看板猫リー №168 その二

img_0306リーは僅か3年足らずの生涯を、本当に楽しく色濃く意味あるものとして生き抜きました。狩りをし、人間と楽しく交流し、恋をし、存在を認められ、充実という言葉がぴったりの人生を歩みました。リーがいなくなって、写真を観たり、その行動を振り返るとき、ますますその思いが強まってきます。

リーは「看板猫」となりました。ネズミ捕りの仕事を依頼されてオニパンにやって来たのに、生来の「人好き」「フレンドリー」な性格が、リーを自然とお店の玄関先に向かわせました。来られるお客様への接待に、お客様は癒されます。「リーちゃんかわいい!」「リーちゃんまたね!」そして次回は、「リーちゃんいる」とお客様。「招き猫」そのものです。リー自身もそれがうれしくて、ママの「リー、おいで~」の呼び声に、どこからともなく駆け寄ってくるのです。「すごい!!」とお客様。

リーは、親ばかではないですが、とてもきれいな猫でした。毛が柔らかくきれいで、触ると気持ち良い長毛。しっぽが見事で、小顔。スタイルが良い猫でした。それが、看板猫としても、映える原因でした。親ばかではないですが、リーが何気なくたたずむ姿を見て、つい写真を撮りたくなるのです。猫を飼ってる人は、たぶんみんな同じ気持ちなんでしょうが。猫を飼いだして、猫を飼っている人の親ばかな気持ちがわかってきました。それでも、リーは、特にきれいだと思っています。

dscn3094dscn4068どうですか、見事でしょう。写真が訴えてきますよね。そのリーの美しさが証明される出来事があったのです。リーが一歳から二歳にかけて、二度も写真家が撮影に訪れたのです。その写真家は、リーをどうしても撮りたい、展覧会に出したい、と頭を下げるのです。私たち親としては、リーの美しさをプロが認めたのだと、有頂天に。リーの短い生涯で、最も輝いていたころのワンショットをお見せします。(写真家からいただいた作品)

img019img018どうですか、野良出身に見えない、美しさでしょう。

リーの調子が急変するのは、9月8日(木)です。食べられず、ぐったりと一日中寝たきりのような状態で過ごします。大変だと動物病院へ行き、注射を3本し、様子を見ました。さらに翌日注射を3本。状況は改善されず、このままでは2~3日の命だと判断。私たちも、覚悟を決めるしかないと、決意します。最後にリーの生涯について、触れておかなければならない二つのことを記します。

サリー姉ちゃんのこと

リーは、人好きな猫でした。しかし交流は人だけではありませんでした。リーは一年位前より、近所の(といっても、森を越えた向こう側のお家の)生山さんとこのサリーというお姉さん猫が大好きになったようです。サリーはおとなしい猫であり、リーもまた穏やかな猫でした。毎日のように、サリーのお家へ行っているようでした。リーは去勢していて、サリーのもとへ行っても、ただ一緒に座っているだけの関係。しかしリーにとっては一番幸せなひと時だったと思います。そう思ったのは、最近になって(リーが亡くなってから特に)生山さんが送っていただいた写真などから、確信を深めました。

o0675090013514102683 o0800060013302448792 o0800060013629650706生山さんは、サリーとリーの楽しそうなふれあいの一コマをカメラに収めてくれてました。リーがいなくなって初めて見るリーの姿に、瞼が熱くなります。黙っていても、リーの声が聞こえてきそうです。生山さんは、リーが亡くなって、わざわざリーのためにブログを書いてくれました。その中に出てくるサリーとリーの写真がこれです。

%e4%ba%8c%e4%ba%ba%ef%bc%92 %e4%ba%8c%e4%ba%ba%ef%bc%93 %e4%ba%8c%e4%ba%ba%ef%bc%94こんな風に一定の距離を取っていつも二人は座っていたのでしょう。でもそれだけでもリーにとっては満足のひと時だったでしょう。

こんなに大好きな、サリー姉ちゃんに、リーは2か月ほど会いに行きませんでした。生山さんがパンを買いに来るたびに報告してくれるのです。「ず~とリーちゃん来てないですよ。」それには理由がありました。サリーとお付き合いしたい猫が他にも現れたからです。クロという猫です。クロはとてもタフで強い(体はりーより小さいのですが)猫です。我が家にもたびたび現れ、リーとけんかもしました。リーはクロにかなわず、クロを怖がるようになりました。クロはオニパンの敷地もテリトリーに加え、リーはオニパンの敷地内でもひっそりと行動するようになりました。以前のような、我が物顔のリーの姿(自分が大将みたいな)がまったく見られません。状況が急変する9月8日の一月以上前より、なんとなく元気がない様子でしたが、それが病気だったのか、サリーと会えなくなったからかははっきりしませんが。

