長崎「原爆の日」 平和を祈ります

戦後80年なのですね。私は戦後8年で生まれたわけで。オニパンは開店17周年だし。そう考えると、私の子ども時代は戦後の匂いプンプンだったんでしょうね。今から考えると、貧しい暮らしでした。別府という町にもかかわらず、卵は味噌汁に一個入れて、かき回してみんなで食べたし、カレーは肉の代わりに油揚を入れて食べたり。ズボンも男用のものがなくて、女の赤いものをはかされたり。それは私が小学校に上がる前の頃の様子ですが。

私の母方の家族は、戦中、長崎で暮らしていて、原爆投下時被害を受けたとのこと。翌日か翌々日か、多くの死体をかたづけたとか。その様子を私に詳しく話さず、亡くなった。だから、私自身、原爆被害の実相をあまり知らなかった。それを知ったのは、20歳の頃、原水禁世界大会に行ってからだ。過去にもこの折々帳に書いたことがあるが、原爆被爆者の家庭を回って、当時の様子やその後の生活、苦労話を聞いた。50年余り以前の頃だから、原爆被害の実態はリアルに残っていて、私も辛く苦しくなった。大会の最終日にみんなで歌った「原爆ゆるすまじ」は、涙で声が震えたことを覚えている。

教師になって一貫して教えてきたことは、平和憲法のこと。8月6日は平和登校日として、私のクラスだけ、参加出来る子は来てねと言って、平和について学び、遊んだ。昔の学校は自由な雰囲気で教師の独自の取り組みについてクレームをつける校長や家庭はなかった。だから私は、しばしば休みの日に子どもたちと山に行ったり川で遊んだり、パーティーをしたりした。いろんな学習の取り組みをした。教科書に縛られず、面白いと思ったことは追求できた。

「憲法の話」という副教材を使って、6年生は社会の時間憲法の学習をした。この本は子どものために、わかりやすく憲法を解説したブックレットだ。著者は文部省。お国が発行した立派な憲法学習書。そこには、間違って戦争を始めた日本のこと、それによって引き起こされた悲惨な現実、それを反省してこれからは一切の武力はもたないと世界に宣言したこと、そして紛争が起きてもけっして武力や威嚇で紛争を解決しないこと等々をわかりやすく書いている。私はこの憲法9条がある限り日本は平和な国であること、それを子どもたちに教えた。そして私自身、戦前の恐ろしい時代に戻ることはないだろうとなかば安心して暮らしていたことを覚えている。

それは半ばであり、絶対の安心ではなかった。と言うのも、70年代の学生時代から不穏な動きが日本の国内や国外にも起きていたから。しかし国会では非核3原則が絶対で、どんな議員もそれを侵すような言動はできなかった(核を造らず、持たず、持ち込ませず)。

いまや公然と核兵器を(抑止力であるということを口実に)認める勢力が増えている。3原則の造らずは流石に実行できていないが、核兵器を抑止力として認めることがまかり通ってきた。争い、紛争を解決する手段として「威嚇」を用いないと憲法で宣言してきた日本なのに。脅すと言う言葉は、人として、国として認めるべきではない。広島の市長は憲法9条に立ち戻って、今ある「抑止力」について明確に反対の意思を6日の式典で述べた。

ことを具体的に書くほどに重く深刻な響きになる。「平和を祈ろう」で終われば、誰が言っても、反感もクレームもない。しかし現実は具体的にどんどん進行している。その具体に声を上げずして、平和は守れない。誰もが光り輝ける世界、それを目指したいものだ。