タイカレーパン

オニパンカフェ開店当時のイチオシアイテムの一つにカレーパンがあった。私自身がカレー好きで、以前より、パン屋に出くわせば、必ずといっていいほどカレーパンを食べた。自分でつくれる数少ない手料理のメニューの中で、カレーだけは自信があった。子どもの頃から、好きな食べ物として、一にカレー、二にラーメン・・・・、と、私の人生の中でも、カレーは特別な位置にある。だから、パン屋になったら(なれたら)、カレーパンはおいしくつくるぞという強い思い入れがあった。
そして、パン屋開店。オニパンカフェの案内リーフ(当時)にカレーパンのことを載せた。

2週に一度くらいの割合で、この2年間カレーを作ってきた。
半年くらいで、カレー作りに限界を感じ、イチオシアイテムから撤退。
色々試してみたが、美味しくならない。もちろん、まずくはないが、うま~い!とは感じられない。自分がおいしいと感じられない商品をカウンターに並べるのは辛いものがある。
リーフは、開店より半年くらいして、書きかえられた。

最近、APU(アジア太平洋大学)のタイウィークに行った。タイ料理がお目当てだ。そこでタイカレーを食べた。初め甘くて後からピリッとする辛みが口に残る。辛いが後味はとてもいい。タイカレーってうまいなあと思った。さらに2週ほど後、たまたま湯布院の「原っぱカフェ」の企画でカレーを食べる催しがあった。そのカレーもタイカレーだった。辛いが、これまたうまい!なんだこのうまさは!
食べ始めの甘い味は、ココナッツミルク。そして、辛さは、数多くの香辛料から。隠し味は、ナンプラーのようだ。家でもタイカレーを作って食べた。今までのカレーとは一線を画すうまさ!この味をカレーパンに取り入れられないものか。
私は、開店当初のように、希望に燃えて、カレー作りにいそしんだ。この2年間で、まとまったオニパンのカレーレシピを基本にしながら、ココナッツミルクやタイカレーのペースト、そしてナンプラーを加え、オニパンの甘いカレーから、ちょと辛めのカレーへと転換させる。自分で食べても結構満足のいく出来栄えとなった。
わくわくしながら、翌日は、初めてのタイカレー(風)パンをカウンターに並べた。
それから数日、リピーターの佐賀県から来るKさんが、またやってきた。Kさんはタイカレーパンが初めて並んだ日に、塚原に用があってオニパンカフェに立ち寄ってくれた。そして、たくさんのパンを買っていただいた。そして、また立ち寄ってくれたわけだ。Kさんは「パンおいしかったですよ。特にカレーパンはとてもおいしかった。お肉がごろごろ入っているカレーパンより、後味もよく、また食べたくなるおいしさでした。」もっとたくさんお話していたが、とにかくうまいという評価をいただけた。いっぱい買って帰ったパンの中で、わざわざカレーパンのことを評価してお話してくれたのには、驚いた。
タイカレーパンは、まだまだ試作段階。レシピが定まったわけではない。しかしこんな風にカレー作りができるようになって、人生簡単にあきらめてはだめだなあと考えさせられた出来事でもあった。

フィリング作りの中で、最も大変なのがカレー。大変な労力を注ぎ込んでいる。そのカレーに自信が持てないという日々が続いていた。でもこれからは違うぞ。この暑さも乗り切れる、甘くて辛い、そしてうまい、オニパンカレ―パンの登場だ!さあ、どうだ!ウ~と唸るおいしさだぞ。君も食べてみないか、オニパンのタイ風カレーパン。きっと、君のハートに台風のごとき感動が訪れるぞ!(以上、宣伝でした)

