7周年 №146

7年目の浮気、7回忌・・・一方で7福神、ラッキーセブン、七夕・・・。
良いようにも悪いようにもとれる7という数字。
調べてみたけど、日本では特別どうってことのない数字のようだ。
ただ、もう7年がすぎたのだなあという感慨が胸を過ぎる。
ある意味、昨年の6周年は結構岐路に立っていた。
別府店が持続できるか、スタッフの確保の難しさ、商品開発での課題等々。
決して、現在、課題が解決できているわけではないのだが、
昨年に比べれば、前進している。
別府店の開店時間は12時で定着。お客様はまだ多くはないが、それなりに地元の方の利用者も増えてきた。スタッフについて言えば、二人の従業員さんは、良く頑張ってくれている。
商品開発でいえば、昨年以降デビューした「塩カリッとクッペ」「白黒」「ココバナーヌ」
は、オニパンのオリジナリティーを代表するアイテムとして輝きを放っている。
この一年、すくなくともオニパンは一歩前進したと言えそうだ。

二人ボッチでやっていた1年目とは違って、現在は別府店のスタッフも入れて6名。
そして、上にあげた商品に関わって、プロデュース者が2名(塩カリと白黒)。
いろんな方の助けや提案で我がオニパンは運営できている。たくさんのお客様、サポーター、
通販の顧客(たくさんいます)、卸のお店(玉の湯さんや緑王館は6年間毎週です!)
毎週買いに来られる地元の方々、大阪時代のつながりから定期的に購入してくださる方たち
本当に多くの人々とのご縁が続いています。
人と人とのつながりこそ、7年間の意味なのかもしれません。

7周年に向けてささやかに感謝の気持ちをこめて、人参ケーキをつくった。
これは開店の時、ママが得意とする「人参ケーキ」を粗品として進呈したことを思い出したからだ。
開店の時は、いろいろとやったなあ~。
くじ引きで、当たった人に食パンプレゼントとか。
大阪から「太鼓サークルどっこい」が来るってんで、観客がいないと申し訳ないと思い、人集めに新聞折り込みをしたっけ。

結果お客様はきてくれたのは良かったが、出せるパンの数が少なすぎて、困り果てた。

人生最大の危機になった!!思い出。


懐かしいチラシ。
人参ケーキは「初心に戻る」という思いを込めた。
現在が、初心を忘れているというわけではないが、再度気持ち新たに頑張るぞ。

7周年を迎えるにあたってとてもうれしいことがあった。
それは、日頃から良く訪れるサイクリストさんたちからの心のこもったお祝いだ。
こんな山中のパン屋が、山中にあるからということが好条件となって、トレーニングの目標地点や、より強力なサイクリストたちにとっては通過地点となっている。ちょっと休憩して、エネルギー補給。あるいは仲間たちとの交流の場として活用してくれている。
今まですれちがうだけだった人たちが、オニパンで一緒になって、話をし仲良くなることもあり、私としてもその光景を見ていて、まさにオニパンの初心ではないかと心浮き立つことも多い。

ただ、パンを買うためにお店で一緒になるお客様同士は、そんなに話し合うなんてことはない。しかし、同じ趣味を持つサイクリスト同士は、共通の趣向や話題で共感し仲良くなっていく。
辺鄙が役に立つとは、サイクリストさんたちが頻繁に来るようになるまで、思いもしなかった。

7周年記念日を知っていて、サプライズのように突然やってきて祝ってくれるとは・・・。
私の人生の中でも希少な経験。
表現が下手な私は、恥ずかしくて、ママのようには反応できないのだが、彼らが帰ってから
うるうると余韻に浸っていた。

なんで、こんなに上手に絵が描けるのだ!ママなんてそっくりではないか!特長をしっかりとらえている。私はこんな感じなのか。もっとハンサムではないのか、と言いたいが、きっとそんなものなのだろう。しかし素晴らしい!!もらった絵はこれだけではない。額縁が3枚とシールが3枚。みんな面白い!!
額縁がこれまた、立派!!素人とは思えない。聞くと、手作りだそうだ。サインが入っていた。


