チャレンジ №109

年甲斐(年齢にふさわしい思慮分別)もなくではなく、この年になってきたからこそチャレンジせねばと思った。
なんのこと?それは、マラソンのレース。
パン屋にとって、大事な要素はパンへの情熱。もちろんそれは基本。
しかし、この折々帳でも何度か言ってきたが、前提として体力あってのこと。
パン屋にとって最も必要な要素は、足腰の強さ!
それが最近、自信を無くしかけている私である。

ママはこの1月3日、還暦同窓会ってやつに参加するために、いそいそと身づくろいして出て行った。
そうなのだ、もう還暦がまじか!
定年制のないしかも創造的な仕事として、パン屋にあこがれ、パン職人を目指したのではないのか。しかし現実は、寄る年波にもまれもまれ、「足が痛い」「腰が痛い」の日々。
これでは、70過ぎまで働くことができそうにない。
私は年をとっても第一線で活躍する日野原先生や山田洋二監督にあこがれる。
せめて、70過ぎまでは第一線でパン職人として働きたい。

35歳ごろ2度ほど入院した。過労での頭痛。くも膜下出血寸前みたいな状況。恐ろしい痛みにもうダメ!みたいな。37歳ごろ念願のワンちゃんを飼った。ハスキー。名前は「康平」。このコーちゃんと健康のためジョギングを始めた。コーちゃんがいたから、3日坊主の私もジョギングを続けられたかなと感謝している。
ジョギングを始めた人がどんどん深みにはまっていくコースに例外にもれず私もはまり込んでいった。
始めて半年後10キロレースに出る。感動、感動。
それから、ハーフマラソン、フルマラソン、駅伝の選手などもやった。
いえ、勘違いしないでください。そんな速いわけではないのですから。駅伝というのは、淀川沿いを走る、ローカルなレースがあり、大阪枚方市の知り合いが始めた「ルンルンシックス」というチームに参加したわけで。そのチームのすっごく速い選抜選手6名は、その大会でも毎年入賞をはたす。私は4チームのD(つまりAからDまで)で走る。

そして50歳を最後にレースを遠のいた。
感謝している。私が前職を30年続けることができたのは、ジョギングのおかげだと思っている。
子どもたちと走っても、負けることはなかった。体力的な自信は、精神面にまで影響する。
子どものレベルまで下がって、一緒にいろんなことを楽しむことができた。
(体力がなければダメって言ってるわけじゃあないんですよ)

ジョギングはパン屋になるまでは続けてきたが、パン屋になってからは、なかなか時間が取れず、以前のようにはできていない。
その結末なのか、足腰の痛み。そして半ば自信喪失の私なのである。

還暦を前にして、目標を立てた。
よし、毎年マラソンのレースに出るぞ!
11月ごろ立て続けに見た「日本列島縦断、最も過酷な山岳レース」や「三浦雄一郎の挑戦」などのテレビ番組。そして、68歳にして東京マラソンに挑戦するママの実兄の姿。
彼らがやるのに私に出来ぬはずがない、という単純な感動性の性癖が災いしているのかもしれないが。

九州のマラソンレースを探した。パン屋がお休みの1月6日の日曜日。レースは必ず日曜か祝日。パン屋が忙しいのは必ず日曜か祝日(涙)。
ない!仕方ない、関西方面まで範囲を広げてと。
ありましたね。大阪堺市の大泉緑地公園でのハーフマラソン。
ちょうどいい、久しくあっていない大阪時代の同僚とも会おう。

計画はいいが問題は練習。マラソンはどれだけ準備したかが大切。たとえばフルマラソンを走ろうと思えば、月最低200キロから300キロは走れないと完走はできない。逆に言えば、練習ができていれば誰でも完走できるのがマラソン。能力の問題ではなく、努力の問題。それがマラソンの人間的たる所以。

