窯について

オニパンカフェに新しい三段の窯が入って来ました。今使っている窯はとても気に入っているのですが、最近のパンの量からすると、かなり無理が出ていました。三段の窯がいよいよ搬入されるということで、期待に胸膨らみます。

このオーブンは(中古で購入)結構新しそうで、コントロールパネルも細かく分かれ、タッチパネル式。気をつけないと違う表示をタッチしそうになります。(う~んこれは、中高年向きではないなあ!)でも、これで、安心してパンをつくることができるぞ!試し焼きをしてみると、お~何とふっくらと焼きあがることか。流石新しいタイプのオーブンは違うなあ!と感激。でも、ちょっと引っかかるものが・・・。
それは、庫内の様子。今までとは違い、炉床が白っぽいボードのような板になっていること。今までのは、石のタイルが敷き詰められていました。天井部にも石が装着されて。

翌日は営業日。菓子パンは調子良く焼きあがります。でも、フランスパンが・・・、うまく焼けません。ふっくらと膨れるのですが、パリッとしません。そして、クープがぼわ~っとします。エッジが立ちません。
しかし、それ以上にショックなことが起こりました。それは、クレセントという、オニパンの看板商品が全く別物に焼きあがります。オーブンの個性や特徴をつかめてないからうまく焼けないのではと、いろいろと三日間試しました。それで確信したことは・・・・。
このオーブンでは、まっとうなフランスパンは焼けないということでした。

ちょっと専門的なお話になって、パン素人の方にはついていけない議論となってしまいますが。
新しく購入したオーブンは、庫内が石でできていないため、蓄熱性が弱く、戸を開けてパン生地を入れる間にぐんぐん庫内の温度が下がっていきます。その落差は20度近く。そして、設定の230度まで温度が上昇するのに10分以上もかかります。おかげさんで、ふわっとした焼きあがりは確保できるものの、表面のパリッと感や鋭い焼きあがりは台無しになります。その点、石床のオーブンは、戸を開けても低下温度は5度程度、そして戸を閉めてからの温度上昇の早いこと、すぐに230度に到達していきます。
恥ずかしながら、パン屋でありながら、最近までクープ生成の仕組みがわかっていませんでした。
スチームの出方もクレセントにとってはとても大切な要素となってきます。前に使っていた窯のスチームの出の良いこと。そのスチームが生地の表面を湿らせ、輝くような艶を作り出します。すべすべと光っているような。それが今回のオーブンでは、全くできません。
3日間フランスパンが出せない事態で、私はお店の将来に危機感を感じました。当たり前のように焼いていたフランスパン。でもそれは決して私の腕前ではなく、窯の力が大きかったこと。「なくして初めて知るその存在の大きさ」私は、お世話になっている設備屋さんに泣きこみました。「何とかしてください!!!」
ツル企画ファイブという会社の方々は、話し合い、オニパンカフェから下取りした窯(それは、別のパン屋さんにもらわれていくことになっていたそうですが)に、別のオーブンの1段を合体し、何とオニパン用に3段窯を製作しようということに。ツル企画ファイブの皆さんは残業し、二日間くらいであっという間に3段窯を完成させました。

別々のオーブンを合体させるのですから、多少のちぐはぐはでてくるのでしょう。コントロールパネルは上と下で左右逆に。上の我が愛する2段石床スチームオーブンは点火や照明もコック式。下は菓子用のオーブンらしく複雑なタッチパネルに。細かなところで合体のために工夫がされています。先日観たレンタル映画「アイアンマン」のような機械仕掛けがうれしいオーブンです。
戻ってきた「恋人」を大切にし、それを実現させてくれた人々に感謝しながら、さらにおいしいフランスパンを目指していかねばね。

