東日本大震災

3月11日、私は2時過ぎごろより体調がもう一つで、休憩に入った。ベッドに体を横たえ、うつらうつらとまどろんでいた。3時前、「ガツン」と部屋がゆれ、何か不穏なものを感じた。お店に行って、ママへ「今地震があったね。」と告げるが、ママは「わからなかった」と応える。
それから夕方まで、私たちは東北・関東で起きていた大惨事を全く気がつくこともなく仕事をしていた。その日、大阪時代の知人が塚原に来ると言うことで、6時過ぎに湯布院へ迎えに行く。すると、その知人は「大変なことが起きている。」と、私に大地震のことを教えてくれた。
その夜から毎日、私は震災のニュースを絶え間なく聴き、見続けている。朝早くから夜まで、ずっと、NHKのラジオで、地震報道を聴きながら、パン作りをやっている。
テレビで見る映像の信じがたい現実。あまりにも衝撃的すぎる。私も57歳まで生きて来て、何度も親しき友人との永訣に涙してきた。今まで別れてきた友人たちの死にざまは、残された私への、強い影響を残し、「彼のように死にたい」と自分自身、死への潔さを決意させてきた。
人の死とは、それぐらい、価値のあるものだと感じ生きてきた。
ニュージーランド地震の報道もつらかった。意志を持って、あの場所へ行き、地震に巻き込まれる不遇さにやるせなさを抱いた。
しかし今回の大震災への感覚は全く異質なものだ。
ニュージーランドの地震は事故的な悲しみを感じたのだが、この震災はとてつもない巨大なエネルギーの前にけし飛ぶ無数の意志なき羽虫のように、大雨に流される微細な蟻たちのように、人間を映し出す。
ニュース映像を見る私は、感情や心や願いや夢を持った生身の人間を全く感じさせないような、大自然の人間への無慈悲な扱い方に呆然と立ちすくんでしまう。
「浜に遺体が1000人打ち上げられている。」この一行で終わってしまう、人の死の意味。許せないような死への尊厳の侮辱。誰を責めることもできない不条理。被災者の皆さんや生き残っている家族の方々の気持ちを思うにつけ、想像をはるかに超えた悲しみに、私もとまどってしまう。

ちょうど厄年の頃、阪神淡路大震災が起きた。友人たちがボランティアで支援に駆けつけるのを横目で見ながら、大した支援もできずに過ぎて行った。
家をなくした友人もいた。もっと何かをしなければと思いながら、自分の悩みで精いっぱいの状況だった。

今、自分でできることは何なのかと考えた。パン屋としてできること。忙しく時間をつくることもままならない。でも、お客様の助けも借りながら、支援の輪を広げていくことはできそう。
今の段階でできることは、義援金に協力することが一番とテレビで言っていた。
だとするならば、募金箱をつくろうと、今日、DIYでつくってみた。

それと、一部商品の売り上げの一部を募金に回せば、助けになるだろうと考えた。
自分の労働がカンパにまわるわけで、現地に行って、活動はできないにしても、パン作りしかできない忙しい身にとっては、力も入る。

ということで、これを読んでいるお客様がいれば、支援設定商品のお買い上げにご協力お願いします。支援設定商品は、オニパンの「今のおすすめ商品」として考えているオクトレザンなどのアイテムなどを考えています。ご協力よろしくお願いいたします。

最後の日?

2月16日。「え~、ほんと~!?」私が買い物から帰ると、ママがこんなことを言うのである。「ドンな、飼い主見つかってん。今日でも引き取ろうかって言ってはったんやけど、マスターが淋しがるって言ったら、明日迎えに来るって言って、帰りはった。」何か、私はへナ~って気抜けしたような感じで、ママの話の続きを聞いた。「ドンは、9歳だって。やっぱり猟犬やった。飼い主さんが言うには、猟犬っていうより、競技犬だって。猟の技術を競う競技によく出てたって。」飼い主さんは、ドンを色々な大会に出したらしいが、ドンの能力と資質は相当のものだったらしい。何せ、九州大会で春夏連覇という栄誉に輝いたたとのこと。そして全国大会に出て、4位(レザーブ)を獲得したそうだ。現在の風采は、どう見たってよれよれの雑巾まがいの姿態ではあるが、ふとした瞬間に垣間見える、なんとも「キリッ」っとした姿や「凛」とした気配は、やはりそれ相当の過去を秘めていた証だったわけだ。
まる一カ月。何とかドンのお世話をしてきた。力もかなりよみがえり、リードを弾く力も手ごたえを感じる。「待て」や「ハウス」も覚えた。私やママがドンに近付くと、ドンは私たちを見て「ニヤッ」と笑う。 嬉しい表現を顔でする犬なんていたかなあ~。ドンは口を開き、歯を見せる。顔面が半分マヒしているので、顔がニヤッと歪む。尻尾も合わせて元気良くふる。本当に良くできた、賢い犬である。
(いなくなってもいいよ~)と半分思いながら、休みの日には、リードを首輪から離し、自由に散歩させる。ところが、どんなに遠くで離しても、1時間もすれば帰って来る。朝と夜の一定の時刻になると、ちょっとねだるように「ウオン、ウオン」と低い声で吠えだす。散歩をせがんでいるのを知ったのは、うちに迷い込んで来て2週間ほどたったころから。オニパン家の犬生活のルールをもう理解しているのだ。一事が万事、呑み込みが早い!なんでこんな賢い犬が、迷子になったんだろうなあ。