症状が急変する9月8日。その前日のことです。目の覚めるようなリーの変化が。それは、オニパンの休みの日、水曜日。9時ごろ、ママがコーちゃんを連れて散歩に行き、お店の前を通って帰って来た時の事です。朝から、リーが見当たりません。ここのところ元気なく一日中、家で寝ていたのに。どうしたのかなあと思いながら、お店の中で仕事をしていると、お店の玄関の網戸越しにママとコーちゃんの姿。私がお店の網戸を開けると同時に、コーちゃんの後をリーが追いかけてきました。それも、何と元気のよい足取り!お~、元気な足取りだあ!!弾んでいるような姿!!ちょっと信じられない光景でした。リーは元気を取り戻したなあ。とてもうれしく思った朝でした。

その不思議な光景の謎は、後になって解かれていきます。生山さんがリーの訃報を知ってお店にやって来たとき、こんなことを仰いました。「リー君、最近珍しく我が家にやって来たよ。2か月ぶりに。」そして、サリーと車の上に乗って、一緒に座っていたよ、と・・・・・。それも、なんと、その時のシーンをカメラに収めていた・・・・・。

%e3%82%8a%e3%83%bc%e3%81%a8%e3%82%b5%e3%83%aa%e3%83%bc %e3%83%aa%e3%83%bc%e3%81%a8%e3%82%b5%e3%83%aa%e3%83%bc%e2%91%a1私は、この写真を涙なしでは見られませんでした。2枚目のように、リーはここのところ、いつもしんどそうに眼をつぶっている。しかし、サリーを見つめるリーの目、ちょっと力はないですが、しっかりしています。クロの恐怖を乗り越えて、しんどい中でサリーを一目見たかったのでしょう。

看板猫としての生きがい

dscn4315(この写真は、9月11日(日)まだ少しは声が出せる頃のものです。)

リーは2度ほど病院へ行きましたが、症状が改善されず、私たちもどうしたものかと迷っていました。娘の勧めもあり、病院を変えて、入院させることにしました。一日入院して、丁寧に対応していただいたものの、状況は改善されず、病院の方もこれ以上の入院を勧めませんでした。私たちは、お家で対応しようと9月15日(木)の夜遅くリーを病院から引き取りました。

退院した翌日、リーの最後が近いと感じ、本人も家の外へ出たいようなので、好きだったマキ小屋の棚などに寝かせました。ほとんど寝たきりで動けないようなのに、気が付くと違う場所へ移動しています。kimg00681kimg00711

そこは、リーが今までお気に入りの場所だったところでした。猫は死ぬとき、人の前から姿を消すといわれています。それは、人に死に目を見せたくないということではなく、きっと飼い主も知らなかったその猫の好きな場所へ行こうとする行動からではないかと思います。リーを見ていて、それがはっきりしてきました。オニパンの前の資材置き場の薪の上だったり、我が家の車の下だったり。リーが好んで居た場所に移動しようとします。そして、驚いたことに10時前、オニパン開店の前にリーは、お店の方へやってくるではありませんか。

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ちょっと歩いては、へたーと寝たような状況で進んできます。そして、お店の前までやってきました。リーは、その場所から大好きなバモス(商売用の車)の間を移動し、そしてまたお店の前に戻り、午後2時ごろ息を引き取ります。ママはたびたびリーの様子を見ていましたが、すぐに異変に気付きました。kimg00851

リーが死に場所に選んだのは、お店の前でした。リーは、自分をかわいがってくれたお客様のことや人との触れ合いが楽しくて仕方がなかったのでしょう。リーが亡くなったすぐ後、涙ぐみながらママがこう言いました。「リーは生涯現役だった。」

看板猫としてリーは幸せな生涯を過ごせた。リー君は私たちに多くのものを残して逝ってくれました。ありがとうリー。

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看板猫リー №167 その一

リーがオニパンにやって来たのは、たしか2013年の11月。生まれて2か月くらいでした。目はブルー、白い長毛で立派なしっぽを持つ美人の猫でした。カスタードの卵を仕入れている湯布院の河野養鶏さんの畑に住み着いていた地域猫の中から、おっちゃんがつまみ上げた特薦の子。はかなく弱々しい白い子猫を見て、「リリー」と名付けました。白百合のイメージそのものでしたから。

