フランスパンのこと、食べ物に込められた思いのこと

9月はとてもとても刺激的で、幸せな月だった。折々帳に書きたいことは山ほどあったのに、生来の筆不精がたたり、思いのみため込んで、文章にするとアメーバーのようにまとまらない形になるのではと危惧している。まずはパンのこと。最近、フランスパンの技術がまた深まっている。もちろん失敗はある。しかし、確実に狙いどころに近付いている。おいしいフランスパンをどうやって見分けるか、ある本に書いてあったのは・・・。①しっかりクープが開いている。②持った時に「軽い」印象。③脇腹もしっかり火が通り、柔らかくない。私としても、そんなフランスパンを目指して、作ってきた。最近はそんなフランスパンが焼けるようになった。フランスパンに憧れる人は、私もそうだけれど、クープをどうきれいに開かせるかが最大の関心事だと思う。見事に開いたクープは、確かにおいしさの証明だと言える。以前、私は剃刀の入れ方いかんで、うまくクープが開くものだと勘違いしていた。しかし、一番のポイントは、生地の発酵状態がベストのタイミングで窯入れすることにあるのだと気がついた。生地に力がなければ、窯の中で膨張しないし、そうなると、クープは開いてくれない。生地を窯に入れる場面は、パン製造の最終段階。それまでには、①生地をこねる段階 ②一次発酵の段階 ③分割、ベンチタイムの段階 ④成形の段階 ⑤二次発酵の段階と五つの場面がある。それぞれの段階での手当てと次の段階に移る時期、タイミングを見極める力が必要となる。この見極めのタイミングが、おいしいパンを作るための最大のポイントなのだ。パン作りは、子育てと酷似している。パンそれぞれには、個性がある。それは粉の性質があり、個性がある。また目標とするものも様々で、その目標にあった対応が求められる。フランスパンについて言えば、とにかく見守ること。大人の思いで、触りまくると、反対に生地はひねくれ、フランスパンではなく、食パンに近くなっていく。いつ分割をするのか、いつ成形をするのか、その発酵状況を見誤るともう取り返しがつかない。それぞれのぞれの段階における成熟度を見極め、そこで次の援助を差し出すことが大切。生地の中で、酵母がしっかり活動している。見えない酵母が、今どんな状況なのかを考え、できれば酵母に話しかけ、対話するような気持ちが大事だと思う。細かい技術もそれなりに大切だと思う。私の場合、クープの入れ方(剃刀の使い方)、窯の使い方を変えることによって、より良いものが最近でき出した。細かい的確なアドバイスも子育てで必要になるのと同様に。しかし基本はそういうところではなく、大きな成長の節目と、それに応じた対応、そして何よりも本人(生地・子ども)自身の充実感にある。9月28日私のお店のお隣の忘路軒というお食事処(ギャラリー)で、「”食”を中心とした有機的交流会」という集まりがあった。私とママはその会に最近参加している。湯布院の亀の井別荘の中谷健太郎さんが始められたとのことだが、その意思をついですでに30回も続けられているとのこと。食に興味のある方や食に関わる仕事をされている方が集い、交流する会となっている。私はせっかくお隣でやられるのだからと、焼き立てのフランスパンを持っていこうと、その日(月曜日)は、閉店4時半よりさらに7時半までかかってフランスパンなどを焼いて、忘路軒に届けた。賞味期限が6時間といわれるフランスパン。できれば一番おいしい状態で食べていただこうとの気遣い。その気持ちがわかってか、あっという間に売りきれた。ありがたいものだ。さて、またお話が変わろうとしている。9月に我が家に大阪時代の知り合いが2組訪れた。どちらもお若い人たち。立派に成長している姿を見るのは、本当にうれしいものだ。来客の方には、「パン屋をしている関係で、面倒は見れませんし、お食事などを準備して歓待などもできません」と予め告知している。若い二人は、私たちのために夕食を作ってくれた。下の写真がそれ。私はボーっとしているために、あまり細かいことに気づかぬ性格だが、オムライスの上に名前が書かれてあることに写真を撮った後に気がつき、嬉しくなった。気持ちが込められた食べ物を口にする時、味以上にグッとくるものがある。何か、思いのオーラか波動みたいなものが食べ物に浸透するのかな。その子らは、次の日帰る直前まで家の台所を磨き倒して帰って行った。30年近く使ったやかんがピカピカになってコンロの上に置かれたあった。幸せな9月を象徴するやかんとなった。

一次発酵が終了し、生地を分割する時に、今日のパンの出来具合が推し量れる。それぐらいにパン生地の状態がその後を左右する。だとすれば、人間だって、幼少期の状況が一番大切だと言える。こじつけかな。
大方の人はパン教室などで習う成形の仕方がパンのできを左右するものだと考えている。私もそうだった。ああやこうやと手をくわえることに熱中し、その子が持っているものを大事にし、それを見守り育てて行くことが本道だということに気がつかなかった。
フランスパンを作ってみると、そのことが良く分かる。触らないほどおいしいフランスパンができるから不思議だ。

