縄文em工房②

大阪の友人が主催する縄文em工房についての続編です。
オニパンカフェのために、バターこね器を製作してくれたお話は、前回書きました。
その酒井さんの作品をぜひ紹介したく、再度折々帳での登場です。
陶芸の趣味から始まって、行き着いた先が縄文時代。一万年前にこんなすごいものが作られていたことに驚き、彼は縄文の世界に引き込まれていったそうです。門外漢である私に、熱っぽく語る彼の言葉が、少しずつしみ込んできました。
「縄文人はすごいぞ、日浦くん。彼らの生活は厳しかったかもしれないが、心は豊かだったはず。いや、結構生活も少しは余裕があったかもしれない。でなければ、時間を掛けて、こんな美しいものを作れるはずがない。」
確かに、今の私たちにない生活のゆとりがあったのでしょう。
酒井さんの話を聞いていると、縄文時代が桃源郷のような素晴らしい世界に聞こえてきます。
貧富の差のない、対等自由な世界。厳しくもあれ、助け合って生活する人々。縄文の女性たち皆が、芸術家だったのだろうか。巧みな技を身に着けていたのだろうなあ。

縄文土器の魅力は、私たち素人の目から見ても、わかりやすい。形の奇抜さ、シンプルでありながら現代でも通用するデザイン性。紋様の面白さ。土偶など、まるで宇宙人のような・・・・とらわれない自由な創造性、表現力。
一般庶民が、これほど、の感性を身に着けていたくらしとは。一体縄文時代って、どんな世界だったのだろう。

酒井さんは、縄文土器のレプリカから始まって、現在は自分なりの
作品を製作しています。左の作品は花瓶として使えるように釉薬を塗ったそうです。
大阪の彼のギャラリーに訪問した際に見せていただいたのは、実物大の大きな大きな丸い土器。それに水が「ポチャン、ポチャン」と落ちる音が響く仕掛けをしていました。
凝り性の彼らしい大がかりな作品でした。


右の作品は、数年前、彼から頂いたもの。湯布院でパン屋を開くことを彼に話していたら、店の前にでも、魔よけとして置いておいたらと言われました。
現在は、家の中で、飾りものとして使っています。

縄文土器の素晴らしさは、それをつくりだす人々の豊かさにつながっているはずです。
私たちも、もっと豊かにならなければと、縄文土器は語りかけてくるようです。

塚原の日の出

自然の持つ力を感じながらのパン屋生活です。私のパン工房は、私のものであって、私の一日の大半を過ごす場所なのだから、私にとって過ごしやすい空間に日々リメークされていきます。暑~い夏をやり過ごすため、私のとっている対策は「開けっ放し作戦」。いたるところの窓や戸口を開け放す。工房には、大型機械を搬入するための、大きな開き木戸があります。幅も高さも2メートル以上ある大口径の戸口を開けっぱなす。もちろん、そこには網のスクリーンを張ります。大型機械が道路よりまる見え状態ですが、カッコなんて言ってられません。機械にも人間にも心地よい涼しい風が入って来ます。
その開けっ放しの戸口は、外の世界と私の空間を一体化させる効果も持ち合わせています。塚原に住む朝起きの方が5時ごろ散歩のついでに、私に道路より声を掛けてきます。「おはようございます。」
少し明るくなってくると、鳥のさえずりが聞こえてきます。都会にいるときには聞いたことのないような、明るく楽しく、長~いおしゃべりの声。こちらまで楽しくなってくる小鳥の声です。
パン生地を丸めていると、機械の上に広がる空が、薄紫に変化してきました。そしてその上の空は澄んだ青みが鮮明になって来ます。1~2分すると、その薄い色は、徐々に赤みを帯びて、工房から見える空いっぱいに赤紫の色を塗り広げていくのです。私は、そわそわして、この一瞬を見逃しては人生最大の損だとばかり、外へかけ出していくわけです。(まあいいや、4~5分くらい、パン作りが遅れても)と、言い訳しながら、ほぼ毎日のように、塚原の日の出を眺めます。そして、手を合わせて、お願い事をします。

8月28日 5時28分
右 伽藍岳
左(鉄塔あり)むけんやま

デジカメの露出の調整が微妙で、実際はもっと明るいそら。

ああ、もっときれいなんだけどなあ。


これは、7月10日5時4分。
前の畑にガスが広がり、そこを黄色のキツネが、ぴょ~んぴょ~んと横切って行きました。なんていうか、おとぎの世界みたいな光景でした。

自然の色の美しさ。人工的には出せないですよね。だから、惹きつけてやまないのでしょう。下の写真は、家の中での光景。塚原は家の中でもこんな虫が入って来ます。「どうしてこんなにきれいなの」っていう色をしています。