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特に猫が飼いたかったわけではありません。当時、オニパンはネズミの被害を被り、立ち行かない状況に瀕していました。工房の食材は食べられ、壁には穴をあけられ、壁の中の配線は何か所も切断され、人の目も気にしないほど棚や床に現れる始末。自宅の寝室の天井裏も多くのネズミが運動会を繰り広げていました。様々罠をしかけ、たくさん捕ったものの焼け石に水。ねずみはさらに増えているような状況でした。コーちゃんがいるので、猫と犬が共存できるか心配ではありましたが、そんなことを言っている場合ではありませんでした。もう猫に頼るしか道は残されていませんでした。

猫についての知識もなく、どうせ野良だからそんなに世話もしなくていいだろう、そんないい加減な気持ちで飼ったリリーでした。

3月に入ってリリーも少し大きくなり、オニパンでの暮らしも落ち着いたころに、大きな猫に襲われケガをします。まったく食事もとれず、死にそうな様子です。動物病院に行って手当をしてもらいました。そのとき私たちもやっと子の親になれたような気がしました。一緒に暮らす中で、野良と言えどなんと感情が豊かなのか、そのしぐさのかわいらしさ、犬にない猫の魅力が徐々にわかってきていました。「どうせ野良だから」みたいな半端な気分で飼いだした気分もすっかり変わり、ひどいケガに心配して初めてやって来た動物病院。そこで先生から聞いた言葉にショックを受けました。

リリーは猫白血病だということ。生きて一年でしょう。そして、この子はオスです。

リリーは、手当の甲斐もあり、元気を取り戻しました。白血病のキャリアではあっても、それを克服して、何年も生きる猫がいるとの言葉を励みに、「これからのリリーとの暮らしを大切にしよう」とママと話しました。そして、美人薄命のリリー改め、強くたくましい「リー」と改名。ブルース・リーって強かったもの。

リーは野良出身ということもあってか、外での活動が大好きでした。水は決してきれいなものは飲まない。わざわざ、外の雨水や家の中でも植木鉢の受け皿にたまった水しか飲みませんでした。そして狩りが大好き。

dscn3753 dscn2685dscn3466dscn2541バッタ、コオロギなどの虫から始まって、カエル、トカゲそしてモグラ、ネズミ、小鳥。極めつけは、自分より少し小さい雉の若鳥も。狩りをして私たちに獲物を見せるときのリー君の自信に満ちた表情。リーは、どんどんたくましく育っていきました。

リーの個性として特筆すべきこと、それはフレンドリーでありコミュニケーションを求めるということです。猫らしくない猫。犬のような猫かな。ニャーと鳴かない。「うにぃほにゃむ~」何か言いながら帰ってきます。聞き取れない、聞いたことのない猫語でしゃべるときが多いのです。ご近所の生山さんのお家に遊びに行くことがしばしばでしたが、その生山さんは「リー君は、わけのわからない話をするので、ニャ~と鳴き方を教えてる」とおっしゃっていました。リーは、そんな風にお話しをするのです。誰に対しても近づいて、ベタベタとします。知らない人の膝の上に乗ったりもします。呼べば、走ってやってきます。オニパンにくるお客様は、とても喜んで、どんどんリーのファンが増えていきました。「リー君居てる?」とパンよりもリーを目当てにくるお客様もちらほら。そんな噂を聞きつけて、ついに猫雑誌の全国紙にデビューしました。

img014-2記者さんは、「たくさんの猫を取材してきたけれど、リー君ほどフレンドリーな猫は珍しい」と、褒めてくださいました。記事の文を見てますと、「ルックスも性格も良い猫店長ががおもてなし」とか「日本で最も美しい村の、最もフレンドリーな看板猫がこちらになります」とあります。リーは最大級の褒め言葉をいただいたなあと思います。そのフレンドリーさは人間に対してだけではありませんでした。友だちを求めて、コリーのコウスケにも、ベタベタの付き合いをします。dscn2347 dscn2358散歩するときも、コースケにまとわりつき、足の間に入り込みます。コースケはリーの頭をなめまわします。それも平気。頭はベタベタ。コースケを信頼しきっているのです。いつも平和的で友だちを求めるリー君なのです。

つづく・・・・・・

 

