やはり、一言だけは言っておかないと 

今日の新聞で目にした。
「自公集団的自衛権容認で一致 閣議決定の内容大筋合意」
白けた気分で読んだ。
安倍第一次内閣の時から、どうも胡散臭いきな臭い彼の言動が
気になった。「美しい国日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」
こんなコピーで「平和ボケした日本をつくりかえる」とのこと。
途中で突然の辞任。やれやれ、ほっとしたことを思い出す。
確かその当時「KY]という言葉がはやった。
彼はKYの代表格だとも揶揄された。「空気読めない」つまり、周りの人たちの気分感情思いを読めない人。

教員時代、当たり前のように教えていた平和憲法。
憲法9条のおかげで、戦後69年間、戦争で人を殺すこともなく、殺されることもなく過ごせてきた世界でも珍しい国日本。
戦争の悲惨さは、それなりに教えられてきた私。
母が長崎で被爆した。学生時代から原水爆禁止世界大会にも3度ほど行った。20歳のとき、広島の被爆者の家を探し、生々しいお話をじかに聞いた。
どうして戦争なんかするのだろう。これだけ多くの人が苦しみ傷つけられ・・・。
膨大な犠牲・屍の上に、「もう二度と戦争は繰り返さない」との痛恨の思いを込めて、憲法は制定された。

時の権力者は、いつも憲法改変を最終目標に、じわりじわりと、国の形を変えてきた。
それは簡単に言えば、民主的な形から官僚的な形へ。
学校教育でいえば、教師の自主性を取り上げ、上からの指示・管理へ。職員会議を話し合いから、校長の指示命令・伝達機関へ。教育委員会についても、教育委員の公選制から任命制へ。現在は首長が決定できる機関へ作り変えられようとしている。

私が行っていた高知大学は、学生自治会が力を発揮していた。坂本竜馬を生み育てた土佐の自由な気質が大学全体を覆っていた。学生の活動を尊重してくれた大学の教授会の力もあっただろう。サークル活動が活発で、学生たちはサークルやクラスで大いに語り合い、自分の将来や社会や政治を議論した。
全て話合いでことの真理を問い、活動の進め方を考えた。「民主的」であるかどうかが、最も大事な要素なのだと、共通理解されていた。
ことあるたびに、「それは民主的でない」と批判し批判された。

民主的というのは、民主主義的という言葉の省略形。
民主主義は、人民が主ということ。
先ず人のことを考えるということ。
その人とは「自分」ではなく、他人(ひと)のこと。
他人のことを考えることができる人は、人の気持ちを想像でき、相手を尊重できる人。
他人の意見を聞かない人は民主的ではない。一方的に、力で物事を決めてしまういわば官僚的な人物なのだ。

安倍さんは私と同じ午年生まれだと。
私はいまだに自分が未熟だと感じる中高年。
幾千万の人々の犠牲の上に生まれた平和と民主主義、基本的人権を瞳のように大切にするこの憲法を、「自分の責任で」変えるという。
KYでは済まない。恐ろしい人物だと思う。

東南アジア諸国連合(アセアン)は、やく6億人が加盟する地域協力機構だそうで、政治や経済について話し合っているという。欧州共同体(EU)もそうだが、各国が協力し二度と戦火がないように、さまざまな形で結びつきを強めているそうだ。
アセアンでは、年間の会議が1000回を超えている。すべてのトラブルを話し合いで解決することを基本としている。
これが民主的な国の在り方だと思う。
そういう実態は極力知らせないで、中国、韓国、北朝鮮の挑発をのみ取り上げ「国民を守るためには」という口実で「憲法改正」をあおる。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
単純明快に書かれている9条の条文をしっかり守ってほしい。
憲法は、侵略戦争を起こした日本の権力者たちを縛るために作られた国の最高法規。時の政府は、それを守るのが務め。
その時々の内閣の人たちによって、簡単にかえてもらってちゃあたまんない。

やはり、一言だけは言っておかないと。重い気分で。

「どっこい」30周年記念公演

ひと月前のこと。和太鼓・民舞サークル「どっこい」の創立30周年を記念する公演が開催された。
私は、創立者の一人として、ぜひぜひ参加してほしいという熱い申し出を断りきれず、大阪へ。

思えば、私が29歳のころ、当時はまだ珍しかった和太鼓に魅せられて、プロの演技団の研修生になった。
仕事を終えた疲れた体で、一年ほど通い続け、同時に大阪門真市の速見小学校を拠点として、太鼓サークル「どっこい」を立ち上げた。
3周年、5周年記念公演を開催する中で、和太鼓や民舞を志す仲間が広がっていった。
門真市では、サークルに入っている保育園の先生たちの働きかけで、全ての園で太鼓が普及していく。小学校や中学校では、運動会・文化祭では生演奏の民舞や、力強い和太鼓演奏が数多く取り組まれるようになる。
どっこいとしても、多いときは、私も年間30回、さまざまなところで演奏をした。
わたしにとって「どっこい」は青春の輝きそのものだった。

今から27年前の写真。どっこい創設期のころ。
皆さん、若い。以前の折々帳でも載せたが、昨年の夏に、わざわざ大阪から塚原に駆け付け、「傘踊り」の「強制練習」(笑)をしてくださった、大田さん、辻奥さん、堀田ちゃんの顔も見える。
わ、わか~い!