2月17日。今日はドンと最後の日。お別れ遠足ならぬ、お別れ散歩にママとドンとコーちゃんで出かけた。場所はすぐ近くのいつもの草原。そこで記念写真をパチリ。

コーちゃんも、ドンちゃんに慣れて、恐がらなくなりました。でも、ドンちゃんのすごさには、一目も二目も置いているので、決して私たちにとるようなえらそうな態度はとりません。

散歩から帰ると、飼い主さんから電話がかかってきた。「今日のお昼に行きます。」とのこと。私は、(いよいよなんだなあ)と実感。ドンのことをひとしきり聞いた。名前は「ゼファー」待ては「ウオー」と言っていた・・・・・・。様々に話を聞かせていただくうちに、飼い主さんは「もし…よろしかったら…・引き取りますか?」と突然、こんなことを言うのである。私はすぐさま「ええ、引き取らせていただきます!」と返した。事の顛末はあまりにもあっけない。

ドンちゃんは、そういうことで、我がオニパンカフェの犬になったのである。
コウちゃんには悪いけど、ママは「ドンちゃんは、オニパンの看板犬になる!」と嬉しそうに言う。
ドンちゃんは、以前、2頭も小さい猪を捕まえて来たとのこと。そんな風に猟としての相手には容赦しないのだが、人間にはめっちゃ優しい。何をされても我慢している。このブログを読んでいるお客様で、ドンちゃんを一目見ようとくる方も出てきている。すでに、看板犬になっているのかな。
ついでながら書き足すと、ドンの飼い主さんが見つかったのは、前回のブログを読んだ別府のIさんが、心当たりのある知り合いの方に尋ねて、そのおかげでもある。
ありがとうございます。この場を借りて、お礼を申し上げます。もうホームレス犬なんて言わせないぞ!(あれっ、言ってたのは私だっけか)

ドン

1月16日オニパンカフェに迷い込んできたホームレス犬。警察に問い合わせても捜索願いは出ていない犬で、しばらく(体力が回復するくらいまで)餌をあげようかと思い数日世話をしていた。
我が家のコーちゃん(コリー犬)のお世話もあるし、早く飼い主が見つかるといいなと、軽く考えての行動。その数日間、このホームレス犬、私の知っている「犬」の概念をはるかにしのぐ、能力と行動に唖然とさせられた。
やせ細った、骨骨の体。餌をあげると、飲み込むようにがっつき、オエ~オエ~と戻して、また食べる。顔を見ると、傷がいっぱい。しかも左半分がマヒしているようで、歪んでいる。左前足は関節のところで曲がっている。尻尾の先も毛がはがれ、血が滲み、体のあちこちの毛も禿げて身が見えている。きっと、お年寄り。2~3日してコーちゃんと一緒に散歩に連れて行った。コーちゃんがどう反応するかも興味があった。ホームレス犬は、コースケを無視。何でも興味を持つコーちゃんの方は、気になって仕方がないようで、ホームレス犬の臭いをかごうとする。うっとおしいと感じたのか、ホームレス犬は、コースケに向かって牙をむき、一喝!コーちゃんは、その迫力とすさまじい「本能」に、一瞬にして降参してしまう。

彼は、きっと昔、名高い狩猟犬だったに違いない。犬種はイングリッシュセッター。鳥犬だと、知人の猟師が教えてくれた。獲物が近くにいそうな場を散歩していると、とたんに彼の動きは活発になる。地面に鼻をつけ、両手両足(4本の足)がそれぞれバラバラに動くような感じで、ぐるぐると体全体で地を這い廻りだす。犬と人間には敵意は感じないようだが、他の動物には、強い関心を示す。
近くの別荘に「モデナ」という、おとなしい白馬が住んでいる。コーちゃんの散歩コースでもあり、コーちゃんは、嬉しそうに、モデナに反応する。しかし、我がホームレス犬の彼は、しばらく大きなモデナをじっと見上げていて、次に驚くべき行動をとった。柵から顔を出して、こちらを見ていたモデナに、突然声をあげて、柵を掛け登り、顔に飛びかかっていった。モデナは仰天して、その攻撃をよけ、逃げて行ったのである。怖れを知らないこの犬!知人の猟師が言うには、この犬の顔の傷など、猪にやられたのだろうと言っていた。そうなんだ、この犬は、百戦練磨の孤高の戦士なのだ。

彼は、ウンチをするのに、普通の犬がするように、立ち止まって、おしりをすぼめ、辺りに気を使いながら、う~んと気張るようなことはしない。な、なんと、走りながら(少しスピードは落とすが)お尻を若干かがめ、大きなウンチを放り出す。獲物を探し、求める最中に、のんきに立ち止まってウンチなんかしてられないのだ。そこまで徹底したプロなのだ。