パン屋の夏休み~パン屋での研修 №166

DSCN4177[1]待ちに待った夏休み。今年は山行きをやめて、パン屋へ行くことに。62にもなってパン屋での修行はないだろうってか。いえいえ、いくつになっても、完成はないんだから学びは大切。特に私のようにスタートが遅いものは、まだまだ見えてないことばかり。前職の経験から言えば、10年過ぎてやっと全体が見えてきて、独自の実践は20年を過ぎたころから。だからパン屋として本物になれるのは、たぶん70を超えてからだろう。今は修行修行。

晴れた空~そよぐ風~♪ みたいな車窓の景色。実際の気分はまるで逆。間に合わない!フェリーの時間にィ~(;´・ω・)💦 目指すは国東の竹田津港。9時40分発徳山行き。修行先パン屋は、出雲大社参道にあるブーランジェリー・ミケ。陸路だけではなく、海路も使うと楽になるだろうと、一気に大分から山口へのワープを考えた。早起きして、ゆっくりコーヒーを飲んで、出発したが、ことのほか竹田津までの時間がかかってしまった。前もって下調べしてなかった。大分空港の近くだと思い込んでいた。小さな地図で見ると、国東半島って一時間くらいで周ってしまえると思い込んでいた。一時間半あれば家から竹田津まで十分行けると・・・・。

今まで、ずいぶんひやひやする場面に遭遇してきた。目的地まで間に合わないぜ~みたいな種の。しかし、運がいいのか、いつもぎりぎりで間に合ってきた。今回は、こんなに早く出たので、いつもみたいな冷や冷やすることもないなと、自らの成長を味わいながら、美しい海岸線を軽快に飛ばした。塚原から別府に出るとき、すでに私の方向音痴が頭をもたげていた。ちょっとまてよ、竹田津って大分空港の方だから別府より日出の方向へ出ないといけないんだよな。すると、いつも行ってる別府店への道を通ると遠くなってしまうよな。・・・・💦。もうこれ以上は書かない。大分にお住いの方がこの文章を読まれたら、なんちゅうことをいっちょんのと思われるから。塚原から別府に出た時点で、フェリー出発までの残り時間は50分くらいだった。

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海岸線って長いんよね。きれいで、気持ちい~。飛ばしても飛ばしても竹田津は現れなかった。もしかしたら、だめになるんじゃないか。どうしよう。当日キャンセルってお金が戻って来ないんだっけ。12000円(-_-;)。払ってないけど、竹田津まで行って、ごまかさずに、12000円はらわなくっちゃな。う~辛い~。そして、陸路で出雲大社へ行くかあ~。疲れ切って夜中につくよなあ。10時ごろついて、翌日朝4時にはお店に行くのか。体持つのかなあ~~。散々だなあ~~。しかし、自業自得、自分が蒔いた種は自分で刈り取るより仕方ない。

DSCN4198[1] DSCN4197[1] DSCN4199[1]到着したのは10時40分。船の跡形もなく、車両待ち合わせの場所には車一つなく。切符売り場に行って謝った。「すみません、遅れてしまって。」お金を払おうと思って、財布を手に取ったが係りの方は、逆に「次の便に乗っていただけますか」と低姿勢で言う。4時間後だが、陸路で行くこと思うと、疲れ方はずいぶん違うだろうと「乗ります」と答えた。お金も無駄にならないし(しかし、キャンセル料を取るような雰囲気は全く感じなかったので、遅れたりした場合取らないのかな)。気持ちは全く切り替わっていた。もう間に合わない、自業自得だと観念した時より、許される限りの楽しみ方をしないと、せっかくの夏休みがもったいないと考えだしていた。だから、この出発までの4時間を初めての国東観光にあてようと思った。

「あかねの湯」という温泉場に行った。ゆっくりお風呂につかり、お昼ご飯。DSCN4194[1] DSCN4196[1] DSCN4187[1]そして、鬼塚の古墳を見学。国東は「弥生の里」と言われるように、歴史は古い。そして広さを感じる。淡々と田舎の自然が続く。そして、14時40分。初めてのフェリー竹田津・徳山フェリーへ。

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生まれて初めての一番乗り。早いということは三文の徳か。こんな景色は、めったに拝むことができない。上々の夏休みだねえ。

徳山から高速へ。ナビがあるから安心だ。少し遅くなるが、ホテルまで案内してくれる。ちょっと古いナビだが大丈夫だろう。

山陽道を行ってると、ナビが突然「新しい進路が確認されました。そちらを選択しますか?」と聞いてきた。意味不明。まあいいか。ナビが判断することだから任せとこう。新しい進路を選択した。

