ひょっこりひょうたん島から40年

井上ひさしさんが亡くなった。そのニュースを聞いた日、私はちょっと虚脱感に襲われ、パン作りも集中ができなかった。誰にもいつかは訪れる死ではあるが、とても残念な思いがした。私は、井上さんのことを詳しく知っているわけではないが、今の時代、この世の中にとって、貴重な方であることは間違いないと思う。来年の3月、市民劇場でこまつ座による『化粧』という作品の上演も楽しみにしていたところだ。
井上ひさしの社会に対する、政治に対する、人間性にあふれる鋭い視点が好きだった。米の輸入自由化をめぐって、彼がテレビやマスコミを通じて「水田は日本の原風景」と言ってなりふり構わず自由化反対を訴えていた姿。そして、平和憲法を守れと、「9条の会」を立ち上げ、その先頭になってがんばっていたこと。映画『父と暮らせば』を見たとき、井上の思いは理解できた。
物心ついてから、私の価値観に主に影響を与えたものは、漫画、テレビ、児童文学だと思える。マンガ・テレビは夢中になった。私らの世代は多かれ少なかれそんな人が多いはずだ。確か、小学校5年生の頃に始まった井上ひさし原作の「ひょっこりひょうたん島」は、よく見たものだ。奇想天外、奇妙キテレツ、夢と冒険にあふれたおかしな人形劇。「マシンガン・ダンディ」と「博士」のファンだった。
大学1年生の頃大学祭などで、面白いフリのついた「ひょっこりひょうたん島」の歌を歌い踊ったことを思い出す。これは、就職してからも、子どもたちに教え、一緒によく踊ったりした。「♪苦しいこ~ともあるだろさ~♪」のところは、ツルハシで土を掘るカッコをするのだが、そこのところで笑いがおこり、盛り上がる。
2年生の時所属していた演劇部で井上ひさしの「11匹の猫」をミュージカルで上演した。まさに、青春ど真ん中。劇中の10曲以上の曲も自分たちで作曲した。踊りのフリも自分たちで考えた。お金もなく、パンフレットをつくり、広告代を稼いだり、上演チケットを売りまくった。厳しい練習、仲間同士での喧嘩・口論。劇中、クライマックスで登場する「大きな魚」をどうつくるのか。部員12名しかいないのに「11匹の猫」のキャストは無理なので、「七匹の猫」と改題して(井上ひさしさんに許可を取ったはず)上演することに。
ほんと、限界・ギリギリの試みだった。でもそれは演劇部12名の青春時代の金字塔になったことは間違いない。私は「ねこばばのニャン七」という準主役級の役だった。人前で話をすると赤くなる「赤面症」だった私が、劇をするというぐらいだから、この役に賭けた私の思いははかり知れると思う。
劇は大入り満員で、大成功に。井上ひさしの面白おかしい「11匹の猫」という作品は、その面白さとは裏腹に、深く哀しいテーマも併せ持つ。社会とは、人間の欲望、連帯など考えさせられる。
気がつけば、私は井上ひさしと共にこの時代を生きてきたわけだ。結構近い距離で。大学時代、「11匹の猫」に出会わなければ、今の自分はないと言うほど、強烈な出来事だった。
井上ひさしさん、ありがとうございました。