お店が、お休みの日、コーちゃんと彼とで一緒に長めの散歩をする。プロの猟犬であった彼を、リードにつないで散歩するのは、どんなものかと、自由にしてやる。まあ、どこかに行ってくれてもいいや、みたいな気持もなかばあるのだが。というのも、彼の行動には、半ば手を焼く面もあり、こちらにも疲れが出てくる。離すと、雪の日に一晩中帰ってこずに、獲物か何かを探し求めて、走り回っているとか。もう、死にそうな状態で、戻ってきて、餌を食って、倒れこんで寝ていたり。基本的に体が食料を求めていて、近所のごみ袋の中身をを食い散らかして、私が怒られたり。物置きの外につなぐと、夜中に吠えるので、中に閉じ込めておくと、これまた、吠え、足で戸をたたき続ける始末。

一週間も過ぎると、彼はうちの家になじんできたのか、離していても、1~2時間ほどで、戻ってきて餌をねだるようになる。二週間もすると、家にいてるときには、静かで落ち着きも見せ、私やママが近付くと、半身顔面マヒの口から歯をむき(彼にとっては喜びの表現)、尻尾をうち振るようになった。
このまま「あいつ」とか「ホームレス犬」なんて呼んでいては悪いなあと、名前を考えた。ママの実家にも以前捨て犬で彼とよく似た感じの犬がいた。名前は「ドン」。
そう言えば彼にぴったりなのでは。コースケは、彼と一緒に散歩に行く時、彼の後をついていく。コーちゃんは、あの「一喝」以来、彼にビビっていたが、最近では親しみも覚え、彼のすごさに敬服してか、後を嬉しげについて回っている。「アニキ~!」みたいな感じ。骨骨の痛々しい感じではあるが、彼は「ドン」(親分)の風格がある。

「どんちゃん」って呼ぶと、駆け寄って来る。朝と夜の散歩時にはねだるような甘えるような鳴き声を数日前から発するようになってきた。
しっかりと感情表現をするどんちゃん。今からすれば「雪の中で死なないで良かったなあ」と、ひしひし感じるまでに、我が家の犬になってきた。

手前がコーちゃん。奥の物置にどんちゃん。朝の散歩前の一コマです。


顔がちょっと歪んでいるどんちゃんです。

ちょっと緊張のツーショット

こんな感じで、先頭を歩くどんちゃん。

歴史的寒波

歴史的寒波が何日も続きます。塚原は雪に埋もれました。いや~ほんと、寒い毎日です。
お客様を待つ日々。どんなに雪が降ろうと、オニパンカフェには、臨時休業はありません。ご近所の方がやってきます。冒険心を味わうかのように、わざと大雪の中、お店に現れるお客様も。お店がしまっていたら、がっかりされるだろうなと思うと、休むわけにはいきません。
普段と違って、のんびりとした時間が過ぎていきます。降りしきる雪を見ながら、最近購入した「カーペンターズ」のベストCDを聴きます。やさしく澄んだカレンの声。学生時代にタイムスリップしたような気分になります。
パン作りや販売に追われる日々。体を酷使し、なかなかゆったりとした時間をとることができません。しかしこの歴史的寒波は、私とママに心のゆとりももたらしてくれました。カーペンターズをアマゾンで注文するとともに、幾冊かの本も頼みました。ほとんどが「発酵」関係の本。それと混じって、女流詩人茨木のり子の評伝『清冽』と詩集『倚りかからず』も。


茨木のり子は、以前より興味のあった詩人。久しぶりに読書の日々です。
いいですね、心洗われます。

離れのログハウスに、凍結防止のため、緩めていた水道の蛇口を閉めに行きました。
「えっ!、まさか~!」凍結防止が目的だったのに、しっかり冬将軍にしてやられました。
秋芳洞の鍾乳石の石柱のようになった、流し。こんなの初めて見ました。

 家の中でつららと逆つららを発見。
雪国はさぞ大変だろうなあ。
塚原でさえも、こんな状態なのだから。

歴史的大雪と迷い犬

1月15日から降り続けた雪は、翌16日塚原をすっぽり銀世界に変えました。ママは「ほら、早くカメラで写さな!」と私にけしかけます。確かに、これは歴史的な事件かもしれないな、とデジカメを持って、あちらこちらを写しました。
先ずはお店の正面風景。後ろのテーブル辺りに積もれた雪を見ていただくと、かなり積もっていることがお分かりになるでしょう。

次は道路の様子。

雪で覆われています。

これは極めつけ。見事なつらら。翌日はさらに大きくなっていました。この雪と寒さは、オニパンカフェにお客を寄せ付けません。それでも数名のお客様が見えられました。そんなお客様のために、私は心をこめてつくったパンを提供します。

さて、こんな塚原にふらふらと珍客が迷い込んできました。彼はふらふらと、あてどもなく歩き続けます。目はうつろ、体は濡れて、しかも薄っぺらい雑巾のようによれよれしています。何日も食べてないのでしょう。このままでは、死んでしまうだろうなと思わせる様子。
左の顔半分がマヒしているようで、少し垂れ下がっています。
猟犬のようです。
とりあえず、ひきとっています。持主はどこにいるのでしょう。