萱籠(かやごもり)のプレゼント

休日は、しばしば、ママとジョギングやサイクリングに出ます。最近、オニパンカフェから、寒水(そうず)という地を抜けて、萱籠までゆっくり走って(歩いて?)います。
萱籠は、その名の通り、四方より樹々に覆われ、空も地も狭い所。そんな土地にいくつかの家が数軒かたまって、点在しています。
先週の休みも萱籠へ。なぜか、そこへ来ると不思議に心が落ち着くのです。古い木造の家々は、すべて斜面に建てらています。玄関側は坂を上った庭に面し、向かいの奥の側は、斜面の下の地より上に伸びた柱で支えられています。横から見ると、家の1階の床下は、斜面と柱が作る三角の空間があり、きっとその空間に以前は牛などを飼っていたのだと想像できます。牛小屋を別に建てなくてもよいわけで、昔の人の知恵には感心させられます。そんなことを、思いながら、家への登り口に植えられたお花の見事さに気を奪われていると、上から、背中の曲がったおばあちゃんが、下りてきます。
「へえ、あんたたち、塚原からきたん。」
おばあちゃんは、私たちがパン屋だとわかると、おどろいて、
「そうだったん。前に、パンを貰って、ずっと気になってたんよ。」
とおっしゃいます。
ママの話だと、一年ほど前、旦那さんと一緒にオニパンに来たことがあるとのこと。その時の話では、おじいちゃんが車を運転して、病院や温泉に行ってることなど話したそう。パンが売り切れていたので、せっかく来てくれたのだからと、冷凍の食パンと菓子パンをあげたとのこと。
おばあちゃんは、80歳。おじいちゃんは86歳。昼は熱いので、家の中で寝ていて、夕方涼しくなってから、畑仕事に出てきたそうです。楽しみは、温泉や病院に車で出かけること。死ぬまで、人に迷惑をかけないよう、暮らしていきたいと笑いながらお話してくれました。
パンを貰ったことが、嬉しかったそうで、おばあちゃんは「ちちゃいけど、おいしいよ。」と、干しシイタケを二袋私たちに持たせました。
萱籠の静かな空間が、さらに心地よく、身近に感じられる一日となりました。

暑い!

梅雨の間は、とてもむせました。カビがはびこるので、とても気を使いました。酵母ちゃんにとっては、最適な環境、時期なのだろうとは思いますが、なにせ、私たちパン屋にとっては、辛い季節。お客様も減って来ます。自然に恵まれた、山の中のオニパンカフェに雨の中わざわざやってくる方は、よほどの物好きか?なんて言っては失礼ですね。こちらとしては、神様のようなお客様なのです。何とか、梅雨をやりすごすと、次は猛暑!パン屋の仕事って、オーブンと友だちになれないとできないものです。暑い時に、230度に焼けた窯を開け、「さわやかな」熱~い風を体に受けて、「おうおう、今日も、元気に燃えちょんね。」と、窯に語りかけます。熱気が狭い厨房に広がり、ここはまさに真夏の炎暑パラダイス!この年になって、この体験は、正常な判断力を狂わすに十分。礼儀と律儀を重んずる普段の性格からは考えられないような行動に、踏み切りました。
あれだけ考え吟味して選んだ、夏用のコックコートを綿100%のTシャツに切り替え、そして長ズボンをハーフズボンに。
ごめんなさい、お客様。決してお仕事をいい加減に考えているわけではありません。より良いパン作りのための、私の決断であります。8月いっぱいはご容赦を!

楽器2

ハーモニカといってもいくつか種類がある。詳しいことはわからないが、小学校で初めて使う奴は、一段の♯♭が出せないもの。私が合奏団で使っていたのは、2段あって、上段がピアノで言う黒い鍵盤の音、下段が白い鍵盤の音。「剣の舞」は、半音が多いのか、いつも、上下にハーモニカを揺らして、左右に滑るように吹いていた。よくぞ小学生であそこまでやっていたものだと今更ながら、レベルの高さに驚く(自慢ではなく、今の音楽教育と比べての話です)。さらに、クロマチックハーモニカとか・・・・。説明してたら本題から外れて行きそうなので、ここで切るが、私の憧れのハーモニカは、ブルースハープという10の穴しかない、小さなハーモニカ。10しかない穴だが、そこから、たくさんの音階の、様々なテイストの音色が出せる。聴きようによっては、ハーモニカではなくサックスのようにも聞こえてくる。とても深い音色が出せる。そして、キーごとにハーモニカがあって、G,A,B,B♭、・・・・・と20以上(?)ある。
小学生のそれのように、吹けば簡単に音が出ると思ったら大間違いで、なかなかいい音が出てくれない。フルートもケーナも、しの笛など共通に言えることだが、息の吹き込み方で音色は大きく変わって来る。私が憧れたブルースハープも同じ仲間で、そこがネックとなった。
リードと呼ばれる細長い薄片が震えることで、音色が出るわけだが、それを無理にねじることで微妙な半音をつくりだす、ベンドと呼ばれる奏法がある。これが、ブルースハープの特徴的な音色をつくる。しかし、これでつまずく。さらに、舌を使って、一部の穴をふさいだり、開けたりしてリズムをとったりするタングブロック奏法がある。これがやけに難しい。