さる4月27日大阪門真市のルミエールホールで公演は開かれた。お客さんは1000人。
どっこいは、大阪の他のサークルとも連携しながら、このような大きな取り組みをすることができる。
いったん男が「行く」と言ったからには、ひるがえすことはできない。
4月27日は、ゴールデンウィークの稼ぎ時。そんな中で、ママや従業員さんにお店を任せていくなんて。ちょっと考えられない行動。
しかし、私の人生にとっては、天秤にはかけられないほど、大切なものなのだ。

ただ気がかりなことはお店のことだけではなかった。
それは、「傘おどり」。
どっこいOBとしての演目が10番目。
練習用としてくれたDVDを見ながら、部屋で練習をしたりはしてたが、
なかなか、うまく踊れない。

そうこうするうちに、私の最後の舞台となった2000年記念公演のことを思い出した。
この時も、会場1000名を超える満席状態だった。そのフィナーレを飾る演目は「八木節」。
舞台中央でたるを叩き歌を歌うは、私だった。
そこで、私はミスをした。
歌詞を間違えたのだ!

あ~なんていうへまを!!!
それが、私の和太鼓人生最後の舞台だった。

それから14年。八木節のトラウマが現れだした。それは公演1か月前ぐらいになると、仕事も手につかなくなるほど(ちょっと大袈裟か)。
とにかく、みんなに迷惑を掛けられない。下手でもいい、最後まで踊りぬくぞ!

大阪に向かうフェリーの中、体がぼろぼろの私がいた。仕事でも相当疲れている。
お酒を飲んでもあまり眠れなかった。朝の顔はひどいものだった。腫れている。

通いなれたルミエールホールに着く。懐かしい!
どっこいのみんなに会う。うわー、かっけー!!
久しぶりに芸能人みたいな感覚。しかし、舞台のそでに立つと、ピリッとしてくるから不思議。


出番は3回。
1.傘踊り
2.どっこい創立当時のエピソード紹介
3.フィナーレ全員踊り

肝心の傘踊りの出来はどうだったかって。
途中、回転でふらついたものの、何とかみんなについて行ったかな。

良かった!

その夜の打ち上げは盛り上がりましたよ。
参加している人が60人くらいいたかな。
懐かしき人たちや若い人たちと、久しぶりに和太鼓民舞を語り合った。
でもサークル一番の宝は、人生を豊かにしてくれるということ。その本質は、人との絆、友情。

新しい家族

久々の更新。ネタがたまりすぎて、困っています。何から書いていいのやら。

実は、我が家に新しい家族が来て5カ月が過ぎています。今ではしっかり家族の一員となり、自信を持って紹介できる時が来たようです。

その家族の名前は、「リー」。地域猫の子。
この子の前にももらってきた子がいたのですが、段ボールを開けた途端に、押し込められていた恐怖からか、一瞬で逃げて行ったことがあったのです。
だから、この子がやってきた11月から、(どこかへ逃げ出さないか)と恐る恐るの子育てを続けてきました。
リーの出身は、湯布院の卵屋さんの畑あたり。卵屋さんの畑に住んでいる地域猫の集団の中からつまみ上げた一匹。卵屋さんのオッチャンが「この子は、よう人によって来て、いい猫や。メスやけん、おとなしいし。」と言って私に渡してくれました。

やせ細って、よわっちそうな、猫。声もほとんどでない。家に連れて帰っても、椅子の上でじっとしていて、2~3日ほとんど動かない。ご飯もほとんど食べない。段ボール箱からすごい勢いで逃げ出したあの猫とは対極の存在みたい。大丈夫なのかな、死なないかな…心配な日々が続きました。