縄文em工房の作品より

るんるんなのです。待ちに待った「バターこね器」が届いたのです。何、それ?そうでしょう、そんなものはきっと売っていません。しかし「必要は発明の母」。ラスクやガーリックフランスをつくるために1ポンドのバターをこねてクリーム状にするのは、結構大変。まあそれなりのやり方はあるはず(一般的にパン屋でのやり方)ですが、私は、芸術的バターこね器を作ろうと、大阪の酒井さんに頼みました。
大阪の酒井さんとは知る人ぞ知る「縄文em工房」の主催者。縄文土器に心奪われ、そっくりそのままの縄文土器のレプリカを製作している方です。オニパンカフェの心強い味方でもある彼は、オニパンカフェ立ち上げ以前より何やかにやとサポートをしてくれました。

例えば、お店の看板。陶板で、素敵な作品に仕上げてくれました。
現在、彼は陶芸教室の先生もやっています。

さて、バターこね器とは一体どんなものか。私が考えたものを酒井さんがつくりました。
これです。

「なんじゃー、スープカップみたいなものではないか。」と思われるかもしれません。しかし、これがでかいのですよ。普通のドンブリの1.5倍くらいあるかな。特長は、大きな柄です。これを左手で持って、右手のしゃもじでバターを混ぜるという構図です。どしっとして、あまり動きません。ちょっと柔らかくするためにこのまま、オーブンに入れることもできます。ちょっと動かすのでも大きな柄があるので、なんともやりやすい!

なんと、可愛いオニパンのマークまで入っている!オニパンオリジナルのバターこね器です。

これは一生もんですね。

さて、タイトルは「縄文em工房」でした。ちょっとご紹介を。

縄文e.m.工房
e arthenware) 土器
mimicry)     模造品
要するに縄文土器偽物造り工房というわけです。
作品の写真を載せようと思いましたが、うまく載せられません。別の機会にします。

パン屋の夏休み~ 高知の旅でわかったこと

やって来ました、夏休み!私とママは、高知へ旅にでました。なにせ今をときめく竜馬の故郷、高知なのですから、いたるところに竜馬が立っていましたよ。
私を含め、観光客も多く、竜馬ゆかりの地は、人と車がいっぱいでした。
学生時代を高知で過ごし、いろんな思い出を残している地へドキドキしながら訪れました。いいですねえ、ただ観光するだけとは違って、青春時代の思い出がよみがえってくる
のは。

私たちの行った翌日より、よさこい祭りがスタートするとのこと。見たかったなあ。
通りは、日曜市でにぎわっていました。

竜馬の生まれた上町へ行ったのですが、駐車場が満杯で、あきらめ、懐かしの桂浜へ。
でも、ここも車が多くて、桂浜へも行けず・・・・。

そのまま、浦戸大橋を越えて、竜馬像のあったお店へ。なんでこんなところに来てるのと矛盾を感じながら、サンゴを見学。

市内の路面電車は、昔同様、健在。やなせたかしさんの故郷というだけあって、アンパンマンの電車も走っていました。ただ昔と違って、この路面電車、高知駅の中まで入っていけるようになっていました。その高知駅も一新。モダンな駅舎に変貌していましたよ。

 高知は以前、木材の生産が盛んだったそうです。ただ今はふるっていず、会社も縮小、倒産が増えているとのこと。この駅舎の屋根は、高知杉材を使い、つくっているそうです。

さて、続いて、四万十川に向かい、上流の高岡郡四万十町の宿へ。
前日は学生時代の友人たちと酒を酌み交わし、熱く語っていました。その話の中で、仁淀川のことを聞きました。仁淀川を守る取り組みが今進んでいるとのこと。仁淀川は四万十川に決して負けない清流をたたえている。その川を守り維持していくために、山の間伐が大切だそうです。しっかりと木を育て、森の中に光を注ぎ込み、様々な植物が育ち、虫や生き物が暮らし、土も豊かになるとのこと。有機質を含んだ栄養豊かな水が川をつくることで、川も海も豊かになっていく。そんな話を聞いていたので、四万十川の眺め方もちょっと違っていました。

「九州の山の様子と四国の山の様子はちくとちがうぜよ。」私は、雄大で広がりのある、九州の高原の景色に心を奪われてきました。それにくらべ、四国の山は山ばっかりで、広々とした草原らしきものも少なく、空も狭い感じがする。山が深いというのか。

