縄文em工房の作品より

るんるんなのです。待ちに待った「バターこね器」が届いたのです。何、それ?そうでしょう、そんなものはきっと売っていません。しかし「必要は発明の母」。ラスクやガーリックフランスをつくるために1ポンドのバターをこねてクリーム状にするのは、結構大変。まあそれなりのやり方はあるはず(一般的にパン屋でのやり方)ですが、私は、芸術的バターこね器を作ろうと、大阪の酒井さんに頼みました。
大阪の酒井さんとは知る人ぞ知る「縄文em工房」の主催者。縄文土器に心奪われ、そっくりそのままの縄文土器のレプリカを製作している方です。オニパンカフェの心強い味方でもある彼は、オニパンカフェ立ち上げ以前より何やかにやとサポートをしてくれました。

例えば、お店の看板。陶板で、素敵な作品に仕上げてくれました。
現在、彼は陶芸教室の先生もやっています。

さて、バターこね器とは一体どんなものか。私が考えたものを酒井さんがつくりました。
これです。

「なんじゃー、スープカップみたいなものではないか。」と思われるかもしれません。しかし、これがでかいのですよ。普通のドンブリの1.5倍くらいあるかな。特長は、大きな柄です。これを左手で持って、右手のしゃもじでバターを混ぜるという構図です。どしっとして、あまり動きません。ちょっと柔らかくするためにこのまま、オーブンに入れることもできます。ちょっと動かすのでも大きな柄があるので、なんともやりやすい!

なんと、可愛いオニパンのマークまで入っている!オニパンオリジナルのバターこね器です。

これは一生もんですね。

さて、タイトルは「縄文em工房」でした。ちょっとご紹介を。

縄文e.m.工房
e arthenware) 土器
mimicry)     模造品
要するに縄文土器偽物造り工房というわけです。
作品の写真を載せようと思いましたが、うまく載せられません。別の機会にします。

パン屋の夏休み~ 高知の旅でわかったこと

やって来ました、夏休み!私とママは、高知へ旅にでました。なにせ今をときめく竜馬の故郷、高知なのですから、いたるところに竜馬が立っていましたよ。
私を含め、観光客も多く、竜馬ゆかりの地は、人と車がいっぱいでした。
学生時代を高知で過ごし、いろんな思い出を残している地へドキドキしながら訪れました。いいですねえ、ただ観光するだけとは違って、青春時代の思い出がよみがえってくる
のは。

私たちの行った翌日より、よさこい祭りがスタートするとのこと。見たかったなあ。
通りは、日曜市でにぎわっていました。

竜馬の生まれた上町へ行ったのですが、駐車場が満杯で、あきらめ、懐かしの桂浜へ。
でも、ここも車が多くて、桂浜へも行けず・・・・。

そのまま、浦戸大橋を越えて、竜馬像のあったお店へ。なんでこんなところに来てるのと矛盾を感じながら、サンゴを見学。

市内の路面電車は、昔同様、健在。やなせたかしさんの故郷というだけあって、アンパンマンの電車も走っていました。ただ昔と違って、この路面電車、高知駅の中まで入っていけるようになっていました。その高知駅も一新。モダンな駅舎に変貌していましたよ。

 高知は以前、木材の生産が盛んだったそうです。ただ今はふるっていず、会社も縮小、倒産が増えているとのこと。この駅舎の屋根は、高知杉材を使い、つくっているそうです。

さて、続いて、四万十川に向かい、上流の高岡郡四万十町の宿へ。
前日は学生時代の友人たちと酒を酌み交わし、熱く語っていました。その話の中で、仁淀川のことを聞きました。仁淀川を守る取り組みが今進んでいるとのこと。仁淀川は四万十川に決して負けない清流をたたえている。その川を守り維持していくために、山の間伐が大切だそうです。しっかりと木を育て、森の中に光を注ぎ込み、様々な植物が育ち、虫や生き物が暮らし、土も豊かになるとのこと。有機質を含んだ栄養豊かな水が川をつくることで、川も海も豊かになっていく。そんな話を聞いていたので、四万十川の眺め方もちょっと違っていました。

