映画

先週、かねてより行きたかった『アバター』を観に、わさだタウンへ行った。主人公は、人間ではなく、ナヴィという衛星パンドラに住む人類に似た生命体。人間はパンドラにある希少鉱物の採取に訪れていて、そこで、ナヴィとのトラブルが発生しているという背景で、スト―リィが展開されていく。
なにせ、3D映画などというものは、私の人生上ではありえなかった代物だ。ただでさえ扱いにくい中近両用メガネ(パン作りには欠かせない私のギア)の上に、さらに水中眼鏡のようなものを暗闇でかけて3時間映画に見入るなぞ、好奇心旺盛なミーハー中高年の私にはたまらなく食欲をそそるものなのだ。
ドキドキして、映画が始まるのを待つ。
ウ~、なんだ、こりゃ。なんか、すごい。奥行きがある。映像もとても美しい!多分、普通の人は、私よりももっとしっかり見えているに違いない。というのも、中近両用めがねは、眼鏡の角度によって、焦点が変わるようになっていて、視界全体がはっきりと見えるわけではない。格闘場面で、けられた岩がスクリーンを飛び出し私の方へ向って飛んでくる。他の人は、ある程度よけられると思うが、私の場合は、ぼんやりした薄暗がりから、突然岩が飛び出してくるので、そのたびに、体を動かし、よけようとする無条件反射が訪れる。なんか、映画館の中で、画面上の人たちと一体になって闘っている私の様子は、とても滑稽だったに違いない。

映像の美しさ、CGの見事さも感動の対象だが、それは訴えかけてくるテーマのための手段だと思う時、この映画の値打ちが見えてくる。
単なる娯楽大作に終わらないところが、観客動員数の多さに現れているのだろう。前々回の折々帳で、アメリカ史について少し触れた。私の学生時代の先輩で(この人も、1月13日の折々帳に登場している。青年○○は荒野を走るとテーマを決めた人)アメリカ史や映画にくわしい人がいて、私はこの先輩から強く影響を受けた。この先輩のホームページを見ると、ナヴィと名づけられている生命体は、先住民のネイティブという言葉から来ていると説明されていた。へーそうなのか。最近、先住民の文化や哲学が見直されてきているが、この「アバター」に出てきたナヴィたちの生活や考え方と映画上の人類のそれは明らかに対比される。最初は異様に見えたナヴィたちの容姿。しかし、スト―リィが進むにつれ、カッコよく素敵に見えてくる。それは、彼らの内面が醸し出され、美しく見えてくるからだろう。
感動屋の私は、翌朝のベッドでもナヴィたちのことを考えていた。