へ~「ADONOS」だって。かっこいいぜ。ホンマ凝ってます。
私アドノスの製品買いたくなってきた。
しかし、手間暇かけて、うれしい限りです。

中村屋の工場長さんが特製のかるかんをくださりました。
これもお祝いです。
小倉と抹茶が折り込まれた、冷たくでっかいもの。
唸りました!あんまりおいしいので、スタッフだけでなく、ご近所にも食べてもらいました。

ありがとうござます。
天気も良く、お客様も多い一日でした。疲れたものの、心に残る7周年の一日は、幸せな一日となりました。

農園づくり 鹿対策 №145

パン屋は日々忙しい。しかし、苗は待ってくれない。
農協からサツマイモの苗を100本買ったのだ。しあわせ農園(Sonoda Happy Farm)の農作物第一号として考えたのがイモ。収穫できれば、いも餡パン、あるいは大学イモデニッシュなどの具材として使おうと思っている。
昨年は苗を買うのを忘れていた。頼んだ時には、すでに売り切れ。一昨年は、収穫しようとした矢先に、全てイノシシに先を越された。
今回、失敗は許されない。狭い庭の畑とは違うし、一応、市に農業従事者としての登録もしている。つまり、農民としてイモを育てるのだから。
苗を植えるのには下準備がいる。
先ず土を耕し、ほこほこの土をつくる。そして畝をつくる。さらに獣害よけの柵もいる。
何かと大変だ。
塚原には相当数の鹿が暮らしている。野菜をつくろうと思ったら、害虫だけでなく、先ず鹿対策を考えないといけない。つまり、ネットがいるということだ。
当面植えようと思っている畑の広さを考えると、230mのネットが必要になる。
うへ~、値段高そう。2メートル近くの高さでそれだけの長さのネットを普通に買うとなると物入りだ。
ネットで調べていいると、使用済みのノリ養殖用のネットが強くて安く入手できるとわかり、それを270mほど購入。そのネットを張るための支柱はどうしよう。
これは、竹で代用しようということに。100本以上の竹が必要。
これは、私と一緒にしあわせ農園をやる相棒のY氏が、準備してくれた。二日がかりで、130本ほど切って持ってきた。すごい!Yさんの行動力!!
肩や腕がしびれたようだ。ご苦労様です。

さて、休みの火曜日、竹の支柱立てを始めた。Yさんの奥さんと二人で穴を掘り、竹を埋めていった。奥さん粘り強い。ふ~ふ~言いながら、やりきる。

3m間隔で80本近く立てた。

そして翌日、ママとネットを張っていった。

さて、トラクターの出番だ。トラクターで畝をつくれるなんて、知りもしない。トラクターの持ち主のEさんに教えてもらって、畝づくりの練習をした。
なんとなくできたが、幅を一定にするのは、完璧無理。
それでも、やらないとイモは植えられない。
左の写真は、練習しているところ。ご近所のYさんの奥さんが乗っている。彼女は、何でも挑戦タイプの女子。しかもうまい!私
の畝はなぜか曲がってしまう。背中の男子は指導者のEさん。

トラクターの練習をしたのは、ネット張りの前週で、当日(6月9日)は頼りのYさんの奥さんは用事で来れない。仕方なしに、へたくその私が畝づくり。片一方にしかでっかい鏝(こて)みたいなのがついてなく、説明するのもややこしいので省くが、相当慣れていないと均一な幅のうねができないのだ。多分5回ぐらい乗ると上手になるだろうが、初めての畝づくりなので、1メートル幅の畝や20センチ幅のものなど、いろいろと出来上がった。多分誰がやってもそうなる。いや弁解ではない。多分。
そして、出来上がった畝(らしきもの)に、サツマイモの苗を植えた。肥料は入れていない。
入れない方がいいらしい。

