APU(アジア太平洋大学)チャイニーズウィーク 

オニパンには、現在4名のバイト生が来ている。中国人とタイ人。中国の学生さんから今週は、チャイニーズウィークと言って、中国の文化行事がある週だと聞いた。最近は、オニパンも国際的になっていて、中国やタイのお話がめっきり多くなっている。ママは中国の料理が食べたいと、私を誘うので、行くことにした。

APUの構内の街灯には、中国らしい、ぼんぼりのようなものが飾られている。

大きな掲示版には、6月11日18時30分より、グランドショーがあると書かれていた。
さて、目当ての中華料理。学生会館のようなところに入ってみると、中華料理のコーナーがああった。しかし、思っていたようなものではなく、種類も少ない。チャイニーズウィークだからと言って、普段と違う特別料理を用意していたわけではなかった。うう、残念。気を取り直して、料理を注文。

ちょっと塩からい味付け。
ウう、残念。
6月11日の発表に行くことにしている。高(コウ)君が、空中ゴマを披露するとのこと。これに期待するとしよう。

左が高君です。

拾いもん2

お待たせしました。あの拾いもんが、何とか置物に変身です。
「拾いもん」のお話をを読んだ方が、「あれ、どうなった?」と聞いてきます。もう、すでに、置物になっていたのですが、ちょっと公開するのには後悔する代物になったので、気後れしていました。しかし、今回の日記でお披露目します。

どうでしょうか。立派でしょう。これを見たお客様が「この角は、すごい!なかなかこれは手に入らないよ。」と、おっしゃっていただきました。
下の台は、うちの庭に転がっていた木を削ってつくりました。ただ、後悔するのは、その木に塗ったオイルステイン。ホームセンターで、「五割引」の赤札が張ってあったので、思わず飛びついて購入しました。塗って見て、なるほど、売れ残っていた意味がわかりました。ママは、肉の塊みたいで、気持ち悪いと、軽く言ってくれます。こちらの方は、重い気持ちになります。
取りあえず、せっかくですから、玄関にかざりました。

オニパンカフェの助っ人たち

ゴールデンウィークが終わり、ホッとしているところです。なにせ、休みなしで7日間、しかも超ハードな労働が続き、中高年のママと私の体がついていけるか心配だったからです。最近のオニパンカフェは、若い人たちの手助けで成り立っています。現在、4名のAPU(立命館アジア太平洋大学)の学生が入れ替わり立ち替わりで働いてくれています。
その4名の若い力で、連休を乗り越えられたと言っても言い過ぎではありません。
全員外国人。1名がタイ国、そして3名が中国。皆さん、まじめで、頑張り屋。
私は、その青年たちから、さまざまに刺激を受けています。
タイのタックンについて少し紹介します。タックンは、3回生。タイ人ですが、見た目は韓国のあのぺさんにそっくり。タックンがパンの販売を手伝ってくれる時、中年の女性のお客様の目がきらり輝くのが見てとれます。
それはさておき、彼は親からの仕送りは全くなしで、授業料・生活費全てをバイトで稼ぎだし、学生生活を送っています。入学金も65%免除で残り35%を支払う際に、先輩に借りて、ローンで返済したそうです。それだけ聞いても、親の援助で優雅な大学生活を送った私など、頭が下がる思いです。
中国から来た3名の若者は、経済状況はタックンとは違います。お店にも車でやって来ます。特にバイトをしなくてもやって行けるようですが、社会勉強的な感じで働いているようです。しかし、みなさん本当に清々しく、努力家です。
4名に共通するところは、英語ができる。日本語もうまい。向学心が旺盛。活動的。自分の将来に夢や希望を抱いている。
日本の若者も以前は夢を持ち外国留学する者も多かった。外国に行きたがらない日本の若者の話を聞くにつけ、さびしい気持ちになって来ます。

拾いもん

先週、コースケと初めてのコースを散歩しました。それは、ムケンヤマのあまり人が入らないところです。ちょっとゆったりと、足を延ばして、探検っぽく散歩をしてみたくなったからです。草原から林のような木々が生い茂った場所までやってきて、ちょっと薄気味悪かったけれど、中に入って行きました。その時、足元に何か固いものがコツンとあたりました。「あれっ」と、足元を見ると、「うわっ、なんだこりゃ。」そこには、大きな鹿の角が。あまりに見事なので、家に持って帰りました。
汚れをとって、磨きました。「ふ~ん。見事!すげ~。」大阪にいたとき、お囃子をするために、鉦や撞木(しゅもく)を買いにいったりしました。コンチキチンと鉦(かね)をたたく、ばちを撞木というのですが、それは菜箸の先に鹿の角がついたものです。