Mちゃん、Hちゃんありがとう。今度は、仕事の喜びや悩み、生き方についてももっとお話ししたいものだね。

塚原高原まつり&和太鼓

8月29日は塚原高原まつりだった。オニパンも出店した。さすがお祭りはすごい。人がたくさんいると、必然的にパンもどんどん売れていき、6時半には早完売だった。その後、ステージの鑑賞に力を入れた。スルーザブレイクというグループは今年の注目株だそうだ。メロディ、歌唱力、パフォーマンス、どれをとっても一流で、今年ブレイクするだろうと思わせるものがあった。
トリは湯布院源流太鼓。昨年よりも引き込まれて、最後まで席を立つことができなかった。ゲストの奏者が本当にすごい打ち手で、大太鼓に一人向かって打つだけで、ゾクゾク来るものがあった。本物とはこういうことなのだと思った。
実は、私も昔、和太鼓の奏者だった。昔というとえらい前のことのように聞こえるが、最後の舞台は9年前。2000年だったと思う。29歳の時プロの和太鼓集団の研究生になり、30歳で「どっこい」という和太鼓サークルを仲間とともに立ち上げた。それから、10年は和太鼓に没頭。それから、中心メンバーではなく脇でサークルを支えた。私がサークルをやめてからも、「どっこい」を引っ張ってきたメンバーたちは、相変わらずがんばっている。自己満足ではなく、地域や働く仲間、学校・園など様々に貢献している。  今年の5月、結成25周年記念公演を取り組んだ。私にも来てほしいと依頼があった。悲しいかな日曜日に、パン屋を閉めて大阪まで行くこともできず、代わりにパンを大量に送って許していただいた。8月に入って、その公演のDVDが送られてきた。1000人もの観客を動員して、見事に公演を成功させていた。始めること以上に続けることは大変なこと。どっこいのメンバーには本当に頭が下がる。蛇足だが、下の写真は、あの有名な「鬼太鼓座(おんでこざ)」とのジョイントコンサート。ラストに、何と私が大太鼓を打つことに。アドリブで叩いたが、1100人の観客がドーッと大拍手!体に電気が走り、私もしびれてしまった。思えば、あの瞬間が私の和太鼓人生のクライマックスだったんだと思う。

「どっこい」生きている!どんな困難にも、「どっこい」負けないぞ!こんな気持ちで命名したのだが、実際は失敗しそうで「おっとどっこい」、はーしんど「どっこいしょ」って感じでしたな。でも、一生の仲間を得られた太鼓・民舞サークル「どっこい」でした。

 

舞台正面のやぐらの上に立ち、周りの方々が私のリズムを支え盛り上げてくれる。何と心地よかったことか。オンデコ座の立派な太鼓に触れただけでも、一生の思い出になる。

ホームページ

インターネットは大きな力を発揮する。遠く離れている人でもグンと近づけてくれる。見知らぬ者でも何か身近に感じさせてくれる。そして昔から知っていた友人のような感覚まで持たせてくれる。オニパンカフェのホームページを作って、そのことをリアルに感じている。
北九州からお客様がやってきた。3度目に来店された時、その方は「ホームページ見ています。オニパン通信の平和の記事がいいですね。」と言ってくれた。私はいっぺんでそのお客様を身近に感じてしまった。そして、何か昔からの仲間のような錯覚まで覚えてしまった。そしてつい最近、大阪から贈り物が届いた。何だろうと開けてみると、かわいい油絵が現れた。中に手紙が同封されていた。「最近、オニパンカフェのHPを見さしてもらいました。…私は行ったこともないのにとても近くに感じて日々過ごしています。」大阪の若い女性は、私のことを懐かしんでお店に飾る油絵を描いて送ってくれたのです。年賀状のやり取りくらいの交流だったわけだが、ホームページがグッと距離を縮めてくれた。彼女は「トイレにでも飾ってください。」と書いてあったので、トイレに飾ってみた。いりみっちゃん、見てくれるかな。

ちょっと殺風景なトイレが、とてもかわいらしいスペースに変わりました。手前の赤い吊り金具は、私の手作り。

 

オニパンのために、時間を割いて描いている様子が浮かんできて、とっても嬉しかった!ありがとう、いりみっちゃん!