か細いけれど、美人。白い毛並みがいい。目はブルー。名前は、はかない美人のイメージで「リリイ」(百合)と命名。

元気がない日が続くので、動物病院で見てもらうことにしました。
先生は、まあ大丈夫でしょうと言われ、さらにこう続けました。
「この子はオスですよ。」

「ええ~!!」

帰って、ママと相談。名前を考え直そう。
「う~ん、そうだ、リーがいい!」
リーはいい名前です。オニパンで以前働いていた「リー君」ともかぶるし。

リーは、動物病院でもらった薬を飲みながら、徐々に元気に。

こうして、早五カ月が過ぎました。
リーは今、とても元気な男の子に育っています。

猫好きな人と犬好きな人がいます。私はどちらかというと、犬派。この23年間ワンちゃんと過ごして来たからでしょう。犬は優しい。
でもリーと過ごすうちに、猫好きな人の気持ちも多少わかるようになっています。猫は、面白い。本能で生きているんですよね。自分が生きるために、多少人に従うふりはするものの、全ては自分のために行動している。猫に関わる言葉から、猫は決して人にとって良い印象を与えて来なかったことがわかります。「猫なで声」「猫かぶり」「猫に小判」等々。
猫の運動能力の高さに、驚きと憧れを持ちます。さすが、ネズミを捕まえるだけあるなと思います。お年頃もあるのでしょうが、現在は、家の中で大暴れをしています。

我が家の夜は大変な騒ぎとなります。それは、コリー犬の「コーちゃん」が、寝るために家の中に入ってくるからです。はじめは対面させないように、リーを別の部屋に入れてコーちゃんを家に上げていました。ひと月ほどして、二人とも家族なのだから、共生できなければと思い、対面させることに。
コーちゃんが噛まないかなと心配したのですが、それはあり得ないことでした。コーちゃんは、ほんと優しい。黙って尻尾を振ってリーとご対面。一方リーは、身の危険を感じてか、小さい体を1.5倍くらいにして、毛を逆立てます。
そんな日が何日かたって、慣れてくると、リーはちょっかいを出すようになりました。
でっかいコーちゃんに対して、「猫パンチ」を出すのです。まあ、本気ではないのですが、遊びたいのでしょう。
その猫パンチを見て、怒るのはコーちゃんではなく、ママ。「こら、コーちゃんになんてことをするの!」本気で怒ってます。パチンとリーを叩きます。
コーちゃんは戸惑って、猫パンチをうまくよけるのですが、怒ることもしません。
ゲージに入ったコーちゃんを柵の隙間から手を入れて、コーちゃんに猫パンチをします。
なんていやらしい!根性悪!またママが怒っています。

根性悪のリーは、勘違いをするようになりました。あのでっかい犬さえも自分に逆らわない。自分は結構強いのだと。コーチャンへの嫌がらせは毎晩続きます。コーちゃんにあげたパンを横から奪い、食べることもせず、サッカーボールのように足でけりまくって遊びます。

ところが、ある日、家の外に出て遊んでいるところへ、大きな地域猫がやってきたのです。リーは、縁の下でその猫へ「ウ~」と警戒の声を出しています。私は大きな猫を追い払いました。それで事が済んだと思っていたら、その猫はまたやってきていて、リーとひと格闘したようです。
リーは、左前脚をかまれ、血を垂らしていました。それから2日ほど、元気をなくし静かにしていました。前足が異常に腫れ、動物病院でレントゲンを。
それから一週間ほどして、怪我が治ってから、再度喧嘩。今回は、地域猫が家の中まで入ってきたようで、家の中が荒らされ、床に血やうんこがこびりついていました。私たちはリーが相当ひどくやられて、どこかで死んでいないかと、ママと二人で懐中電灯を照らし真っ暗な外を探しました。「リ~、どこや~」「リ~おいで~」どこからも反応ががありません。
家に帰って途方に暮れていると、あれ!なんと、目の前の椅子の上に黙ってうずくまっているリーが。私たちが大騒ぎしているのに、リーは落ち込んで椅子の上でじっとしていたのです。
大きな猫との戦いはとても恐怖だったと思います。体にうんこを付け、怪我もし。翌日はお風呂で体を洗いました。
それからというもの、コーちゃんが家に入ってきても猫パンチをしなくなりました。自分のことが多少わかってきたからだと思います。それと、外に出る時も、絶えず危険の少ない場所を選んでいるようです。たとえば、コーちゃんのハウスの屋根の上にいたりとか。

それでも、誇り高いのか、気が強いのか、喧嘩は弱いのに3回目の喧嘩をしました。3回目はうんこもう少しだけで、怪我も少なかったです。喧嘩の仕方や逃げ方も上手になっているのかも。

いつもこんな状態で、のんびりしているリーちゃん。

リーちゃんの長所は人を信頼しているところ。
人を見ると、近づいて行って甘えます。
オニパンに来るお客さんにも絶えず寄っていきます。それで、近頃は人気者に。
看板猫として、子どもや猫好きな方と遊んでいます。
昼間はそんな形で、結構、仕事に精を出す日々です。
バイト料は出していませんが。