「九州の山の様子と四国の山の様子はちくとちがうぜよ。」私は、雄大で広がりのある、九州の高原の景色に心を奪われてきました。それにくらべ、四国の山は山ばっかりで、広々とした草原らしきものも少なく、空も狭い感じがする。山が深いというのか。

宿のおかみさんが言っていました。「この川でこの前釣りをしました。餌は、パンをつぶして針先に。釣れましたよ。」
そうなんです、この川って、魚がたくさん泳いでいます。ちょっとした、
水たまりのような所にもぴちぴちって、小魚が泳いでいます。
どうして?それは、当然、食べ物がたくさんあるからなのです。
山の栄養が、たくさんあって、それが川に流れだしているのですね。
豊かな四万十川は、山々によってつくり出されていたわけです。
深い山のもたらす恵みを、まじかに見ることができました。

宿の名は「かまや」。偶然、ネットで探し出すことができた、一軒の離れ宿の民宿です。
この宿で、楽しい思い出ができました。
経営するのは、79歳のおかみさんと私たちと同年代の若おかみさん。この親子がちょっと好対照な人物で。女将さんは、昔から、小さな部落(現在は80軒ほどか)で、百貨店(雑貨屋)を営み、商売一筋がんばってこられた方。そして、今でも現役で、民宿の料理や喫茶店、小さな雑貨屋を回しています。よく話し、てきぱきとよく動きます。
若女将は、芸術家です。写真が趣味。ピアノの先生ををしていて、高知市内に家があるのですが、金土日は、こちらに戻って、宿やコーラスの指導(部落の女性といっても、ほとんど70~80歳代)をしているとのことです。この方も母親に似てか、ぴしっとした話し方をします。自分のイメージと発想力で、宿のリフォームや商売について考えています。

この喫茶、昔は、お米の精米所だったそうです。中がとてもしっかりとしたつくりなので、つぶすにはもったいなくて、喫茶店にリフォームしたそうです。とてもシャレたスペースです。

 この喫茶店の奥は、立派なグランドピアノが置いてあるスタジオに続きます。門外漢でわからないのですが、このピアノはとてもとても高価なものだそうです。話を聞いていて、驚いたのは、一段高くなったステージのような所にピアノがありましたが、このステージは50年ほど前まで劇場のステージで、映画なども上映していたとのこと。
この小さな部落に、映画や演劇が鑑賞できる場が存在していたとは・・・。そして今も、この若女将が、コーラスなど文化芸術をこの部落に広げているのです。

私は、この若女将と話していて、とても重大なことに気付きました。以前より、高知県人の人間性に独特で異様なものを感じてはいました。それは、高知に初めて行ったころの体験から始まりました。私の住んでいた朝倉という所から、高知市内に自転車で行っていた時のこと。一人のおっちゃんが信号待ちしていた私に近付いてきて「兄ちゃん、市内までのっけてくれや。」それで、私は、30分ほど一生懸命ペダルをこぐ羽目に(本当の話ですよ)。別に変な人ではなかったのですが。高知の人は、異様に距離感が近い!電車に乗った時でも、知らん人がすぐに話しかけてきます。
なぜなの?高地に行って気づくこと。それは喫茶店の多さ。大分県では考えられない数。この80軒の部落でも喫茶店が3軒。そして、モーニング文化があります。朝から、たくさんの人が喫茶店でモーニングを食べている。
若女将は、「高知の人は、怠け者で、しゃべり好き」といっていました。
女性も集団で、朝ご飯をつくらず、モーニングにやって来ます。退職者の男連中も集団で、朝から・・・。ここの喫茶「かまや」も朝から、お年寄りたちが、やってきて、一人平均2時間ほどおられるそうです。
だからなのです!高知の喫茶店は、コーヒーの後お茶が出てくるのは。「かまや」でもお茶を2杯も3杯も出すそうです。
私とママも、そのお仲間に入り、朝ゆっくり、知らない人たちとああやこうやとお話ししました。
高知のこの風土は、きっと今に始まったのではなく、昔より続き、その人間性や集団の連帯力が、日本の歴史を変える人々を育てていったのでは。ちっと大げさかな。