私は11月までに体重を現在より2キロ、12月中にもう1キロ減量しようと考えた。
そして、お店から、1キロごとに距離を測り、目印の杭を10キロ地点まで埋め込んでいった。こうして練習コースを整備した。一応11月は週に2回ぐらい走った。スピードは走るというより歩くっていう感じ。12月に入って雪が降ったり、年末は宮崎のパン屋さんへの研修などいろいろと用事があり、練習量が減る。忘年会や気の緩みでおいしいものをたくさん食べ、体重は以前と変わらず状態にもどる。
1月3日とても寒い一日。塚原は凍っているので、別府まで下りて別府公園で練習。そのとき、体がアップできてないのに走ったからか、6キロくらいで膝が痛くなってくる。
「やばい!!痛めたか。」

膝を痛めてしまった。情けない。1月4日5日と練習もできず。
船のチケットは早くからとっている。レースの参加料も払っている。同僚に連絡したら、1月6日は新年会を準備してくれている。
一部の人たちにも、「ハ~フマラソンに出るんだ!」なんて口にしてしまっている。「すご~い、がんばってね~」なんて、言われたりもしている。
今さらやめるわけにもいかない。(涙)

ネットで膝痛をカバーするテーピングの仕方を調べ、テープを買い込んで、船にのる。
1月5日の船は満席で、室内が異様に暑い。う~眠れない!!

1月6日大阪に着いた。堺市の大泉緑地へ向かう。会場は知らなかったが、スポーツウェアに身を包んだ多くの若者や中高年の人たちについていけば自然と会場に運ばれていく。
おお!なんかいい気分。清々しいというのか、凛として、身が引きしまる。
私もランナーの中にいる。仲間だ。その一員という気分が何とも心地よい。こんな気分久しく忘れていた。

会場ではすでに練習をしている人たち。
天気も良くマラソン日和。
ただ、私の方は右ひざがテーピングで固定されていて、つらいものがある。

公園の周回コースで1周が3キロちょっと。
当初の目標としてはキロ7分ペースで走り目標タイムは2時間30分。しかし、今の状況としては、3周から4周走れればよしとするか。


ハーフマラソンの部は参加者750人ぐらい。
50歳代130人ぐらい。
いよいよスタートの号砲(アナウンス)。
キロ7分のペースは、速足より少し速いペース。そのペースで走っていたら、私より後ろにいる人は3人ぐらいだったか。つまり、746位ぐらい。上等上等、走っているのだ。走れているのだ。でも最低3周は膝が持ってほしい。10キロ走れたら立派だ。

3周走れた!膝は多少痛いが、キロ7分のペースで走れている。もしうまくいけば5周走りたい。そうすれば、15キロ。この距離は9年前のレース以来の最長マラソン距離となる。練習でも14キロまでしか走れていない。

膝が痛い。しかし、5周走れた!!無理しなければ、あと2週ぐらい持つかもしれないぞ。
私は15キロを超えた時点で、とてもうれしくなった。しんどいけれど、この一歩一歩が新しい未知の世界に踏み出しているのだっていう感じか。もしかすると完走できるかもしれないという期待感か。苦しさが心地よいというか。

6周を過ぎる。もう確信めいた勢いで、なんとしても走りぬくぞと気力がわいてくる。6周目を走っているとき「がんばれ大分」とかなんとかいう声が聞こえたような。
そして7周目の途中、はっきりと「がんばれ大分!」と聞こえてきた。男性が私を応援している。
私は知らなかったのだが、大分から参加している人は私一人だったらしい。その男性は豊後高田出身で、私のゼッケンを探していて、6周目ぐらいで見つけ、声をかけてくれたとのこと。
そんなこんなで、私は痛みと感動で7周目力を振り絞ることができた。

ほんと不思議なのだが、力を使い果たしているはずの最後の200mくらい、信じられないようなスピードが出せる。充実したレースで、何度も経験してきたことだ。今回、痛めている膝ではあるが、すごいスピードで走れた。

ゴールしたあとじわっと目に涙が浮かんできた。
うれしい。

完走賞を手に記念写真。タイムは2時間23分!全盛時よりずいぶん遅くなったが私の中ではベストタイムだ。

お隣の方が励ましてくれた大分出身の方。
彼は60歳からマラソンを始めたとのこと。来年は70歳。

良き出会いだったなあ。
大阪に来てよかった!!