児童文学

子どもの頃から読んだり書いたりすることが割と好きだったみたいです。私の宝物は、小学校の低学年の頃(1年生か2年生の頃?)読んだ『しあわせの王子』という本。発行が昭和32年になっているので、50年前のものです。読んでいて悲しくなり、ポロポロと涙がこぼれたことを思い出します。何をどう感じて涙がこぼれていたのか良くはわかりませんが、その本だけは大事に今でも持っています。大人になって、読み聞かせをする機会が度々あり、ふっとその本のことを思い出し、読み聞かせのレパートリーに加えました。するとどうでしょう、私は読み聞かせをしながら、また子どもの頃のように涙がこぼれるのです。オスカー・ワイルドという作家は学生時代「耽美派」「退廃主義」などと言われて、あまりいい印象は持っていませんでした。「サロメ」など有名な作品を残していますが、私自身読んだこともなく、その偏見的な印象から読むこともしませんでした。しかし、「しあわせの王子」は、とても純粋な美しいお話で、あらためてこれがオスカーワイルドの作品なのかと疑ってしまうのです。ツバメと王子のやり取りの場面。ツバメの優しさに気付いた時には本当にかけがえのない存在を失うという悲劇。その美しい純粋なハートのストーリーは、何度読んでも心を打たれてしまいます。私の持っている本は1950年平塚武二訳であり、訳者が意識的に変えた部分があったり、その訳自体少々固い所もあり、別の訳者であればまた違ったものになるのかなとも思います。誰か「しあわせの王子」を読んだ人はいませんかねえ。人によって感じ方も違うのでしょうが・・・。

紙が黄ばみ、ぼろぼろと崩れそうな感じです。古いものは年月がたつほどに値打ちが出てくるなあと、つくづく感じてしまいます。

最初の何ページかだけ、カラーで印刷されています。

パン屋の夏休み

7月27日から夏休みが始まった。一応六日間。月曜日は大阪から来た元同僚たちと話したり、塚原のプチ観光に同行した。大阪の昔や今の話はいつも心を懐かしくしてくれる。30年余、働き暮らしてきた大阪。大阪の友人と会うたびに故郷の人と会うような錯覚を味わう。さて、パン屋の夏休み。二日目、三日目は大工仕事。工房を使い勝手良くするために改造。自分のお城であるパン工房。細かいところまで自分なりの工夫を施している。仕事をやりやすくするための工夫はとても楽しい。一度アイデア大賞にでも応募してみたいくらい。仕事や生活する上で不便なものに出会ったら、私は立ち止まって「何とかならないかな」と考える。そしてそのことを頭の引き出しに入れておく。不思議と改善策を思いつく。前にパン作りの日記に同じようなことを書いたね。ほんと、考え工夫することは楽しい。四日目は、以前より行きたいと思っていた佐伯の方面へ出かけた。お客様で蒲江の方がいらっしゃる。魚がうまいとのこと、一度は行ってみたかった。そもそも私は大分県人。なのにほとんど大分のことを知らない。高校までは家と学校の往復みたいな生活。高校を出て、高知の大学へ。就職一年目は香川県坂出市。そして大阪での生活。だから大分のことは知らない。こんなに山や自然が美しく、食べ物が豊かでおいしかったこと。塚原で生活し、初めて知ったという情けなさ。それでパン屋の夏休み四日目は海へ。東九州自動車道は宮河内までしか行ったことがなかった。その先佐伯まで今は伸びている。なぜ宮崎方面へ道路がなかったのか走ってみてわかった。佐伯方面は山と渓谷がせめぎあい、道路は橋とトンネルばかり。これは大変な工事なのだと予想できた。食事は河内湾にある「清水マリン」という民宿を兼ねた料理宿。活きの良さが売り物のところだけあって、岩ガキなど注文すると、海に浮いている筏のイケスまで走って行って、カキをとってくる。出された料理はとても新鮮でおいしかった。青春を感じた私は琉球丼セットなど注文しほかにも魚を頼んだ。うまい!ビールも飲んだ。女房はマリン定食。これもたくさんの量があった。たらふく食べて、磯の涼しい風を肌に感じながらひと時の休憩。宿を後にして、次に蒲江に向かった。好奇心をそそるような景観だった。複雑に入り組んだ湾に沿って、一通りのお店、役場、銀行、病院など揃っている。魚や寿司屋などもたくさんある。塚原よりはるかに都会だった。道の駅でオニパンのお手伝いさんへのお土産を買った。そして次に三重町の方へ。ここもまだ行ったことがない所だ。そのころより、どうも私の胃の調子が芳しくない。青春を感じて食したお魚さんたちが、まだ胃袋の中でごわごわとしている。車はガタごとと揺れっぱなし。その振動が長く続くほどに胃袋がかなりへたってくる。三重町は想像を超えて、都会だった。そして次は竹田市の長湯温泉をめざす。長湯温泉は何度か来ているので、「ほていの湯」へ。時刻はすでに7時ごろ。胃の調子は最悪だった。女房も珍しく夕食を食べようとは言わずそのまま、山の中を通って一路塚原へ。9時半ごろたどり着き、そのまま胃薬を飲んでゴーツーベッドでした。

手前のテーブルが私の食べた昼食。大きめのドンブリが琉球丼。奥のテーブルがマリン定食。女房の方が量が多いようだ。でも全く胃袋は問題なかったのはなぜだろう。

岸の方から筏が海へ伸びている。このイケスに魚たちが泳いでいる。奥の方に小さく見えているのがお食事処「清水マリン」