鹿の角はとても良い鉦の音を引き出す素材なのです。小さな2~3センチほどの鹿の角がついた撞木で2千円ぐらいしていました。大きな鉦をたたく5~6センチほどのものは5000円はしたでしょう。私が拾った鹿の角は、はるかにでっかいものです。値段にしたら数万円はくだらないでしょうねえ。
どうです、見事でしょう。

これを、知り合いに見せたら、「この鹿の角は、3段の角になっている。普通2段くらいやけど、これは立派!」とほめてくれました。
塚原って、やっぱ、すごい所だと再認識。
私はこれで、帽子掛けをつくろうと思います。次回の折々帳で報告できたらとおもっていますが・・・。

ひょっこりひょうたん島から40年

井上ひさしさんが亡くなった。そのニュースを聞いた日、私はちょっと虚脱感に襲われ、パン作りも集中ができなかった。誰にもいつかは訪れる死ではあるが、とても残念な思いがした。私は、井上さんのことを詳しく知っているわけではないが、今の時代、この世の中にとって、貴重な方であることは間違いないと思う。来年の3月、市民劇場でこまつ座による『化粧』という作品の上演も楽しみにしていたところだ。
井上ひさしの社会に対する、政治に対する、人間性にあふれる鋭い視点が好きだった。米の輸入自由化をめぐって、彼がテレビやマスコミを通じて「水田は日本の原風景」と言ってなりふり構わず自由化反対を訴えていた姿。そして、平和憲法を守れと、「9条の会」を立ち上げ、その先頭になってがんばっていたこと。映画『父と暮らせば』を見たとき、井上の思いは理解できた。
物心ついてから、私の価値観に主に影響を与えたものは、漫画、テレビ、児童文学だと思える。マンガ・テレビは夢中になった。私らの世代は多かれ少なかれそんな人が多いはずだ。確か、小学校5年生の頃に始まった井上ひさし原作の「ひょっこりひょうたん島」は、よく見たものだ。奇想天外、奇妙キテレツ、夢と冒険にあふれたおかしな人形劇。「マシンガン・ダンディ」と「博士」のファンだった。
大学1年生の頃大学祭などで、面白いフリのついた「ひょっこりひょうたん島」の歌を歌い踊ったことを思い出す。これは、就職してからも、子どもたちに教え、一緒によく踊ったりした。「♪苦しいこ~ともあるだろさ~♪」のところは、ツルハシで土を掘るカッコをするのだが、そこのところで笑いがおこり、盛り上がる。
2年生の時所属していた演劇部で井上ひさしの「11匹の猫」をミュージカルで上演した。まさに、青春ど真ん中。劇中の10曲以上の曲も自分たちで作曲した。踊りのフリも自分たちで考えた。お金もなく、パンフレットをつくり、広告代を稼いだり、上演チケットを売りまくった。厳しい練習、仲間同士での喧嘩・口論。劇中、クライマックスで登場する「大きな魚」をどうつくるのか。部員12名しかいないのに「11匹の猫」のキャストは無理なので、「七匹の猫」と改題して(井上ひさしさんに許可を取ったはず)上演することに。
ほんと、限界・ギリギリの試みだった。でもそれは演劇部12名の青春時代の金字塔になったことは間違いない。私は「ねこばばのニャン七」という準主役級の役だった。人前で話をすると赤くなる「赤面症」だった私が、劇をするというぐらいだから、この役に賭けた私の思いははかり知れると思う。
劇は大入り満員で、大成功に。井上ひさしの面白おかしい「11匹の猫」という作品は、その面白さとは裏腹に、深く哀しいテーマも併せ持つ。社会とは、人間の欲望、連帯など考えさせられる。
気がつけば、私は井上ひさしと共にこの時代を生きてきたわけだ。結構近い距離で。大学時代、「11匹の猫」に出会わなければ、今の自分はないと言うほど、強烈な出来事だった。
井上ひさしさん、ありがとうございました。