春のお弁当

お店を開いた一年目の春のことです。
よく来られる別府のお客様で、自然が大好きな方がいました。夫婦でいつもやってきて、奥さまは、山に行った話、草花の話、食べ物の話などママとしばし話して帰られます。旦那さまは、山が大好きな人で、鳥に関しても専門家。巣箱をつくってくれて、店の前のモミジの木に掛けています。その巣箱は、昨年も今年も若い二羽の雀が新居として利用しています。その奥さまのことを、今日は書かせてもらいます。日記に書かせてもらってよいかと尋ねると、快く承諾してくれ、「別府のさなえちゃん」て書いていいよと言われましたので、以後さなえちゃんと呼ばせていただきます。
さて、食に関わるものとして、恥ずかしい話ですが、私は食事にあまり関心がなく、この年になって、色々と感じることも多くなり、(もっと食に関心を持つべきだったなあ)と反省の日々。
その刺激を与えてくれた方の一人が、さなえちゃんでした。
さなえちゃんは、「別府はいい。ちょっと行くと、山があり、そこにはいっぱい食べるものがある。」と言います。とても、野草などへの造詣が深く、研究会へも参加していて、四季の山の状況もよく把握しています。さなえちゃんには「何月何日には、ここで何が採れる。」っていうような、昔、縄文人が自然の狩猟・採取をしていたころの、縄文カレンダーみたいなものがあるようです。
そのおこぼれにオニパンもあやかっていて、大量の桑の実のコンポートやユズ煉りなどをいただいたりもしました。
春は、さなえちゃんにとって、心躍る季節だと想像されます。食に関心の薄い私でさえ、フキノトウやツクシを見て、夢中になり、ママに頼んで料理をしてもらったりするのですから。
昨年の春、さなえちゃんが「春のお弁当を今度持ってきてあげる」と言います。初めて聞いた「春のお弁当」て何かなあと不思議に思っていました。
そのうち、彼女はやってきて、「春のお弁当」をプレゼントしてくれました。

さなえちゃんに聞いたわけではないので詳しくはわかりませんが、見ただけでも、ツクシ、木の芽、桜の花、フキノトウなどが目に入って来ます。サフランの色がとてもきれいなごはんですね。

これが、いただいた「春のお弁当」です。まあ、ちょっと、というか、かなり、ショックでした。私の「食の世界観」からは、想像の域を超えていました。自然と食がこんなにも密接に関わるものなのかなあ、と驚かされました。自然が好きといっても、こんな風にできると、すごく楽しいだろうなと感じ入りました。
さなえちゃんは今年も「春のお弁当」を持ってきてくれました。

写真ではわかりにくいのですが、タケノコごはんです。タケノコは、3センチくらい芽が出たのを足底で探り当て採るとのこと。採れたてのタケノコを、そく調理してくれました。ツクシ、ヨモギ、フキなども目に入って来ます。

こんな風にお弁当ができる人って、食の豊かさだけでなく、周りの人も豊かにしてくれそうです。ひとつひとつのものに、野山を探し歩くところからの思いがつまり、丁寧に料理される・・・。お子さんも楽しみにしていたでしょうねえ。

映画

先週、かねてより行きたかった『アバター』を観に、わさだタウンへ行った。主人公は、人間ではなく、ナヴィという衛星パンドラに住む人類に似た生命体。人間はパンドラにある希少鉱物の採取に訪れていて、そこで、ナヴィとのトラブルが発生しているという背景で、スト―リィが展開されていく。
なにせ、3D映画などというものは、私の人生上ではありえなかった代物だ。ただでさえ扱いにくい中近両用メガネ(パン作りには欠かせない私のギア)の上に、さらに水中眼鏡のようなものを暗闇でかけて3時間映画に見入るなぞ、好奇心旺盛なミーハー中高年の私にはたまらなく食欲をそそるものなのだ。
ドキドキして、映画が始まるのを待つ。
ウ~、なんだ、こりゃ。なんか、すごい。奥行きがある。映像もとても美しい!多分、普通の人は、私よりももっとしっかり見えているに違いない。というのも、中近両用めがねは、眼鏡の角度によって、焦点が変わるようになっていて、視界全体がはっきりと見えるわけではない。格闘場面で、けられた岩がスクリーンを飛び出し私の方へ向って飛んでくる。他の人は、ある程度よけられると思うが、私の場合は、ぼんやりした薄暗がりから、突然岩が飛び出してくるので、そのたびに、体を動かし、よけようとする無条件反射が訪れる。なんか、映画館の中で、画面上の人たちと一体になって闘っている私の様子は、とても滑稽だったに違いない。