「らいふのぱん」で研修 №108

宮崎に住む高校時代の友人姫野君が「らいふのぱん」というパン屋さんを紹介してくれた。
それは、一年ほど前のこと。私は、さっそく連絡をとって、「研修」のお願いをした。
あこ庵やパン学校で勉強したといえど、ほぼ我流の域を出ない私のやり方に新しい刺激が必要だと感じていたからだ。
電話口に出た「らいふのぱん」のママさん。「研修?いいけど、今新人を鍛えているから4月以降がいいね。その時はうちに泊まりなさい。」
なんと門戸の広い、気さくな方だと少々驚く。
そして、ほぼ一年後、研修が実現。

オニパンにも宮崎からお客さんが来ることもある。尋ねると「らいふのぱん」のことをみなさん知っていた。そして付け加えて「ママさんがとてもエネルギッシュで気さく!」と口を合わせておっしゃる。(へ~そうなんだあ~)

方向音痴の私は12月26日一人で宮崎に向かった。いつもは隣に「地図好き」なママがいて、やかましく私に話しかけてくる。それに頼って運転してきた私は、いつの頃からか、まったく地理や方角に無頓着になってしまった。

自立しかけた子どもに、「愛情たっぷり」お世話をしてくれる母親のごと、手取り足取りお教えするママのおかげで、私は一人、車で旅することができなくなったわけだ(と自分的には解釈している)。

宮崎の姫野君が(彼はとてもまめな人のようだ)宮崎市に着くまでのルートをメールでよこしてくれ、私はそれを頼りに一路宮崎へ。

大分自動車道の米良インターで降り、中九州横断道路で千歳まで。そこから豊後大野市市役所方面へ。やっぱり道に迷いかける。まったく反対方向へ進もうとしていた。それに気づいたのは太陽の方角。よ~く考えれば宮崎は大分から見て南。だのに、進んでいる方角は太陽と反対。さすれば、宮崎から離れていくことになる。わたしは何か宝を探し求めるインディージョーンズになった気分で、南へ進路をとった。

ただただ太陽へ向かって走れ!お日様ありがとう、出てくれていて!!326号線もその後の10号線もずっと太陽がお導きをしてくれた。大分から宮崎へ入る手前はもう、ほんと、山ん中。
そこで、生まれて初めて(道中ずっと生まれて初めて状態なのだが)宇目という有名なところを通った。天気予報で我が湯布院と最低気温で争って、ときどき湯布院が負けているところだ。
私の中では、(宇目ってすげえさむげなところだな。どんなところだ。)と気になっていた場所。
やっぱり、すげえ。山がずっと続いている。時々牧場みたいなところの看板。ええっ!まいったね。イノシシ牧場か。

4時半ごろらいふのぱんに到着。優しそうな社長の山路さんが出迎えてくれた。従業員が20名以上もいて、パン販売のみならず、ランチ、ケーキ菓子、お野菜まで売っている。食の安全・有機野菜などの運動を30代より続けて来られた社長夫妻。その関心が次々と広がる中で、お店の販売商品も広がり続けているわけだ。

20年以上毎年ヨーロッパの旅を続けているとも仰っていた。旅行ではない旅とのこと。バックパッカーだそうだ。着いた場所で安い宿を探す。巡り合ったうまいレストランで料理を教えていただく。あまり通じない中学英語とボディーアクションで調理場の手伝いをしながら、本場の調理法を教えてもらう。話を聞いていると、信じられないような経験をされている。すごい人がいるものだ。世界は広い。井の中の蛙状態の私。

社長と交代で専務さんがお話してくれた。その専務とはママことまり子さん。想像した以上にエネルギッシュで深い。まり子さんのこの行動力がらいふのぱんを20年以上維持発展させてきたのだと思わせた。