窯について

昨日は、市民劇場があり、チャールズ・ディケンズ原作の「クリスマスキャロル」を観に別府まで行く。その途中、ちょっと寄り道して、先週行ったエコーラインや由布岳正面登山口へ。しかし、あの『感動』の紅葉(茶葉)はそこになかった。青春時代のように――気がつけば過ぎ去っている。美しい時は一瞬。その一瞬を見逃さないこと。しっかり味わうこと。そんなことを考え始めたのは一定の齢を重ねてきたからなのか。残りの人生をつい意識してしまうからなのか。いえいえ、まだまだ、若い若い・・・。
ディケンズと言えば、私には青春時代に思い入れがある。青春真っ盛りの高校時代、「オリバー!」というミュージカル映画を観た。マークレスターと言う子役がとても素晴らしかった。貧しい孤児のオリバーツイスト。そのオリバーを援助し助ける酒場女がこれまた素敵な人で、確かシャニ・ウォリスと言った。その影響もあり、学生時代「二都物語」や「デビッド・カパーフィールド」も読んだ。ディケンズは弱い立場、貧しい人々の立場に立って人間らしい生き方や人生の応援歌をその作品の主題としている。「クリスマスキャロル」も同様に心洗われる中身だった。終演後キャスト全員が舞台に立ち「清しこの夜」を歌った。観客と一体となったその歌の響きはじわじわと私の涙腺を刺激した。
忙しい日々の生活の中、人間関係も何かとややこしく、ともすれば、私たちは自己防衛的、自己中心的な発想に陥りがちだ。しかし、それぞれに人は幸せを求めて生きているわけで「他人のために祝福する」心の余裕もほしいものだ。クリスマスの日はそれを考えさせてくれる日だとわかった。
「あれっ」・・・、窯について書く予定だったのに。
今日のタイトルは「ディケンズ」でした。窯は次回です。

紅葉真っ盛り

湯布院塚原に来て2年目の秋。昨年は、それほど紅葉を意識することもなかった。毎週、由布岳を取り巻くように続く617号線を塚原高原より湯布院へ下りていた。塚原の人たちは湯布院のことを「した」と言う。「した」に向かう道は由布岳の山裾を左に見ながらぐんぐん下っていく。ちょっと暗い茶色に焦げたような紅葉が広がり、特段美しいとは感じられない秋だった。
今週の月、火と大阪時代の知人で現在、福岡で働いている若い女性のヒロヤンがオニパンカフェにやってきた。彼女は、オニパンカフェのしきたりを良く知っている人だ。しっかり働かないと一宿一飯の恩恵を被れないことは了解済み。今回も、バンジュウ洗い、厨房の床磨き、夕食作りなどがんばってくれた。その彼女に、せっかく塚原まで来たのに、働かせてばかりでは悪いと、ママと私3人で朝食に湯布院の「マルク・シャガールゆふいん」へモーニングを食べに行った。この店のオーナーさんとは知り合いで、最近お店に出した自家製の「クロッカン」をすすめられていたので、一度行かねばと思っていた。
3人で「した」へ向かう道の光景が、昨年のそれとはまるで違うことに気がついた。塚原のドングリ茶屋を出て進む道の両側の木々の紅葉の美しいこと。さらに由布岳を迂回し下へ下りると、左に広がる景色に心奪われた。笹や萩等の草原の色は黄色茶色黄緑えんじ色の絨毯のように地を覆い、そこに生えている低木の木々の大きな葉っぱは変化のある茶色に彩られている。「あ~きれい!」3人は思わず声に出しながら「した」に下って行った。
「マルク・シャガールゆふいん」でゆっくりと朝食をとり、例のクロッカンも買って、塚原へ戻る。今度はのぼり。下りよりもしっかりとその紅葉(茶葉)の美しさが目に焼きつく。そのとき、(もしかしたら)とひらめくものがあった。オニパンに来たお客様が「エコーライン、通ってきたけど、きれいやった」との言葉を思い出した。オニパンには戻らず、そのまま、エコーラインへ。(う~ん、これまたきれい!)特に、紅葉した樹木の間から垣間見える由布岳斜面の紅葉がまた美しい。3人の探索はこれで終わらなかった。エコーラインでさらに、弾みがつき、「猪の背戸」から由布岳正面登山口の方へ。
そこは、もう圧倒だった。ちょっと表現しようのない世界が広がっていた。小雨降りしきる雨の中、「雨が~こつぶうのしんじゅなら~♪山は~えんじ~の夢せかい~♪」(わかるかなあ、橋ゆきおの歌だけど)みたいな調子でうっとりひたりきってしまった。この年になるまで、紅葉でこんなに走り回ったことがなかった。ヒロヤンのおかげで、貴重な一日を過ごさせてもらった感じだ。付け加えて言わせてもらうと、翌日(つまり今日)も、雨の中、私はカメラを持って、同じコースを・・・。ほんと、どうしようもないですね。うまくカメラで表現できるかどうか分からなかったけど、近場の方には、今週の土日くらいまでに来てみたらと思って載せました。紅葉と同様、草紅葉と言うのか(えびの高原もそんな感じなのかなあ)茶色のグラデーションの美しさ是非一度見てほしいです。