高知の山の中で、色々と刺激を受けたパン屋の夏休みでした。

 

しあわせの共有

8月に入って、素敵な出会いが続いています。今日はお休みでしたが(夏休みなのです)、気がつくと、お店の玄関に二人の方が立っています。それは、大阪時代の職場の同僚でした。若い二人。苦労しながらも、前向きに頑張る様子がうかがわれ、しばらく忘れていたあの頃の思いがよみがえって来ました。ほんと、予期せぬ訪問って心をヒートアップさせます。
昨日は、これまた予期せぬお客様が。それは、あの「あこ庵」のFさんでした。
このブログをお読みの方は、当然「あこ庵」は御承知のはずですね。私が、修行(研修というより)した東京多摩市のお店です。あこ酵母製造元でもあります。Fさんは、あこ庵が発行している『あこ通信』の編集者です。オニパンカフェにも取材依頼があり、私は快諾して、先日原稿も送ったところです。なにせ、東京から離れているので、現地取材は無理とのことで、メールでのやり取りで済ませたわけです。な、なのに、遠路はるばる、ちっぽけなオニパンカフェまで、やってきてくれて・・・・。今日の出会いも驚きましたが、昨日のFさんには、驚きと感謝でいっぱいになりました。

さらにお話は続きます。
アウシュビッツの悲劇を書いた『夜と霧』の著者ビクトル・フランクル博士のことを、以前、ラジオ深夜便で聞いたことがあります。私は、フランクル博士の「しあわせ」や「生きる希望」についての考え方に深く感じ入りました。博士はアウシュビッツの極限の状況の下でも、生きる希望を失わなかったとのことです。精神医学者の彼は、自分を実験材料として、冷静に分析し批評しています。私の覚えているそのお話でのエキスは、「ささやかなことにでも、幸せを感じる心の持ち方」ということかな。

さて、パン屋である私は、日々単調な労働に従事しています。その労働は、長時間の立ちっぱなし労働であり、足と腰、そして肩などに酷い負担を掛けます。明けても暮れても、終わりのないハードな労働が続くことを考えれば、重たく、暗い気持ちになっていきそうです。

しかし、実際は、そうではありません。私は、日々、楽しく労働をしているのです。それは、美味しいパンをつくりたいと、様々に試行錯誤を続け、日々、新しい発見をし、時には思いもつかなかった味をつくりだせたりもするからです。

6月ごろより、クリームチーズフランスがバージョン3に突入しました。

これは、バージョン2のクリームチーズフランスです。
これは、バージョン1の改良版。どうしたかというと、普通にフランスパンの背中を切ってチーズを入れるのではなく、冷蔵した生地を麺棒で延ばし、溶かしたバターを塗って、それをまいて、窯で焼く(すなわちクレセントと同じ作り方)。できたパンの背中を切ってチーズを入れる。
この仕方で、以前よりもおいしいクリームチーズフランスになりました。でも、時間が立つとやはり生地がパリッとしなくて、食感がいまひとつになります。

これは、ライトクッペという商品ですが、じつは、バージョン2のクリームチーズフランスのパンに、たまたまクープを入れて窯で焼いてみて生まれたアイテムです。
食べて見て、驚きの食感でした。「パッリパリ」なのです。それもそのはず、開いたクープから、窯の熱が生地の中に入り込み、表面だけでなく、その内部のいくつかの層まで火が達し、「せんべい」のようになっているのです。バターを塗って巻いているからこそ、薄巻き煎餅のごとき食感が味わえるわけです。
(このライトクッペに、クリームチーズを入れたらいいのでは)とひらめきが走り、夢中でやって見て、さっそく試食!嬉しかったですねえ。自分でも「お・い・し・い」と思える商品が完成したのですから。
クリームチーズフランスバージョン3