11月にパン小麦を植えるために、それまでできる限りのことをしていきたい。
次は枝豆。大豆にするかもしれないが。

いつも大量に買っているジャガイモ、玉ねぎなどなどを、しあわせ農園で収穫できればありがたい。農業に詳しいYさんに教えてもらいながら、今後やっていきたい。

あっ、それから、「しあわせ農園」と名付けているのだから、いろんな人が利用してもらえればいいのになあ。土地はいっぱい余っている。使用料は無料。ただ、ネット代をいくらかいただく。

今後も引き続き、報告していきますね。

山が呼んでいる。2度目の涌蓋山(わいたさん)へ!№144

久しぶりの折々帳。ここへ戻るとき、また気持ち新たにせねばと、パソコンに向き合います。塚原景観loveフェスに来て下さった、あるいは応援してくださった多くの皆さんに感謝します。
天候の悪い中でしたが、オニパンカフェとしても精一杯頑張りました。
イベントをやっていると思っていなかった方々も多かったようです。塚原の美しい自然や景観を大切にしていくために、ここに住む住民としても、地道に努力せねばと思っています。

この5か月近く、休み返上でイベント準備に走っていた反動もあり、無性に山に行きたくなった。何事もうまくいくわけではないのが人生であり、今回のイベントを通じても、得られるところ多大にして、また失うところもあったわけで、心の回復作業も含め、一人山に向かった。
いつもは、ママと一緒なのだが、一人で行くと思考も感性も鋭敏となり、感動も深くなると思ったからだ。ママの方から、「一人で行ったら。涌蓋山とかどう。」と提案があった。
私の気持ちを察しての暖かな言葉が嬉しかった。そして、涌蓋山。

涌蓋山は、高校生の時登ったことがある。まめな日記マンだったので、記録があった。
登山部で県の大会があり、3月24日から27日までの4日間大船山~平治岳~坊がつる~久住山~八丁原~一目山~涌蓋山と縦走した経験がある。
当時、なり手のない登山部のキャプテンに無理やり推薦され、廃部直前の登山部で練習もなしで県大会に出さされた思い出。優勝候補だと言われていた、日田林高のメンバーのたくましい体。私たちのひょろっとした体格。出場しているだけで恥ずかしかった。
5名のチームで対戦。登山の技術や体力、知識やマナーなど登山への総合的な力を競うといった競技だ。

今から44年前のことだが、明瞭に憶えている。全体はあやふやだが、3日目のこと。私たちはふらふらしながら歩いていたが、突然後ろで「バタッ!」という音が聞こえ振り返る。すると、N
君が気を失って倒れていた。その時点で、失格となる。翌日4日目、男子チームのコースは無理だと言われ、女子チームのコースへ。そのコースでも、後輩のS君の足がつり脱落。

その時の最後に登頂したのが涌蓋山。日記には、「常に緊張し、苦しく、しかし最後のワイタ山を登って、頂上で休憩したとき、僕はこれほどの充実感を味わったことがなかった」と記してある。


5月19日。その日は、最高にいい天気。
写真をアップするだけで、私の気分が推し量れよう。

長者原から筋湯温泉郷をへて、八丁原へ。
山々、緑、青空の美しさよ!


涌蓋山登山口へ到着!

「告!!」ってある。なになに、午後から入山して夜までに下山できずに遭難する事故が急増とのこと。
もしかして私のことかな。
ちょっとやばいが、急ぎ足で行けばなんとかなるかな。無理して頂上に行かずとも、3時過ぎで引き返そう。

この道からスタートだ。高校生の時もこの道からだったのだ。今日は時間の関係から一目山には上らず、直接涌蓋山を目指す。


 


涌蓋山手前のみそこぶし山。
ここを過ぎると、いよいよ涌蓋山だ。

おおお、見えてるぞワイタ山。

時間がもったいない!走れ!

その後、調子よく走る。すると、どんどん下っていく。あれえ!おかしい!20分ほど下って行きながら、そんな馬鹿な。

これじゃあ、涌蓋山が下にあるってこと。

なんで、道、間違えてるのかよ。

今来た道をまた20分!!
ぜ~ぜ~!!