映像の美しさ、CGの見事さも感動の対象だが、それは訴えかけてくるテーマのための手段だと思う時、この映画の値打ちが見えてくる。
単なる娯楽大作に終わらないところが、観客動員数の多さに現れているのだろう。前々回の折々帳で、アメリカ史について少し触れた。私の学生時代の先輩で(この人も、1月13日の折々帳に登場している。青年○○は荒野を走るとテーマを決めた人)アメリカ史や映画にくわしい人がいて、私はこの先輩から強く影響を受けた。この先輩のホームページを見ると、ナヴィと名づけられている生命体は、先住民のネイティブという言葉から来ていると説明されていた。へーそうなのか。最近、先住民の文化や哲学が見直されてきているが、この「アバター」に出てきたナヴィたちの生活や考え方と映画上の人類のそれは明らかに対比される。最初は異様に見えたナヴィたちの容姿。しかし、スト―リィが進むにつれ、カッコよく素敵に見えてくる。それは、彼らの内面が醸し出され、美しく見えてくるからだろう。
感動屋の私は、翌朝のベッドでもナヴィたちのことを考えていた。

旅立ちの季節

3月と言えば4月前。日本は4月が一年の始まりっていうのが、実感。入学式、入社式、新しい部署や人事など・・・。オニパンカフェも4月を前に心と仕事の準備を始めている。
でも、その前にやはり3月。3月は何となく別れも含め、ちょっと哀愁が香る季節でもある。
2月から3月の2カ月、オニパンを支えてくれためいちゃんが京都へ戻る。めいちゃんは、突然降ってわいたかのように、オニパンに現れ、持ち前の器用さとまじめさで仕事を身につけ、救世主としての役割を果たしてくれた。のんびり屋のマスターとママは、もしめいちゃんが現れなかったら、オニパンがどうなっていたかを想像していたのだろうか(他人事のように言っていいの)。
まあ、今までも何とかなってきたのだから、何とかなったのだろうが、それにしても助かった助かった。
でもそれだけではなかった。めいちゃんは、とてもさわやかな、清々しい風をオニパンに運んできた。オニパン最終日の3月22日、とても忙しい一日をどうにかクリアーして、仕事をやり遂げ、別れるときのこと。めいちゃんは「この2カ月、どうもありがとうございました!」と言って、ママに駆けより、手を握り別れのあいさつをする。それを見ていた私は、思わず感動。私は、心が多少屈折しているのか、シャイなのか、決して、そんな態度はとらない。でも、ピュアなめいちゃんの心に思わず打たれた。そして、なんと、私の方へ駆け寄って来る。「ええ、まさか」。どうしようと考える暇も与えず、「マスター、どうもありがとう!」と私の手を強く握って、別れのあいさつ。私は、何か、しぼんで、へなへなするような感じで「ああ、ごく、御苦労さん」と答えた。
めいちゃんと次の日、一緒に昼食をレ・ビラージュ(塚原のみるく村)で食べることにした。
レ・ビラージュは、オニパンの食パンを出すフレンチレストラン。それも楽しみにしつつ、ママとめいちゃんと3人で3種の違ったメニューを注文した。
ここで、レ・ビラージュの宣伝を。
ビーフシチュー、と言えば、シチューたっぷりなのかと思いきや、しっかりとしたビーフがお皿に。それと我がオニパンの食パンがとてもマッチするお味だった。レ・ビラージュの食パンは、無塩バターを塗って食べる。全く主張しないパンの味が、お肉のうまみを引き出してくれる。

この写真は、ビーフシチューではありません。
豊後牛のフィレ肉ステーキ。ここのランチでは、みるく村特製のアイスクリームがついています。これがまた、とてもおいしい!
ちなみにおすすめのビーフシチューのランチは、オニパンの食パンとスープ・アイス・コーヒー付きで1890円です。