小雨に煙る「雨のエコーライン」

晴れた青空のもとでは、この色がさらに美しく燃え上がると思います。今週が見ごろでは。(11月11日朝)

パン屋の修行時代(終了後)

2007年10月中旬。あこ庵の修行を終えた。苦悩した修行の期間だった。あこ庵の社長近藤氏から言われた「パンだけを見なさい」という忠告。それは、私がパン作りの技術習得よりも、周辺の人間関係に振り回される姿を見てのアドバイスだったのだが、その言葉の通り、最終の一カ月はパンだけに集中した。今まで見えてなかった、パンの姿が鮮やかに私の目に飛び込んできた。回り道をしながら、やっとパンの道にたどり着いたと感じられた。それにしても、何と言い訳がましい自分だったのか。職人さんの中で、自分を認められたいばかりに、言い訳をする。自分の主張をする。そんなに口にしたわけではなかったが、心の中で、叫んでいた。自分の中に明確な目的意識や目標がないから、言い訳をついしてしまう。言い訳は中身のない自分、自信のなさのあらわれ。本当に人生勉強の7カ月だった。その後、2008年1月と2月、日本パン技術研究所の短期コースに入学した。ここは、日本を代表する大手パン業界(ヤマザキ、フジなど)の社員さんたちや製粉業界の社員さんが研修に来る第一線のパン学校。朝8時半より午後5時までパンの理論と技術を学んだ。イーストを使って、より効率の良いパン作りを目指す技術指導はあこ庵で学んだパン作りとは対照をなすものだった。大量生産、長期保存性、経済性などを追求するパン作りとその研究。有名パンチェーン店が、冷蔵パン生地を購入して簡単にパンを作っている実態などを知った。気に行ったパン粉を選別し砂糖、塩、油脂などそのすべてにおいてこだわってパンを作るリテイルベーカリーが希少、貴重な存在だと改めて感じた。生地を柔らかくするためには、生地調整剤が必要だと言ってしまうと、もうそこで終ってしまう。手作りの技術や工夫などを学ぶのではなく、工場生産のための研究開発が目的のような感じだった。しかし一方で生地がおいしいパンになるための科学的な研究はすごいものがあるなと思った。あこ庵で学んだパン製造技術とパン製造の理論の大事さがよくわかった。
そして、3月、塚原にやってきた。不安は大きかったが、とにかく道は一本しかない。パンの道。

パン修行終了後、東北へ一人旅に出ました。三陸海岸の遊覧船にて。現在の愛車、ホンダCD250U。この愛車に乗って、大阪から東京へパン修業に行きました。修行が終わり、また大阪へ。その帰阪途中の恵那山トンネルでの出来事。恵那山トンネルはとても長いトンネルで、100キロで走っていても、有に15分は掛かるほどのトンネル。そのトンネルの路面はとても悪い状態で、ハンドルがとられそうになります。100キロで走っていたらこけそうになるので、80キロ70キロとスピードを緩める。そこへ後ろから大きなダンプ。「おらおら、そこのけ」ってな感じで、直後に迫ってくる。私は、スピードを上げようとしましたが、するとハンドルがガタガタと・・・。真っ暗なトンネルの中で死と隣り合わせた恐怖の10分間。(こんなに苦労してパン修業を終えたのに、こんなところで死ぬのかなあ)ほんと、人生最大の恐怖でしたねえ。トンネルを抜け出した時の安ど感。これはなかなか人に伝えきれないものを感じます。もう二度と恵那山トンネルはごめんです。

 

パン屋の修行時代(精神編)