「あんた、お腹すいとってやろ。パスタ食べていかんとね。」(確かこんな感じの宮崎弁)

本場イタリアのパスタ調理法も教えてくれながら・・・。

なんと気の置けない人たち。そして相手への思いやりとエネルギー。

あっという間に作ってくれた海鮮パスタ。
おいしかったあ~。

その夜いそいそとお泊りの「レマンホテル」へ。格安料金の部屋があったので、一か月ほど前から予約しておいた。早く寝ないと。明日は朝3時から研修。2時には起きてと。9時前に就寝。しかし妙に暑苦しい。そして外の車の騒音。上の階の足音。トイレの水の音。

エアコン設定が27度だった。しかし温度を下げても騒音は一向におさまらない。私の住んでいる塚原高原はあまりにも静かすぎた。ここが普通なのかもしれないが、たまらない。なるほどちょっと高級そうに思えたホテルにしては一泊2800円というのは安すぎる。つまり訳ありなのだ。

待てよ、これって以前東京で研修した「ナチュラル・プクー」の時とおんなじではないか。あの時は安いからとネットカフェに泊まった。その大変な環境のおかげで眠れずに研修へ。
今回はあれから6年過ぎている。つまり50代前半の体力と60前の体力の違い。きついぞ。
気が付けば朝の2時。研修は3時から。まいっか。なるようになるさ。しかし、安物買いの性格は何歳になっても変わっていないのか。

3時前にらいふのぱんに着くと、すでに作業に入っていた。朝は二人の職人さんが仕込みや生地の分割などの作業をしている。厨房はオニパンの3倍はある。ほかに貯蔵庫やパンの仕分けをする場所がとても広い。できたパンはこのお店で売るだけではなく、ロバのパン屋さんのように宮崎市を3つに分けて、外販に車で出かけていく。だから、パンを袋に包んだり、仕分けしたりと大変な作業をしている。


やっぱパン職人は立派だ。ペラペラおしゃべりして油を売る人なんていない。当たり前か。黙々としかもスピーディに働く。気持ちがいい。製造は交代制で10人以上いた。
社長さんのお話では、その中に障害のある方も二人。大事な部署を任され、しっかりと仕事をしていた。

できたパンを袋づめしたり、ラベルを貼ったりして仕分けをしている。

かわいいらいふのぱんの販売カー。


中はパンだけではなく、ケーキや、野菜もある。棚も引き出しのように出てくる仕掛け。
厨房でも感じたが、必要は発明の母。20数年のキャリアはいたるところで工夫を生み出している。
わたしも、帰って、さっそく日曜大工に取り掛かった。色々と仕事上でのヒントをいただいた。

働いている人がみなさんとても気持ちの良い方々だった。
二人の若い女性がいたが、一人の方は高校を出て8年働いているという。
普通パン屋では3~4年ぐらいで職場を変わる人が多い。
一つのパン屋で長く働き続けるというのはきっといい職場なのだ。
社長さんそして専務さんは職員をとても大切に扱っている。生協運動から仲間を大切に育てるということを学んできたからだと思う。
すごいと感じたのは、労働時間と休憩。週40時間制を守り、一日8時間勤務。しかもその中で1時間20分の休憩をとらせている。
ありえない~。でも、そういうパン屋もあるのだ。
私の場合は・・・・14時間以上の勤務。続けるということは、続けられる勤務のあり方と一体不可分。 

お昼の時間になった。社長さんまり子さん、そして姫野君とママでお食事会。ドイツ仕込みのソーセージのうまいこととといったら・・・・。よだれがたくさん口の中で・・・。

2階はランチスペース。
写真を撮ってくれたのは姫野君。
右がまり子さん。私の隣が山路社長。
経営についてもいろいろと教えていただいた。

高校時代の友人姫野君の容姿も載せておこう。彼の厚意で今回の研修が実現した。
彼は長くスペインで生活もしていた。
奥さんに代わって、夕食など作っている。えらい!彼の得意とするスペインの「パエリア鍋」を食べてみたいなあ。