左の写真は、二日前、リーを気に入った写真家がボタン桜の下で写してくれたもの。
なかなかいい男になってきました。

オニパンカフェ リニューアル(下地塗り)

オニパンカフェのリニューアルが終了しました。
11月より始まったリニューアル。はじめに厨房拡張工事。そして外装も昨日終わりました。
せっかく厨房を広げるのだから、ただ大きくするのはもったいないと、塗装屋さんと相談して、ヨーロッパ風のシャレた色合いを考えました。
塗装屋さんは、とても研究熱心な方で、私たちに自分の考えを提案してきました。
「自分の思うようにしてください」とお願いしました。

昨日は少し雨模様の一日でしたが、朝早くから仕事に取り掛かって、私が帰ってきた夜には完成していました。
その、最新のオニパンカフェの外観をアップします。

正面玄関からの様子。
ピンクっぽい部分が、拡張した厨房です。

側面からの様子。
茶色の木戸から、厨房へ入れます。
大型の機器を搬入する場合等に助かります。
夏の季節など、戸をあけて、網戸にして作業をします。
厨房からは、夜明けの空や美しい日の出をリアルタイムで見れて、一日の元気が湧き出てくる一瞬でもあります。

後方からの様子。
こちらから、厨房に直接入ることができます。

実は、完全に終了したわけではありません。
これは、下地塗りの段階です。
この上に、表地を塗ります。
その際に、デザインをあしらえます。
左官の技法にはいろいろとあるようで、
下の写真のように塗るそうです。
これは、一部だけ実験的に塗っていただいたものです。この塗り方で、外壁の雰囲気が大きく変わるようです。たのしみだなあ~。

ついでに、別府への販売用も含め、お店専用の車を購入しました。わが愛するサンバ―トラックを泣く泣く売出し(高値だったなあ)そのお金で買った中古車、バモスホビオ。
オニパン号です。
ナンバーがイカシテいます。分かりますか。
「イイオニ」。

 

これは何でしょう。その2 №126

近頃固い話が多い折々帳。パン好きな方たちからすれば、パンに関わるちょっと興味深いお話も時にはほしいものです。今回は正統派で行きたいと思います。

折々帳を読み返すと№105に「これは何でしょう」というタイトルのブログがありました。
今回は、続編です。

パン屋はスピードが大切。そのためには、仕事の効率を上げること。そのためには道具なども工夫開発を心がけること。

こうして、オニパンには結構目新しいものが登場してきます。

発想は子どものころからの体験や学習、そして今現在の日々の仕事の中での気づき。私の場合、朝の目覚めのベッドの中での妄想。

この道具(設備)が生まれて、仕事がとてもやりやすくなりました。

さて、私は何でしょう。なんか昔のNHKの番組にありましたね。「私はだれでしょう」高橋圭三アナかな。

まず普通に思いつくのは、作業台。あたりです。メンダイが見えますもの。
これは、下にキャスターを付けて、移動できるようにしています。便利です。

さらに便利なのは、

作業スペースを広げることができること。
メンダイは結構値段がします。広げた板の上にも生地をのせることで、広いメンダイを購入したことと同じ値打ちが出てきます。

もちろんこれで終わりというわけではありません。
狭い厨房にとって、役に立つこの機能とは・・・・。


わかりますか、これ。
なんか時計みたいなものが、そして中に入れそうな扉が・・・。

そうなんです(わかってない方も多いかも)、
これは台下発酵器。多分そんな名前の商品はないと思います。日本中でオニパンにしかない道具では。
見えている時計みたいなものは私がホームセンターで買ってきた温湿度計。

中の仕組みが見たくなってくるでしょ~!?

実はこれも大したものではなく、小学校の時、パン作りでよく活用されていたコタツの方法を取り入れたものです。


コタツヒーターを中に入れ、この発酵器の壁は、四方に断熱材を入れたつくりにしています。

ヒーターの上に分厚い板を持ってきているのは、番重に入れた生地などに直接熱が当たらないようにするため。

ヒーターの目盛を5くらいにしておくと、発酵器の中はほぼ30度くらいで推移します。

ドーコンやホイロの設備をかうことを考えれば、費用は2~30分の一で済みます。

2次発酵で必要な湿度の確保ができる状態にすること。たとえば、食パンケースはラップするとかの工夫は必要です。番重に入れておけば、生地は乾燥しないので、分割後のベンチタイムなどに利用できます。

チャアチイ~とバカにしないでください。これでも十分においしいパンをつくっています。


左の写真のように、必要な時にコンセントにつなぎます。

台下発酵器は、折々帳№105「てんぱんワゴン」と同様、家具職人上田さんにお願いしました。
こちらの考えをうまく形にしてくれ、有難いに尽きる作品となりました。