パン屋では足かけ7カ月の修行だった。途中やめようと思ったこともある。肉体的な苦痛は何とか我慢できる。しかし、感情的な苦痛は、思いっきりの良い私の性格からして、「やってられるか」と切り出してしまいそうになる。初めの一カ月は、職人さんと50を超えた年寄りの私との遠慮のし合いで事なきをえていた。しかし、慣れてくると、うだつの上がらない私へ徐々に焼きが強まってくる。正当な注意やアドバイスなら受け入れられるが、どう考えても嫌がらせ的な対応には(そういう職人さんも中にはいる)、我慢も限界になる。宿へ帰って、疲れた体で一人いると、情けなくなってくる。今までの自信とは何だったのか。退職するまでの仕事で培ってきた人生観や精神力は、職人の中ではたいして役に立ちそうになかった。自分に自信がなくなりかけていた。体力的なものもあるが、何より話し相手のいない状況は、気持ちを弱くさせていく。好きな音楽や映画を見て気を紛らわそうとレンタルの店に行く。しかし、身分証明書や住所を証明するものがないということで受け付けられなかった。世間の弱者のみじめさを初めて感じた。マザーテレサが言った「最も不幸せな人々は、貧しいものや重病の人々でもない。誰からも関心を持たれない人々」と言ったそうだが、存在を認められない状況は、体から元気をそぎ落としていくことが実感された。私は5月下旬に4日間休みを取って、大阪へもどった。心地よい夢のような4日間だったことを、日記に記している。元の仕事の仲間たちから、励ましの言葉や早すぎる「開店のお祝い」などもいただいたり・・・。東京の修行先のパン屋へ戻り、修行再開。しかしうまくはいかない。また落ち込む。そんな時、宿の数軒先にある居酒屋に立ち寄った。お店の名は「かどかど」。「いらっしゃいませ!」明るい元気な声と、笑顔が私の目に飛び込んできた。店長さんは私より数歳若そうな40代後半のかわいい女性。何かがポット私の中ではじけた。向かいのカウンターに座っているダンディーな年配の男性がいた。その方はお客ではなく「かどかど」のマスターだった。私はパン屋の修行で東京へ来たこと、なかなか修業は難しいものだ等話した。気持ちが軽くなる自分が分かった。それから4カ月、初めは週に一度だけ、そのうち週に2~3度通うようになる。
「かどかど」は、本当に個性的な人々が集まってくる居酒屋だった。
そして、それもそのはず、店長とマスターが実にユニークな方たちだった。店長さんは、読書や陶芸が好きな人。初めて会った時、本の話になった。彼女は、浅野あつこの「バッテリー」を読みだしたと言っていた。私も、児童文学が好きで、その時点で(映画化される前から)全巻を読んでいた。それで話が盛り上がった。マスターは、別にバクテリアを開発する会社の経営をやっている人だった。天然酵母の話で盛り上がった。さらに彼の経歴が凄かった。非行少年として山形県で何度も新聞に載ったほどの”ワル”の過去も持っていた。酸い甘い、豊かな人生体験は、聞く者に対して惹きつける説得力を感じさせた。お客さんは本当に様々な人たちがいた。そこでお客同士での交流も深まった。常連の「マッちゃん」が新潟の「万寿」(有名なお酒)を持ってくるから宴会をしようと誘いがある。またある時は、韓国の新ちゃんが国から珍しい食べ物をもってきたから、宴会をしよう。こんな感じで、私はいつの間にやら、かどかどの常連の仲間入りをしていた。書けばきりがないほど、話題はある。若者との交流も忘れられない。派遣会社勤務の24歳のよっちゃん、元フィリッピンパブ店長で今はライブ活動をやっているシンガーの青さん。22歳のバイオリンのマサ。国士館大の学生さんたち・・・。本当に楽しいお店だった。マスターと話しながら涙が浮かんでくる場面もあった。
マスター言。
「職人に対して、仲間という意識を忘れてはだめ」
「ひどい指導をしてくれる人は、それなりのしんどい状況を生きてきた人」
「修行の道はけもの道。それに耐えないと力はつかない。」
「負けないで」

多摩市落合3丁目
道のかどにあったから「角角」かも。でも「火土火土」らしい。店長さんが焼き物が好きだからか。まるで、ふきだまりのような(失礼)東京下町の人情を感じるお店。こんなお店を作りたいとマジ思いました。オニパンカフェの柱時計は「コチコチ」と元気に動いています。かどかどのマスターからいただいた大切な柱時計です。

かどかどでのライブメンバー。バンド名は「ミルクホール」手前ベイクド青木、
中ファンシー宮本、奥ウエッティー日浦