そんなこんなで、充実した研修を終えた。行きは緊張していたからか、道も間違えずに行けたわけだが、帰りはママが運転してくれた。私は隣で道案内係。役割分担が間違っていたのか、豊後大野の326号線にはいかず、佐伯の蒲江方面へ。そこで、ママが切れる。
運転が荒れる。ママは口は立つが、運転は下手。あぶない!
そこで、私が運転することに。4時間チョイでたどり着けるはずが、6時間かかって湯布院へ。
60前にして超人的な体力を使うことに。まあ、自業自得か。
それにしても、いい旅だった!
ありがとうございます。宮崎の皆様!


らいふのぱんの建物。敷地は120坪とのこと。

ラジオ出演№107

このところメディアへの露出が増えている。11月から数えて3回。
それもゆふいんラヂオ局。

今までも取材でテレビやラジオに出たことがあったが、ラジオ局のスタジオに入ったことはなかった。それが、先週が私、そして今日ママがラジオ局に生出演の運びとなった。

FMゆふいんラジオ局は、湯布院の鳥越地区にあるアルテジオ美術館内だ。
 アルテジオにも一度も入ったことがなかった。湯布院にいながら、イナカッペの私たち。
これで夫婦そろってやっと湯布院市民になれたかな・・・。
まあ、アルテジオを宣伝しているわけではないが、以前より気になっていたスポット。
12月4日(火)午前10時30分。ちょっと心ときめかせて、アルテジオ美術館へ。

サインもシャレてますね。アルテジオには、美術館、ラジオ局、カフェ、チョコレート工房などがある。

サインボードの横にある階段を上っていくと、コンクリの狭い壁に挟まれた階段があり、その先が美術館の入り口となる。
壁には大胆に落書きのようなペイントがほどこされ、いい雰囲気が漂う。

放送局に入ると、小さなテーブルが二つあり
そのうちの一つに腰掛け、打ち合わせまで、
出されたコーヒーを飲みながらくつろぐ。

このテーブルの右側はパーティション(仕切り・ついたて)があり、その向こう側の部屋に二人の若い女性がテキパキと仕事をこなしていた。
この年になると(職業柄なのか?)、他人の仕事ぶりが気になるのか、ついつい観察してしまう。放送局の仕事などは、職人の世界から見ると、いとも高度でスマートなものなので、気になって仕方がない。
見ているだけで、(ふ~ん!)とか(へえ~!)とか心の中でつぶやく自分を発見する。

打ち合わせを終わり、いよいよオンエアー。何とか10分間をやり過ごす。
それにしても、パーソナリティーの方は、大変なお仕事だと思う。初めて会う方でも、上手に話しかけ、視聴者にどんな情報を発信していけばよいか、そのポイントを的確に聞いてくる。
こちらは慣れていないし、若い女性と面と向き合い微笑みながらお話するなんて、そんなシチュエーションは人生中にかつてなかったわけ(若いころはきっとあったんだろうけど、忘れてしまったのかなあ)で、なかなかお顔をしっかり見ることはできなかった。

終わって記念写真を。今この写真を見て、
おお、なかなかの美人さんだと理解。
スタジオにはもう一人、若いしっかりした、オペレーターさんがいた。
難しそうな機械を相手に秒単位の進行を指示していた。
放送局に行って、設備や機会にも目を奪われたが、なんといっても、
働く若い人たちの姿が心に残った。
なんか、社会見学の感想文みたいだな。