戻ってきましたよ。この写真、右にわかりにくい表示板が。走っている私には全然見えなかった。ここを右に取付いて、頂上を目指すのだ。40分は損したあ!
大丈夫かなあ、時間。


こんな風に絶景が広がっているのです。
涌蓋山は富士山のような独立した美しい山。遠くからの山容も美しいし、涌蓋山自体からの眺望も最高だ。


そして、ついに頂上が見えてきた!!
美しすぎるぞ~!!
しかし、道は急だ。
前を見てるとつらいので、下を向いて歩く。まだ見ないぞ、まだ見ないぞと、どのあたりまで来ただろうと想像しながら、今は歯を食いしばって、少しずつ少しずつ足を進めるだけ。

人生でもこんな場面があるな。
ただ、モクモク、見えない先を見ず、苦しみを耐える時。
しかし、足を進めていれば、確実に前進している。


こんなにきれいな涌蓋山。登山口から、下山まで誰一人とも会わなかった。山を独り占め。
静かだ。したたり落ちる汗、踏みしめる地面の音、鳥のさえずり、まばゆい光とともに入ってくる、鮮やかでやさしい色彩。

自分の足で、登りたどり着くことができた涌蓋山の頂上。
なにかありがたい気持ちになった。

しばし、寝っころがって、休憩。

涌蓋山の頂上は広い。

遅い昼ごはん。おにぎりだけで十分満足だ。

下山。このまま、行けば、登山口に5時半着。良かった。何とかなったな。

ところが・・・・・。

どこでどう間違ったのか、道に迷ってしまった。

森の中で、夕日の明かりを頼りに、方角を考え「落ち着け落ち着け」と必死になる。

詳しい地図を持ってこなかった、しかも懐中電灯もない。軽装備の軽率な登山家の結末か。

遭難したら、ママにあるいはその他の人にも迷惑をかけるなあと、必死に道を探す。
喉が渇く!水もなくなった!!

結構近くで何かの放送音。民家に近い!! 暗い森の中の斜面を転がるように駆け降りる。
しばらく行くと、おお、家の屋根が木々の合間に見える。

良かった。背筋に電気、安どの息。
抜け出ると、6時半。まだ明るい。
自販機があった。サイクリストが好む、コーラを飲む。
「告!!」の看板。ほんとその通りだ。反省。

まあいろいろと思いに浸る一日だった。
涌蓋山、ありがとう。

イベント №143

若いころからなぜかイベントの事務局などを任されることが多かった。思えば私の人生はイベントとともにあるって言っても過言ではない。イベントは別の表現で言えば「まつり」みたいなものだ。人が集まり、あ~やこ~や言い、時にはケンカしながら、一つのものをつくっていく。
そして、幕が上がるときの緊張感。静寂の中、体に何かが走る。言いようのない期待と若干の不安が交錯する。
イベントの内容の違いで、その感動の質も変わるだろうが、人が集い何かを作り上げることは、今の時代ますますその値打ちが高まっているといえるだろう。

イベントの素晴らしさを知った(深く)のは、学生時代。演劇を通してだ。
そのことは、ずいぶん前の折々帳でも書いた。
そしてそれは就職してからのサ連協(サークル連絡協議会)の活動に続く。
毎年のように教育研究集会に取り組んだ。
同時に、太鼓サークル「どっこい」での活動。すごい数の観客をサークル員自身とその仲間たちの努力で呼び集めた。

ともに活動した仲間たちは今でも大切な人たちだ。さまざまに価値観や嗜好も違う人間だが、ともに汗を流し、動くことは、あらたな共通の価値をつくりだす。
ともに苦労し笑い泣くこと、それを通して生涯の絆を編みだしていく。

イベントにはそんな人間的な要素が本来的に潜んでいる。
しかし、その過程は、あんまり心地よいものではない。とくに抵抗力、体力、忍耐力が貧窮してくる中高年にとって。(私は、最近、中より高の方に近づいているかも)