具体的に、詳しく書いてみました。これが、私の「しあわせの中身」です。
そして、それをお店のカウンターに並べます。買って帰るお客様の後ろ姿を見つめながら、(食べたとき驚いてくれるかなあ)と思うわけです。これだけでも、嬉しいものです。
しかし、なかなか、このクリームチーズフランスは売れ行きが好調ではありません。一つは、午後過ぎてからお店に並ぶということ。忙しい時には、つくれない時もあるということ。他の人気商品につい力が入り、私自身、その感動を忘れかけているときもあること。

それが、やはり昨日のこと。あこ庵のFさんに始まって、最終のお客様にも驚かされました。
お客様は、売れ残っていたクリームチーズフランスを仕方なさそうに手に取り(だってカウンターには他の商品がなかったのだから)、「コーヒーをお願いします」と席に着き、暗い表情でもそもそ食べ始めました。私は、そこまで見て、厨房で仕込みの続きをしていました。お客様が帰りそうなので、お店に出て行くと、お客様はにこにこと話しかけてきました。
「すごい、なんなのこれ!っていう感じ。こんなパッリパリのクリームチーズフランス食べたことないわ。このパンに出会えるなんて、ほんと、来てよかった!」もうべたほめ!
そうして、さらに、売れ残っていたクリームチーズフランスを手に取り、「明日の朝も、これを食べるわ。ああ、明日の朝が楽しみ!」っておっしゃいます。
たかが、クリームチーズフランス一つごときで、ここまで、幸せになれるのか。でも、このお客様、私と同じだ。

パン屋の喜びは、「しあわせの共有」にまで発展するということです。

タイカレーパン

オニパンカフェ開店当時のイチオシアイテムの一つにカレーパンがあった。私自身がカレー好きで、以前より、パン屋に出くわせば、必ずといっていいほどカレーパンを食べた。自分でつくれる数少ない手料理のメニューの中で、カレーだけは自信があった。子どもの頃から、好きな食べ物として、一にカレー、二にラーメン・・・・、と、私の人生の中でも、カレーは特別な位置にある。だから、パン屋になったら(なれたら)、カレーパンはおいしくつくるぞという強い思い入れがあった。
そして、パン屋開店。オニパンカフェの案内リーフ(当時)にカレーパンのことを載せた。

2週に一度くらいの割合で、この2年間カレーを作ってきた。
半年くらいで、カレー作りに限界を感じ、イチオシアイテムから撤退。
色々試してみたが、美味しくならない。もちろん、まずくはないが、うま~い!とは感じられない。自分がおいしいと感じられない商品をカウンターに並べるのは辛いものがある。
リーフは、開店より半年くらいして、書きかえられた。