九重山系は素敵だ№106

秋の紅葉もいよいよ終わりだ。年を重ねるたびに自然の美しさが身に沁みてくる。
若いころは、喫茶店でコーヒーに煙草、そして漫画。自然の中に足を運びたいとは、考えたこともなかった。40代のころより妙に自然を意識しだした。土にかえる自然の一部である私たちは、死が近づくほどに、自然との一体感を感じだすのかなあ。私も年なのだ。
まあそれはいいとして、このホームページが故障していた10月のころ、私とママそして山の良きパートナーである「12の月」(塚原の手作りハムレストラン)の女将とは、休みのたびに山へ行っていた。
一つ一つ詳しく書く余裕がないので、ここにまとめて簡単に記そうと思う。

①猪ノ瀬戸(いのせど)方面より鶴見山登頂 8月8日

この時は、若い娘さん(12の月の女将の娘)が同行。若いだけあって、軽々と斜面を登っていく姿に、こちらは年を意識せざるを得ませんでしたね。

②花牟礼山(はなむれやま)1170m 9月12日

放牧場の中を通って山頂をめざす。
けっこう道には牛糞がある。それをよけながら登っていく。山頂近くは丈の高いススキ(?)が群生し、足を取られ、ママは3回転んでいた。
頂上にはこんな石の記念碑が。

③扇ケ鼻(おうぎがはな)1698m 9月19日


牧ノ戸登山口より久住山を目指すルートで登る。この日はあまり時間がなかったので、短時間で景色の良いところはないかと、ここを選ぶ。山頂付近はなだらかに広いお花畑が続き、最盛期にはたくさんのお花が咲くことが予想された。

④中岳1791m 10月3日

大きな勘違いをしていた。私は「クジュウサンは、素晴らしい!」という言葉を昔より聞いてきて、何度か久住山に登った。しかし、お隣にある中岳は登ったことがなかった。だって「クジュウサン」でないから。しかし、九州で一番高いというのは以前より気になっていた。ちょっとしんどいだろうなあと思いながら、意を決して、登ることにした。特に中高年の女性お二人が一緒なので(はたして・・・・)との戸惑いがあったからだ。

大きな勘違いは、登ることによって、目で見、心で感じることによって、おのずと氷解した。
それは、大きな感動だった。素敵だ!中岳は九州一高いだけあって、周囲の展望も最高。
高度を上げるに従い、近辺の山々が幾重にも重なり、雄大な山容をあらわにしてくる。

なるほど、この美しさ、これが九重山なのか。久住ではなく、九重なのだ。いくつもの山々が
一体となりここのえに重なり、人々の目に、人々の心に迫ってくる。
私は何度も何度も振り返り、その美しさに目を奪われる。
その日は、この上もない青空が九重山の上に広がっていた。

 この一直線のやまなみハイウエイ。ここを通るとき必ず立ち止まるスポット。
突き当りに見える、かすかな煙は硫黄山の火口付近から立ち上るもの。その左は三股山。そして右は星生山(ほっしょうざん)。
目指す中岳は、硫黄山の左奥。三股山の西峰に隠れて見えないのです。


今回は、小国の聡子さん(オニパンのお手伝いをしてくれた方)も誘って、4人で山行きです。中岳の手前の天狗ケ城(てんぐがじょう)でお昼ご飯。
後ろに見えるのが三股山。次回は三股山を予定。


この写真もきれいですが、本当はず~と広く素敵な景色が見えています。カメラで撮ると、こんな風になるので、残念です。


中岳の下方に位置する「御池」上から見ると
コバルトグリーンのとてもきれいな池です。
久住山方面ではこんな景色は見られません。
う~なんて素敵!

ススキの絨毯。


九州最高峰で記念写真。
ここからの眺めは、何とも言えません。360度丸々見えっぱなし。邪魔するものは何もない。
九重山群の悠々たる景観は見事の一言。

⑤三股山1744m 10月24日

紅葉の三股山。中岳に続き感動。


硫黄山です。噴火口みたいなのがあって、そこからモクモクと噴煙が上がっているのかと思っていましたが、実際はこんな感じで煙が出ているんですね。


三股山の取付点。石でできた立派な避難小屋。ここから西峰に一気に登る。

 三股山はどちらの方角から見ても、三つの山が見えるのです。だから、三つの頂があるのかと思ったら、それは違っていました。
四つあるんです。その一つ一つを制覇しようと思いましたが、時間の都合もあり(ほんとは体力の都合)三つだけにしときました。右は一つ目の制覇。西峰です。これが一番きつかった。