1月の頭より塚原の中高年が集まり企画しているイベントがこの5月に開催される。
それは名づけて「好きです!ツカハラ 景観LOVEフェス」。
固い頭の中高年が顔を突き合わせて、何度も何度も話し合った結果、出てきたネーミングだ。
(半分以上は若い有能なデザイナーさんが提案してくれたのだが。)

なんで、今頃、この時期に、中高年が、フェス?なの?
折々帳を読んでいただけてる読者様にはご存知の方も多いだろうが、「メガソーラー」
がいまだに塚原高原を脅かし、ついに建設断行という状況になっているからだ。
ほとんど多くの方は知らないだろうが、二つの会社がリックスプリングバレー一帯の土地を買収し、一つの会社は6月より建設に着手、もう一つの会社は5月に説明会を開き建設手続きを始めるという状況。
塚原高原をご存知の方なら、乗馬クラブの前の県道の上側そしてずいーっと見渡せる下側の草原が真っ黒になるといえば、その規模のでかさに驚かれるに違いない。
九州外からも乗馬に訪れるという乗馬クラブの会員さんたちは、塚原の景色が一番だからと口をそろえて言う。ここにお店や宿を開いた「炭熊」の社長さんは、「この景色に魅了され、この景色を買いたいと、一日で土地の購入に踏み切った」とのこと。もちろん、リックスプリングバレー内に住む別荘の方々も同様。その別荘地(十数軒くらいか)以外はすべての土地が中国系資本の会社に買われていて、自分の別荘(住んでいる方もいる)の周りがソーラーパネルで覆われるのは耐え難いと思う。

福島原発の事故以来再生可能エネルギーとして一躍注目を集めているソーラー発電。
今日、朝日新聞で読んだが、東電から自立した自分たちのエネルギーを生み出そうと、福島
会津の経営者たちが会津電力をたちあげ発電をしているという。私も大いに賛同する。
しかし、塚原のメガソーラーは住民や塚原高原を愛する人たちと共存できるものではない。

塚原高原の素晴らしさ。訪れた方々ならだれもがわかるはず。
まだ訪れていない方も含めて、リックスプリングバレーでゆったりまったりとしていただきたい。
おいしいお食事、オニパンのパンも含め飲食ブース、ワークショップ、音楽イベントなど多彩なプログラムを用意している。
好きです!塚原高原の会でぜひ情報をゲットしていただきたい。

少々硬いお話になって申し訳ない。
だからせめて、フェスは楽しく、仲間づくりという視点も持って
やっていきたい。
毎週の会議や準備の過程で、今までにないいいろいろな人たちと話、交流し、
絆が深まっている。
やはりやって悪いことなんてないなあと思う。
昨日は、大分合同新聞にでかでかと「好きです!塚原高原の会」の記事が載った。
会員も70名を超えた!
5月16日に向けて、がんばるぞ~。

ステッカー 一枚200円。
自動車や郵便受けにいかが。

人生無駄なことはない! №142

気が付けばひと月半の時が過ぎていた。このひと月半今後を左右する大きなエポックがあった。それをご報告しよう。
以前折々帳にも書いたことがあった、オニパン前の広大な土地のメガソーラー建設計画の顛末。
メガソーラー建設は、住民の強い反対とそれを支援してくれた多くの塚原ファンのおかげでストップすることができた。こちら側(私の側)から見れば、それは良かったのだが、地主さん側から見れば不都合なことも多いわけで。しかもその地主さんは以前よりうちと親しくしていた方だった。
その後しばらくは、ちょっと気まずい雰囲気もあったが、そのうち自然と打ち解けて、お話しする関係は戻ってきた。
地主のおばさんは、以前2度ほど入院され、私とママはそのたびにお見舞いも行ったりする関係でもあった。メガソーラーで利害が対立したものの、それを乗り越えて、また話せる関係になったのは、おばさんの心の広さでもあるだろう。しかし、広大な土地の今後の活用で、地主さんは頭を抱え込んでいた。4000坪以上ある畑は、手を掛ける余力もなく、徐々に山と化してくる。
おばさんは、結構、口が悪い(失礼)。はっきり言いすぎるきらいがある。しかし言いたくもなるだろう。それは分かる。
「あんたらが反対してソーラーができんかったかわりに、あんたらには草刈りをしてもらわなな。」とお店に言いに来る。近頃は、「誰か、農業する人はおらんのか。」と口にする。
私も何度かそれを聞いていて、この際話にのろうと思いだした。