 さて、楽しくておいしいお食事会が終わり別れるとき、めいちゃんが小袋を手渡してくれた。帰って、その中身を見るとおいしそうな手作りのチーズケーキ。そして、お手紙と絵が。手紙にはとてもありがたい言葉が記されていた。絵がとても素敵で、オニパンのパンフレットにでも載せようかと思うくらい、めいちゃんの心がこもった作品だった。
ひとに対してこのような心づかいができる人は、きっとまた、ひとから愛される人となることだろうなあ。
めいちゃんの旅立ちは、4月からの彼女の新しい生活が想像できるような、暖かなものを、私たちに残してくれた。

めいちゃん、がんばってね。

マーク・トウェイン没後100年

(う~ん何を書こうか)困ったものだ。オニパンに来られるお客様で、「ホームページ見ました」とおっしゃる方が増えてきている。少しでも更新しとかないと申し訳ない。というわけで困っている。
だいたい日記なんてとりとめもないことを書きつけるものだ。いちいち考えて書くほどのものもないくせに・・・。書きたいことはあるのだが、非常にマニアックな内容をここに書くのもどんなものだか。今一番書きたいことは、酵母の話。新しい発見がある。でもやめとく。これは、パン作りをしている人で、天然酵母に関心のある人であればフィットする話題。この新しい発見に興味を持つ人は、ぜひオニパンを訪ねてほしい。私も話し相手がほしい。ママは、あんまり興味がないみたいだから。
以前この「折々帳」で私が児童文学に興味を持っていると書いたことがあった。若いころアメリカの作家マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだことがある。そのころアメリカの歴史にも興味を持ち色々と難しそうな本も読んだ。黒人奴隷の歴史、開拓者のお話、キング牧師のことなど・・。
若いころって正義感も強く、人間らしい生き方についても模索し、さまざまに社会についても批判的に考察しようとするものだ。
例外に漏れず、私もそんな青年だった。児童文学が好きだった私は、『十五少年漂流記』の続きみたいな感覚で『ハックルベリー…』を読んだ。それは子どもらしい夢のある冒険のお話ではなかった。勉強嫌いで、野蛮な父親を持つハックが、引き取られたお堅い家から逃亡する少年の物語だった。そしてその相棒は、ジムという「逃亡奴隷」の黒人であり、二人はミシシッピー河を下りながら様々な体験をする。

ほぼ、内容は忘れてしまった。しかし、感動したことはしっかり覚えている。ジムが騙され、白人にとらえられ身を売られそうになる場面がある。ハックは悩む。ジムの元の主人に連絡してジムを助けてもらおうか。しかし、そんなことをすれば、元の主人は自分の家から逃亡したジムを売り払ってしまうだろう。ジムの逃亡を助けた自分も悪くいわれるに違いない。
ハックはジムが自分をどれだけ助けて優しくしてくれたかを思い、泣きながら決心し、「地獄に行ってやる」とつぶやく。つまり、社会の慣習やきまりを投げ捨て、自分の本当の気持ちに従って、ジムを助け出そうと決意するわけだ。
地獄に落ちても、ジムを救う方が自分らしい生き方だとしたハック。その著者マーク・トウェインも、当時の黒人への差別に強い憤りを持っていた。今年はマーク・トウェインがなくなって100年とのこと。たまたまそのことを知って、30年以上前のことを思い出した。
最近NHKの「歴史ヒストリア」という番組で、戦前のプロレタリア作家小林多喜二のことが取り上げられていた。彼の著作『蟹工船』が昨年、若者たちの圧倒的な支持を受け、一大ブームとなった。これも実に感慨深いことだった。
若いころ小林多喜二に夢中になり次々と彼の作品を読んだ。戦中にあの侵略戦争に反対しひどい拷問を受け殺されたということは、高校時代より知っていたものの、『蟹工船』が、予想以上に面白かったからだ。それに続いて読んだ彼の作品たちは、暗い、固い、むずかしいものという私の先入観を裏切り、実にさわやかで明るく、人間らしさにあふれたものだった。私は多喜二の生き方に感動し、彼が日々日記代わりに読書感想を綴っていた『折々帳』をまねして、私も綴った。あ~恥ずかしい。そんなわけでこの日記も「折々帳」と昔を懐かしんでつけたのです。