大阪にいるとき、ウェッティー・ジョーのブルースハープ教室に行っていた。ジョー先生は、ほんま、こてこてのブルースを吹くハーピストだった。私は強く影響され、ブルースの魅力にはまった。ライブに度々出かけ、随分楽しませてもらった。
私の人生に残されているチャンスは、ブルースハープによるライブパフォーマンスしかない。これが実現できれば・・・・と、思ってはいるが。
人それぞれに、夢はあるもの。きっと、私の夢は、夢で終わるのだろうなあ。

楽器

今日のタイトルは、「楽器」。何を書こうかとパソコンに向かって、(ウ~ん)と唸る。ちょっと、ゆるい感じで、出てきたタイトルがこれだった。私は、音楽が好きで、自慢じゃあないが、小学5年生で合唱団、6年生時合奏団に所属していた。これは、自分から希望して入るクラブなどとは違い、音楽の先生が選抜して集めた子どもたちで作られたものなのだ。県のコンクールで争い、結構いい成績(優勝?)を収めていたようだ。
6年生の時、初め、合唱団に推薦され、1回目の練習時に一人一人独唱のテストをした。適性検査なのか。先生は「日浦くん、次からは、合唱団ではなく、合奏団に来てください。」と言う。つまり、向いてないと判断されたわけだ。合奏団に鞍替えした私は、それなりにがんばった。ハーモニカのパートで「剣の舞い」の課題曲に取り組んだ。とても速い曲で、超難曲。放課後の遊びたい時に、ぐっと我慢して、コンクールに向け練習。コンクールの一月ほど前だったか、いわゆるレギュラー組とベンチ組を決めることに。私は、ベンチ組だった。小学生なりに、何か割り切れないものを感じた。
中学生の時、リコーダーが得意だった。自分でも、あまり意識せずに、上手に吹けていた。自分は、絵が下手で下手でたまらなかったが、音楽の才能はあるのではと、何となく自分をほめ、慰めていた。
高校の時、ギターを手にした。フォークブームだったのだ。ギターがはやっていた。とはいえ、ギターをやっているものは少数だったと思う。私は、コードを4つほど覚えて、「真夜中のギター」という曲を弾き、歌えるようになった。
大学の時は、これまた、フォークブームの全盛で、吉田拓郎、井上揚水のコンサートにも行った。私は、へたくそながら、ギターを弾き、歌を歌った。友だちが寄れば、よく歌った。あちこちの下宿から夜遅くまで歌声が響いていた。
就職して、仕事自体が、音楽的な要素もあったので、しばしばギターを片手に歌をうたった。リコーダーも吹いた。
同時に、和太鼓にも夢中になった。プロの研究生として2年ほど打ち込んだ。夏祭りや色々な催しで太鼓をたたいた。しかし、10年ほどで、限界を感じた。次々と若手が成長し、後に続くものが、私を越えて、素晴らしいステージをつくる。(私はステージには向いていない)と感じた。
40歳頃から和太鼓の練習も少なくなり、どちらかというと、音楽から離れ、スポーツや自然への興味が先行してきた。しかし、生来の「音楽好き」というDNAは静かに出番を待っていたようだ。
教え子の親が、ジャズのライブをすると言うので、見にいった。狭~いお店で、3人が演奏しお客が5~6人でいっぱいになるようなところだった。子どもの母親は、ジャズピアノを自由自在に演奏し、父親はベースを「ボンボンボボボン」と軽快に弾く。聴いているものも楽しかったが、演奏しているものが、本当に幸せな表情で、生き生きとやっている。
衝撃だった。和太鼓、お囃子のアンサンブルと違った、演奏の楽しさを感じさせる。
私の悪い所だが、すぐに感動し、やってみたくなる。興味関心は広いが、深みがない。いわゆる「広く浅く」っていう奴だ。
私は、(いつか演奏する側としてライブにでてやろう)と軽く決意する。
だとしたら、何の楽器で?ギター?お話にならないほど下手だし・・・。ピアノ?やっとバイエル60番ぐらいまでしか弾けなかったし・・・。ウ~ん、やっぱりハーモニカしかないなあ。小学生で「剣の舞」が吹けたのだから。
(次週に続く・・・)