人生はどこでどうなるかわからない。これからもどうなっていくのかわからない。
はたしてそうなのか。
私が感じるに、今やっていることは、必ず将来の何かの役に立つということ。
それが、この年になって、(そういえば、あの時あれやっていて良かったなあ)などと思うことがしばしばだ。

昔41~2歳のころだったっけ、小学校の教員をしていた私は、パンを作っちゃあ職場に持って行って、同僚に、あるいは子どもの誕生日などにプレゼントしていた。
総合学習っていうのが注目されていて、その実践の中に、パン小麦をつくるってのがあった。
「これはすごい!」と思い、自分で作った小麦でパンが焼けたらいいなあと試してみた。
当時の学校は、結構広い学級園があり、地域の百姓さんが寄付してくれた耕運機もあった。
私は、その耕耘機が使いたくて、一人でほかの学年の畑も耕した。
そして、北海道の農業試験場と連絡を取り、特別に「はるゆたか」という品種の種を分けていただいた。
春まき小麦だ。4月にまいて夏に刈り取る。
新学期にちょうど良い。
当時の私は、ただただ、意欲ばかりで、やる気があれば何とかなるみたいなところもあった。
何も研究せず、ただ種をまき、芽が出るのを待った。
しかしなかなか芽が出てこない。
結局芽は出なかった。水?蒔き方?
違うんです、それはカラスや雀のせいだった。
やけにスズメが多いなあと思ったのは、小麦の種を目当てにやってきていたからだ。。
学校も変わり、50才になった私。パン熱はさらにヒートアップ。もう一度、春まき小麦に挑戦する。その時は、育つのは育ったが、残念ながら実がほとんどついてない状況。

そんなこと、今の今まで忘れていた。そういえば、昔、パン小麦をつくろうとしてたっけ。
忙しいから、できないって決めてしまえば、できなかったという現実が残るだけ。しかし、少しでも可能性があるんなら、やってしまえば、やったという現実が現れる。
人生いろいろあった方がいいだろう。
そんな吹っ切り方で、メガソーラー建設予定地だった土地を借りることにした。

さあ大変だぞい。これだけ広い土地。どうしよう。そこで考えたのが、他人の力を借りること。
無料で何かをつくってもらおう。果樹もOKだ。この場所を利用することで、仲も深まる。
名前はSONODA FRIEND FARM(そのだ なかよし 農園)としようか。
もう一歩進んで、SONODA HAPPY FARM(そのだ しあわせ 農園)の方がいいか。

 

畑として使える広さは100m×150m。4000坪はある。

今度は以前のような失敗は出来ない。金もかかる。
パン小麦は、冷涼な気候に向いている。暑い大阪よりも、この冷たい塚原の方がはるかに向いている。宇佐などで作られている「ミナミノカオリ」という品種よりもできれば、北海道で作られている「キタノカオリ」のほうがいいなあ。うまいし。
まあ、今は夢見ている状況だが、由布市の農業指導員さんとも相談しながら、つくっていくことになったし、「量はともかくできるのはできます!」と言っていただいた。

そして、以前使ったことがあった耕運機よりもはるかに強力なトラクターも知り合いが貸してくれることになった。

すごいねえ、何か小さな戦車みたいだ。
今日試運転した。

塚原高原にメガソーラーは似合わない!と盛んに運動した結末は、「しあわせ農園」に。

ちょっと(かなり?)大変になるだろうが、これは、これで、良かった!と思う私。