理にねじることで微妙な半音をつくりだす、ベンドと呼ばれる奏法がある。これが、ブルースハープの特徴的な音色をつくる。しかし、これでつまずく。さらに、舌を使って、一部の穴をふさいだり、開けたりしてリズムをとったりするタングブロック奏法がある。これがやけに難しい。

大阪にいるとき、ウェッティー・ジョーのブルースハープ教室に行っていた。ジョー先生は、ほんま、こてこてのブルースを吹くハーピストだった。私は強く影響され、ブルースの魅力にはまった。ライブに度々出かけ、随分楽しませてもらった。
私の人生に残されているチャンスは、ブルースハープによるライブパフォーマンスしかない。これが実現できれば・・・・と、思ってはいるが。
人それぞれに、夢はあるもの。きっと、私の夢は、夢で終わるのだろうなあ。

楽器

今日のタイトルは、「楽器」。何を書こうかとパソコンに向かって、(ウ~ん)と唸る。ちょっと、ゆるい感じで、出てきたタイトルがこれだった。私は、音楽が好きで、自慢じゃあないが、小学5年生で合唱団、6年生時合奏団に所属していた。これは、自分から希望して入るクラブなどとは違い、音楽の先生が選抜して集めた子どもたちで作られたものなのだ。県のコンクールで争い、結構いい成績(優勝?)を収めていたようだ。
6年生の時、初め、合唱団に推薦され、1回目の練習時に一人一人独唱のテストをした。適性検査なのか。先生は「日浦くん、次からは、合唱団ではなく、合奏団に来てください。」と言う。つまり、向いてないと判断されたわけだ。合奏団に鞍替えした私は、それなりにがんばった。ハーモニカのパートで「剣の舞い」の課題曲に取り組んだ。とても速い曲で、超難曲。放課後の遊びたい時に、ぐっと我慢して、コンクールに向け練習。コンクールの一月ほど前だったか、いわゆるレギュラー組とベンチ組を決めることに。私は、ベンチ組だった。小学生なりに、何か割り切れないものを感じた。
中学生の時、リコーダーが得意だった。自分でも、あまり意識せずに、上手に吹けていた。自分は、絵が下手で下手でたまらなかったが、音楽の才能はあるのではと、何となく自分をほめ、慰めていた。
高校の時、ギターを手にした。フォークブームだったのだ。ギターがはやっていた。とはいえ、ギターをやっているものは少数だったと思う。私は、コードを4つほど覚えて、「真夜中のギター」という曲を弾き、歌えるようになった。
大学の時は、これまた、フォークブームの全盛で、吉田拓郎、井上揚水のコンサートにも行った。私は、へたくそながら、ギターを弾き、歌を歌った。友だちが寄れば、よく歌った。あちこちの下宿から夜遅くまで歌声が響いていた。
就職して、仕事自体が、音楽的な要素もあったので、しばしばギターを片手に歌をうたった。リコーダーも吹いた。
同時に、和太鼓にも夢中になった。プロの研究生として2年ほど打ち込んだ。夏祭りや色々な催しで太鼓をたたいた。しかし、10年ほどで、限界を感じた。次々と若手が成長し、後に続くものが、私を越えて、素晴らしいステージをつくる。(私はステージには向いていない)と感じた。
40歳頃から和太鼓の練習も少なくなり、どちらかというと、音楽から離れ、スポーツや自然への興味が先行してきた。しかし、生来の「音楽好き」というDNAは静かに出番を待っていたようだ。
教え子の親が、ジャズのライブをすると言うので、見にいった。狭~いお店で、3人が演奏しお客が5~6人でいっぱいになるようなところだった。子どもの母親は、ジャズピアノを自由自在に演奏し、父親はベースを「ボンボンボボボン」と軽快に弾く。聴いているものも楽しかったが、演奏しているものが、本当に幸せな表情で、生き生きとやっている。
衝撃だった。和太鼓、お囃子のアンサンブルと違った、演奏の楽しさを感じさせる。
私の悪い所だが、すぐに感動し、やってみたくなる。興味関心は広いが、深みがない。いわゆる「広く浅く」っていう奴だ。
私は、(いつか演奏する側としてライブにでてやろう)と軽く決意する。
だとしたら、何の楽器で?ギター?お話にならないほど下手だし・・・。ピアノ?やっとバイエル60番ぐらいまでしか弾けなかったし・・・。ウ~ん、やっぱりハーモニカしかないなあ。小学生で「剣の舞」が吹けたのだから。
(次週に続く・・・)