最近、APU(アジア太平洋大学)のタイウィークに行った。タイ料理がお目当てだ。そこでタイカレーを食べた。初め甘くて後からピリッとする辛みが口に残る。辛いが後味はとてもいい。タイカレーってうまいなあと思った。さらに2週ほど後、たまたま湯布院の「原っぱカフェ」の企画でカレーを食べる催しがあった。そのカレーもタイカレーだった。辛いが、これまたうまい!なんだこのうまさは!
食べ始めの甘い味は、ココナッツミルク。そして、辛さは、数多くの香辛料から。隠し味は、ナンプラーのようだ。家でもタイカレーを作って食べた。今までのカレーとは一線を画すうまさ!この味をカレーパンに取り入れられないものか。
私は、開店当初のように、希望に燃えて、カレー作りにいそしんだ。この2年間で、まとまったオニパンのカレーレシピを基本にしながら、ココナッツミルクやタイカレーのペースト、そしてナンプラーを加え、オニパンの甘いカレーから、ちょと辛めのカレーへと転換させる。自分で食べても結構満足のいく出来栄えとなった。
わくわくしながら、翌日は、初めてのタイカレー(風)パンをカウンターに並べた。
それから数日、リピーターの佐賀県から来るKさんが、またやってきた。Kさんはタイカレーパンが初めて並んだ日に、塚原に用があってオニパンカフェに立ち寄ってくれた。そして、たくさんのパンを買っていただいた。そして、また立ち寄ってくれたわけだ。Kさんは「パンおいしかったですよ。特にカレーパンはとてもおいしかった。お肉がごろごろ入っているカレーパンより、後味もよく、また食べたくなるおいしさでした。」もっとたくさんお話していたが、とにかくうまいという評価をいただけた。いっぱい買って帰ったパンの中で、わざわざカレーパンのことを評価してお話してくれたのには、驚いた。
タイカレーパンは、まだまだ試作段階。レシピが定まったわけではない。しかしこんな風にカレー作りができるようになって、人生簡単にあきらめてはだめだなあと考えさせられた出来事でもあった。

フィリング作りの中で、最も大変なのがカレー。大変な労力を注ぎ込んでいる。そのカレーに自信が持てないという日々が続いていた。でもこれからは違うぞ。この暑さも乗り切れる、甘くて辛い、そしてうまい、オニパンカレ―パンの登場だ!さあ、どうだ!ウ~と唸るおいしさだぞ。君も食べてみないか、オニパンのタイ風カレーパン。きっと、君のハートに台風のごとき感動が訪れるぞ!(以上、宣伝でした)

萱籠(かやごもり)のプレゼント

休日は、しばしば、ママとジョギングやサイクリングに出ます。最近、オニパンカフェから、寒水(そうず)という地を抜けて、萱籠までゆっくり走って(歩いて?)います。
萱籠は、その名の通り、四方より樹々に覆われ、空も地も狭い所。そんな土地にいくつかの家が数軒かたまって、点在しています。
先週の休みも萱籠へ。なぜか、そこへ来ると不思議に心が落ち着くのです。古い木造の家々は、すべて斜面に建てらています。玄関側は坂を上った庭に面し、向かいの奥の側は、斜面の下の地より上に伸びた柱で支えられています。横から見ると、家の1階の床下は、斜面と柱が作る三角の空間があり、きっとその空間に以前は牛などを飼っていたのだと想像できます。牛小屋を別に建てなくてもよいわけで、昔の人の知恵には感心させられます。そんなことを、思いながら、家への登り口に植えられたお花の見事さに気を奪われていると、上から、背中の曲がったおばあちゃんが、下りてきます。
「へえ、あんたたち、塚原からきたん。」
おばあちゃんは、私たちがパン屋だとわかると、おどろいて、
「そうだったん。前に、パンを貰って、ずっと気になってたんよ。」
とおっしゃいます。
ママの話だと、一年ほど前、旦那さんと一緒にオニパンに来たことがあるとのこと。その時の話では、おじいちゃんが車を運転して、病院や温泉に行ってることなど話したそう。パンが売り切れていたので、せっかく来てくれたのだからと、冷凍の食パンと菓子パンをあげたとのこと。
おばあちゃんは、80歳。おじいちゃんは86歳。昼は熱いので、家の中で寝ていて、夕方涼しくなってから、畑仕事に出てきたそうです。楽しみは、温泉や病院に車で出かけること。死ぬまで、人に迷惑をかけないよう、暮らしていきたいと笑いながらお話してくれました。
パンを貰ったことが、嬉しかったそうで、おばあちゃんは「ちちゃいけど、おいしいよ。」と、干しシイタケを二袋私たちに持たせました。
萱籠の静かな空間が、さらに心地よく、身近に感じられる一日となりました。