宿のおかみさんが言っていました。「この川でこの前釣りをしました。餌は、パンをつぶして針先に。釣れましたよ。」
そうなんです、この川って、魚がたくさん泳いでいます。ちょっとした、
水たまりのような所にもぴちぴちって、小魚が泳いでいます。
どうして?それは、当然、食べ物がたくさんあるからなのです。
山の栄養が、たくさんあって、それが川に流れだしているのですね。
豊かな四万十川は、山々によってつくり出されていたわけです。
深い山のもたらす恵みを、まじかに見ることができました。

宿の名は「かまや」。偶然、ネットで探し出すことができた、一軒の離れ宿の民宿です。
この宿で、楽しい思い出ができました。
経営するのは、79歳のおかみさんと私たちと同年代の若おかみさん。この親子がちょっと好対照な人物で。女将さんは、昔から、小さな部落(現在は80軒ほどか)で、百貨店(雑貨屋)を営み、商売一筋がんばってこられた方。そして、今でも現役で、民宿の料理や喫茶店、小さな雑貨屋を回しています。よく話し、てきぱきとよく動きます。
若女将は、芸術家です。写真が趣味。ピアノの先生ををしていて、高知市内に家があるのですが、金土日は、こちらに戻って、宿やコーラスの指導(部落の女性といっても、ほとんど70~80歳代)をしているとのことです。この方も母親に似てか、ぴしっとした話し方をします。自分のイメージと発想力で、宿のリフォームや商売について考えています。

この喫茶、昔は、お米の精米所だったそうです。中がとてもしっかりとしたつくりなので、つぶすにはもったいなくて、喫茶店にリフォームしたそうです。とてもシャレたスペースです。

 この喫茶店の奥は、立派なグランドピアノが置いてあるスタジオに続きます。門外漢でわからないのですが、このピアノはとてもとても高価なものだそうです。話を聞いていて、驚いたのは、一段高くなったステージのような所にピアノがありましたが、このステージは50年ほど前まで劇場のステージで、映画なども上映していたとのこと。
この小さな部落に、映画や演劇が鑑賞できる場が存在していたとは・・・。そして今も、この若女将が、コーラスなど文化芸術をこの部落に広げているのです。

私は、この若女将と話していて、とても重大なことに気付きました。以前より、高知県人の人間性に独特で異様なものを感じてはいました。それは、高知に初めて行ったころの体験から始まりました。私の住んでいた朝倉という所から、高知市内に自転車で行っていた時のこと。一人のおっちゃんが信号待ちしていた私に近付いてきて「兄ちゃん、市内までのっけてくれや。」それで、私は、30分ほど一生懸命ペダルをこぐ羽目に(本当の話ですよ)。別に変な人ではなかったのですが。高知の人は、異様に距離感が近い!電車に乗った時でも、知らん人がすぐに話しかけてきます。
なぜなの?高地に行って気づくこと。それは喫茶店の多さ。大分県では考えられない数。この80軒の部落でも喫茶店が3軒。そして、モーニング文化があります。朝から、たくさんの人が喫茶店でモーニングを食べている。
若女将は、「高知の人は、怠け者で、しゃべり好き」といっていました。
女性も集団で、朝ご飯をつくらず、モーニングにやって来ます。退職者の男連中も集団で、朝から・・・。ここの喫茶「かまや」も朝から、お年寄りたちが、やってきて、一人平均2時間ほどおられるそうです。
だからなのです!高知の喫茶店は、コーヒーの後お茶が出てくるのは。「かまや」でもお茶を2杯も3杯も出すそうです。
私とママも、そのお仲間に入り、朝ゆっくり、知らない人たちとああやこうやとお話ししました。
高知のこの風土は、きっと今に始まったのではなく、昔より続き、その人間性や集団の連帯力が、日本の歴史を変える人々を育てていったのでは。ちっと大げさかな。

高知の山の中で、色々と刺激を受けたパン屋の夏休みでした。

 

しあわせの共有

8月に入って、素敵な出会いが続いています。今日はお休みでしたが(夏休みなのです)、気がつくと、お店の玄関に二人の方が立っています。それは、大阪時代の職場の同僚でした。若い二人。苦労しながらも、前向きに頑張る様子がうかがわれ、しばらく忘れていたあの頃の思いがよみがえって来ました。ほんと、予期せぬ訪問って心をヒートアップさせます。
昨日は、これまた予期せぬお客様が。それは、あの「あこ庵」のFさんでした。
このブログをお読みの方は、当然「あこ庵」は御承知のはずですね。私が、修行(研修というより)した東京多摩市のお店です。あこ酵母製造元でもあります。Fさんは、あこ庵が発行している『あこ通信』の編集者です。オニパンカフェにも取材依頼があり、私は快諾して、先日原稿も送ったところです。なにせ、東京から離れているので、現地取材は無理とのことで、メールでのやり取りで済ませたわけです。な、なのに、遠路はるばる、ちっぽけなオニパンカフェまで、やってきてくれて・・・・。今日の出会いも驚きましたが、昨日のFさんには、驚きと感謝でいっぱいになりました。