二つ目の制覇は、本峰(1744m)。本峰からは、我が由布岳もはっきり見えていて、その形がまるでオニそっくり!二つのツノがしっかりついています。
眼前に北峰が!そのきれいなこと。紅葉で山が染まっています。本峰を制覇しないとこの美しさが見えないのです。
苦労して、汗を流したものでしか、この感動は訪れない。世の中よくできたものです。


北峰は、制覇しませんでした。ちょっと見ただけで、(うう険しい!)岩場が目に入りました。これは、眺めるだけがいいや。

本峰です。結構広々としています。3人そろって記念写真を。

南峰も制覇し、帰路へ。長者原に下りながら、振り返ると三股山がずっと見送ってくれていた。とても素敵な山だ。中高年の登山客も多く、賑わいの山行きだった。

これは何でしょう?№105 

これは何でしょう?

アルバイトで来ている方が、「マスター、箪笥がありますね。」と言いました。なんでパン工房に箪笥を置くの?いくら私が物好きだとしても。

これこそは、世界広しといっても、オニパンにしかない、優れ物の什器。

狭い工房の中で、いかに合理的に効率良く作業を進めるかを私はいつも考えています。
そんな中で生まれた作品。
すでに2年以上オニパンを手伝ってくれている家具職人の上田さんに相談して、つくっていただいたのがこの什器なのです。

世界に一つしかないこれに、名前をつけようとしましたが、これがまた難しい。
使用法を数えたら、なんと6通りはあるんですからねえ。その中の一つだけを取り出して、名前をつけたら、他の使い方のお方がお怒りになるかもしんない。

これが生まれる前に使用していたものは、大阪から連れてきた、我が家のテレビ台でした。


これは、大阪時代にテレビ台として18年そして塚原にやってきて、パン屋で4年と3カ月使用されてきたものです。
廃物利用が好きな私は、このテレビ台を天パン入れとして転用したのです。上のテレビが載っていた上部は作業台として使い、随分作業に貢献してくれました。しかしここ最近は、パイプが劣化してきて、針金などで補強するものの、ぐらぐらしたりで、ちょっと危険状態に。新しく天パン入れをつくるなら、使い勝手の良い、しかも一生使える優れモノにしたいと考えました。
その時浮かんできたのが、上田さんのお顔でした。
そうだ、彼なら、いいものをつくってくれるに違いない!そして、私の考えを伝え、二人で相談しました。

こうして生まれた逸品が上の写真の什器です。

さてこの什器を詳しく説明したいと思います。

初めの写真にある木製のカバーをとると、右のようにステンレスの面台が出てきます。
この上で、パン作りの作業ができるようにしました。


さて、次に正面カバー(ひき扉)を開けると、
このように天パンが収納できます。
とても頑丈にできています。


天パン収納の上部は引き出しです。左に見えている番重が2段重ねで入ります。結構な収納力です。


引き出しの裏側の様子です。
これは何?
ちょっと正解を思いつくのは難しいでしょうね。
いつも作業をしているものでしか、考え付かないアイデア機能です。


これがあるのとないのでは、作業性が大きく変わります。答えはごみ入れ。

もうたまらなく便利です。
作業台にはキャスターが付いていて、どこにでも移動できます。このごみ入れがあれば、どこで作業していても、ポイポイごみを捨てられます。


私のパン工房は、自分なりに使い勝手のいいように工夫されています。一つ一つに思い入れがあるものです。その中でも、この什器は特別に優れもの。本当に仕事がやりやすくなりました。
見た目も美しい!
家具職人としての誠実な仕事ぶりが随所に見え隠れしています。
相手のことを思いやってする仕事は、きちんとした作品を生み出すんだなあ。

上田さんありがとうね!