開店2周年

6月28日、開店2周年を迎えました。本当に時の過ぎるのは早いと実感します。この2年間で得たもの、経験したことは、サラリーマン時代とは異質なものが多かったと感じます。全て結果が自分の考え判断に因る面。ちょっと大げさな書き方ですが、お店は創意工夫次第で前進していくものだと実感しています。本当は、どんなお仕事でも一緒なんでしょうが、結果について誰も責任をとってくれない、自分に全てがかかって来る(当たり前なんですが)あたり、厳しさが常に付きまといます。そういう面ではサラリーマン時代は、気楽にやっていたなと感じます。どんな仕事をしていても、結構なお給料がもらえたし・・・。しかし、一方でワーキングプアのような厳しい現実もあるのですが。
開店して半年ぐらいお客様もあまり来ず、パン製造の腕前ももう一つで、将来に暗い影を感じながら、ただ黙々と朝早く(朝といっても夜中2時ごろ)からパン作りをしていました。今の自分にできることは…色々考えながら試行錯誤の日々。「オニパン注文シート」をつくって、注文を集めようとか、宅配をして、パンを届けようとか、通信販売をしようとか・・・。
素人っぽい、私やママのなりふり構わない様子に同情してか、色々な方がパンの販売に協力してくれるようになりました。由布院駅で働いている方が、その職員方に働き掛けて、毎週パンの注文をしてくれたり、毎週のように別府の方が大量の注文をしてくれ、友人に送ったり(多分自分の自費で)してくれました。パン屋が終了してから、夜、湯布院や別府市までパンを届けに行くわけで、大変ハードな状況ではありましたが、私たちのために身や心を割いてくれる心遣いにどれほど感謝したことか。また。ある時は大量に売れ残ったパンをどうしようかと、ある方に相談すると、湯布院の亀の井別荘を紹介してくださり、その方と一緒に販売に行ったこともあります。こういう援助がたくさんありました。
基本はおいしいパンをつくることで、お店の運営を軌道に乗せることではありますが、お店にはそれ以外の人としてのつながりや心を潤す要素が大切だと身にしみて感じます。
人として生きる様々なシーンで、その人生にささやかな喜びや思い出を添える、そんな役割を演ずるのも、お店の大切な要素では。助けていただいた経験や、リピーターとして来ていただけるお客様との交流から、お店にとっての人間的なつながりの大切さを思ってしまいます。
1周年を過ぎたあたりより、パン作りも安定してきました。今でも失敗はしますが、窯のタイマーを押さなかったりして焦がしたり(これは年と共に多くなっていくのかなあ)、中古の機械の調子が悪くて、生地を傷めたりが大半で、発酵の見極めなどは随分しっかりしてきたと自負しています。一応ましなパン作りができるようになると、逆に今まで平気で出してきたパンにも、クオリティが気になり、余計に神経質になって来ます。よくもあんなパンをお店にだしていたなあと・・・。開店3周年は一年後です。3周年には、もっともっと、美味しいパンが作れるように、そして今の気持ちを失わず、お客様に接していけるように努力していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

これは、開店して8カ月後、沖縄に旅行に行った際に購入した泡盛です。泡盛のお店で仕込んでいただいた「日浦家の酒」。開栓日も明記されています。

3周年の6月28日です。
石の上にも3年。私の目標は3年間はなにがあってもがんばる、です。周囲の反対や、助言を振り切り、開店したいきさつ上、へたばっては格好がつかないというのもあって・・・。3周年が無事迎えられ、このお祝いの酒が飲めることを願って、日々頑張ります。