さらにお話は続きます。
アウシュビッツの悲劇を書いた『夜と霧』の著者ビクトル・フランクル博士のことを、以前、ラジオ深夜便で聞いたことがあります。私は、フランクル博士の「しあわせ」や「生きる希望」についての考え方に深く感じ入りました。博士はアウシュビッツの極限の状況の下でも、生きる希望を失わなかったとのことです。精神医学者の彼は、自分を実験材料として、冷静に分析し批評しています。私の覚えているそのお話でのエキスは、「ささやかなことにでも、幸せを感じる心の持ち方」ということかな。

さて、パン屋である私は、日々単調な労働に従事しています。その労働は、長時間の立ちっぱなし労働であり、足と腰、そして肩などに酷い負担を掛けます。明けても暮れても、終わりのないハードな労働が続くことを考えれば、重たく、暗い気持ちになっていきそうです。

しかし、実際は、そうではありません。私は、日々、楽しく労働をしているのです。それは、美味しいパンをつくりたいと、様々に試行錯誤を続け、日々、新しい発見をし、時には思いもつかなかった味をつくりだせたりもするからです。

6月ごろより、クリームチーズフランスがバージョン3に突入しました。

これは、バージョン2のクリームチーズフランスです。
これは、バージョン1の改良版。どうしたかというと、普通にフランスパンの背中を切ってチーズを入れるのではなく、冷蔵した生地を麺棒で延ばし、溶かしたバターを塗って、それをまいて、窯で焼く(すなわちクレセントと同じ作り方)。できたパンの背中を切ってチーズを入れる。
この仕方で、以前よりもおいしいクリームチーズフランスになりました。でも、時間が立つとやはり生地がパリッとしなくて、食感がいまひとつになります。

これは、ライトクッペという商品ですが、じつは、バージョン2のクリームチーズフランスのパンに、たまたまクープを入れて窯で焼いてみて生まれたアイテムです。
食べて見て、驚きの食感でした。「パッリパリ」なのです。それもそのはず、開いたクープから、窯の熱が生地の中に入り込み、表面だけでなく、その内部のいくつかの層まで火が達し、「せんべい」のようになっているのです。バターを塗って巻いているからこそ、薄巻き煎餅のごとき食感が味わえるわけです。
(このライトクッペに、クリームチーズを入れたらいいのでは)とひらめきが走り、夢中でやって見て、さっそく試食!嬉しかったですねえ。自分でも「お・い・し・い」と思える商品が完成したのですから。
クリームチーズフランスバージョン3

具体的に、詳しく書いてみました。これが、私の「しあわせの中身」です。
そして、それをお店のカウンターに並べます。買って帰るお客様の後ろ姿を見つめながら、(食べたとき驚いてくれるかなあ)と思うわけです。これだけでも、嬉しいものです。
しかし、なかなか、このクリームチーズフランスは売れ行きが好調ではありません。一つは、午後過ぎてからお店に並ぶということ。忙しい時には、つくれない時もあるということ。他の人気商品につい力が入り、私自身、その感動を忘れかけているときもあること。

それが、やはり昨日のこと。あこ庵のFさんに始まって、最終のお客様にも驚かされました。
お客様は、売れ残っていたクリームチーズフランスを仕方なさそうに手に取り(だってカウンターには他の商品がなかったのだから)、「コーヒーをお願いします」と席に着き、暗い表情でもそもそ食べ始めました。私は、そこまで見て、厨房で仕込みの続きをしていました。お客様が帰りそうなので、お店に出て行くと、お客様はにこにこと話しかけてきました。
「すごい、なんなのこれ!っていう感じ。こんなパッリパリのクリームチーズフランス食べたことないわ。このパンに出会えるなんて、ほんと、来てよかった!」もうべたほめ!
そうして、さらに、売れ残っていたクリームチーズフランスを手に取り、「明日の朝も、これを食べるわ。ああ、明日の朝が楽しみ!」っておっしゃいます。
たかが、クリームチーズフランス一つごときで、ここまで、幸せになれるのか。でも、このお客様、私と同じだ。

パン屋の喜びは、「しあわせの共有」にまで発展するということです。