つながってきた自立の意味

先週の水曜日(2/11)、大分市で開かれた「民間教育研究集会」に行ってきました。午前は無理(パン屋家業)なので午後の分科会のみの参加で。気になっていた「不登校」の分科会へ。

「星の会」は以前、パン屋のお客様から聞いたことのある団体。たまたま行った研究会を運営していたので巡り会えたわけだ。不登校児を抱えた親の相談機関みたいな感じで思っていたけれど、担当の先生のお話を聞いていて、子どもの捉え方、学校や教師の課題、親の苦労の分析など、その深さや的確さに痛く共感した。私の考えの浅さを痛感した。

70年余り生きてきて、人生の後半局面を過ごしながら、人生について考え、思うこと多し。バリバリの会社員だったあの人、お金をたくさん稼ぎ、富を手に入れた彼、体を悪くし一人暮らしの人・・・地域にはいろんな人が暮らしている。誰もが幸せに暮らせる、そんな社会であればとは思うが、ただ環境や経済、福祉が満ち足りているだけで人は倖せにはなれないなと・・・モヤモヤした気分がある。

そんなモヤモヤをかすかに飛ばすそよ風のような、そして霧の向こうに明るく見えてくる青空を感じる、そんなお話しだった。

そのキーワードは「自立した人間像」。「自立」の捉え方を私は深く理解していなかった。多分、今の社会で、大半の人々が捉え違いをしているのではと思う。

昔から自立とは、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分で行動できる人になることと教えられてきた。私は教員時代「自立のための子育て」こそが教育の目指すことと思ってきた。これを追求していくとその先は「強く、しっかりした、我慢強い、賢い」人間に収れんされる。

その考えで良いのだろうか。

先日の大分市の教会で聞いた奥田さん(自立支援のまち、希望のまちの主催者)の話もそうだった。内容的につながる。

この話はここまでとしましょう。難しく、長い文章になる。読む方もしんどくなりそうなので。第一部終了。続編で、「幸せ一番の国」フィンランドと合せて、お話します。