酵母生活2

この折々帳で、今一番書きたいことは、オニパン酵母のことです。しかし、はかばかしい成果を上げられず、月日が流れてきました。今、パン屋として私の意識の中で一番重要な位置を占めているのは、酵母のこと。何度も実験を繰り返しながら、酵母の違いで、味、香り、焼き色、生地の食感、口どけ感などが全く変わって来ます。特に食パンなどのお食事パンは、ご飯同様何も入っていないから、その違いが良く分かるのです。
おいしいお米は、それだけを食べてても、十分満足がいくものです。食パンでこそ、パンは勝負するものと以前より思ってきました。
今、オニパン酵母は、第2段階を模索中です。第一段階はクリアしたと思い、商品としてカウンターに並べています。お客様からは、「普通においしいよ」と言っていただけていますし、私としてもおいしいと思うので、出しています。しかし、このオニパン酵母で、食パンは焼きません。今日の朝食は、オニパン酵母の食パンとあこ酵母の食パンを食べ比べました。香り、味、食感どれをとっても、あこ酵母にはかないませんでした。
酵母以外全て同じ条件で食パンをつくります。オニパン酵母も、それなりに、発酵力、味等良くなっています。しかし、繊細な部分では大きく違います。
私はこれまで、パン生地の味を良くする力は、酵母の活動によって、小麦粉のでんぷんやたんぱく質が分解・消化されアルコール発酵される中で生み出されるうまみ成分が中心をなすものだと思ってきました。パンの解説書には、たいがいそう書かれています。そして、それはパン業界の常識として通っています。
しかし、それだけではないと、最近は考えています。パン生地を仕込む際に、あこ酵母のなま種を毎日味見しています。うまい!のです。それは、少し甘酒に似たような、少し酸味があり、シュパっと舌を刺激する味覚。コップに入れて、ちびちび飲みたくなってくるような・・・・。これは、この2年間毎日舐めているので、アル中のような状態になっているのかもしれません。毎日舐める中で、飽きずに、ますますおいしいと感じられるようになってきました。そんな成分があこ酵母の中に含まれているのです。

私は、今、一つの仮説にたどり着いています。

あこ酵母によって、つくられるパンのうまみは、麹の力だということ。
イーストそのものには、全く旨いと感じられるような味はありません。むしろ、イースト臭が鼻をつきます。イーストは、パン生地の発酵過程の中でつくられるうまみ成分にその味と香りを頼っていると言えます。
日本は、古来より、他の国にはない独自の発酵文化を持っています。発酵食品の宝庫とも言える食文化。その中でも、お味噌、醤油、酒などは、麹によって作り出されています。日本人は、このような発酵食品を体に取り入れ、体を作り上げてきた歴史を持ち、麹を使った食品を体が受け入れる要素が多分に大きいのでは。

ちょっと、むずかしいお話になりました。しかし、だれもこんなお話を聞いてくれませんので、ネット上で、興味のある方にお話をしています。さらにこの話は続きます。

中華料理でパーティー

オニパンでバイトしている李(り)君とオータンに、中華料理パーティーに招待されました。APUの学生(中国人)5人で一つのマンションの部屋をルームシェアして、共同生活しているとのこと。私とママとタックン(タイ人)の3人が招待され、計8人でパーティになりました。李君は2年生20歳。「私は料理が得意です。家にご招待します。」と切り出され、(ウ~ん、どんな料理を出されるのか)と少々戸惑いながら、の参加でした。彼は、3時頃から一人で黙々とつくっていたそうです。5人の中国学生の内訳は、二人が男性、3人は女性。李君一人が料理をつくり、他のメンバーはつくらないそうです。少し手伝ったそうですが。その料理は・・・・想像していたものとは違い・・・・驚きの代物でした。

サラダと赤飯はママが持参したものですが、あとは李君が一人でつくったもの。
食べると・・・・何という旨さ!私が以前台湾で食べた中華料理と比べ、李君の方がグンと旨い。お世辞ではないのです。
中国の女子学生は見て、食べるのがお仕事のようで…ほんと李君は大したものです。
話題は食べ物から、日本での生活や中国の生活、タイの暮らしなど盛り上がり、若者との交流でずいぶん若返りました。

オニパンのスタッフで記念写真をパチリ。
右が李君。その隣がオータン。左端がタックン。
今オニパンは若者に支えられてやりくりしています。