出雲大社付近まで高速で行けるということだった。しかし、この新しい進路は高速から外れて、のんびりとした道を案内してくれる。車には九州の地図のみ。どこをどう行っているのか。ナビしか頼れるものはない。大きな川に沿って道が続く。カヌーの練習場になっている「江の川」だ。「えのかわ」と読んでいたが、「ごうのかわ」だった。後で調べてみて、自分の無知さを知る。「中国太郎」の別名を持つ中国地方最大の河川。そういえば小説であったような。その中国太郎とずいぶん時間をともにした。立派で、何度も立ち止まりその雄大な景色に見入った。DSCN4212[1] DSCN4211[1] DSCN4213[1] 184号線は良かった。江の川がずっと続いた。そこからナビは山の方へ連れて行ってくれた。三瓶山。「さんべさん」と読む。三瓶高原を通った。薄暮に広がる三瓶高原。塚原高原もよいが、それ以上に美しいと感じた。また訪れてみたい。

DSCN4255[1]来たよ!ブーランジェリー・ミケ!\(^_^)/ 昨日は9時の夕食を摂って、3時起床。4時前にやって来た。このミケの店主夫妻は私にとっては大の恩人でもある。9年前東京のあこ庵でパン修行を始めたとき、あこ庵のチーフをしていたのが奥様。24歳という若さで、8人ぐらいいた職人の頭だった。40を超えていた人もいた。しかも女性は一人。仕事が終わってのミーティングなどで、てきぱきと話を進め、問題点を指摘するなど、なぜそんな年でそこまでしっかりしているのか・・・。私のパン職人としての第一歩目で出会った衝撃の人。修業中のつらい思い出の中で、彼女と接することのできた2か月は、本当に救いだった。失敗に対して暖かく接してくれた。大粒の涙を流しながら玉ねぎをむく姿にプロの職人を感じた。重たい食パンのスライサーを一人で抱えて運ぶ姿。弱音を吐かない姿。文庫本を開いたまま、椅子に腰かけ眠る休憩時間の姿。私が入ったのが4月でチーフは6月に退社。寿退社とのこと。結婚準備かあ。相手の方はどんな人なんだろう。

ご主人もなんと東京で研修を受けた2軒目のパン屋さんのチーフだった。ずっと以前の「折々帳」で書いたことがある。ナチュラルプクーというお店だ。その当時彼は30歳くらいだったか。すでに貫禄が漂っていた。パン作りのすべてを任されていた。オーナーさんがパン職人ではなかったので、お店のすべてを彼が仕切ったいた。

私も9年目を迎えている。だから、9年前にパン屋で学んだ時とは比べものにならないくらい、自分の中でのパンやお店への理解の深度が違っている。理解が進むほどに、わからないことは鮮明になってくる。失敗を繰り返すほどに、失敗の本質が狭まれ明確になってくる。そんな状況になって初めて、あらたな体験があらたな示唆を促してくれ、問題を解決してくれる。経験とはそういうもので、だからキャリアは大切なのだと思う。

奥さんがフランスパンを成型するのを見て、な~んだあ!!!と感心した。そういうことだったのかあ。自分の中で9年近く問題になってきたことが、その一秒で解決した。目から鱗とはこういうことか。それにしても、さすが横尾チーフ(旧姓)。速い速い、テキパキ、指示も鋭い!変わらんなああ。

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宇佐美店長(ご主人)は、パンへのこだわりと博学さに卓越したものがる。粉についても、製造についてもその研究熱心さに驚かされる。製造に関して、日々変化するという。新しい発見から、方法を少しずつ変化させる。それがパン作りの楽しさでもある。材料はけちらない。おいしくなるために工夫をする。それを基本としているようだ。そしてそれほどお値段も高くない。安い。大丈夫なのか。お客様はたくさん来る。オニパンの2倍は来る。たいしたものだ。働いている方が夫妻二人を除いて、6人ほど(時間帯で変わる)いた。カフェをやってないので、販売は順次みんなで。だから、製造が多い。パンを焼く量はたぶんオニパンの3倍くらいか。メニューも80種だとか。オニパンの約2倍。すごい。

DSCN4232[1] DSCN4233[1] DSCN4234[1] DSCN4239[1] DSCN4235[1] DSCN4248[1]DSCN4254[1] DSCN4258[1] DSCN4257[1] DSCN4256[1]

出雲大社参道は広くきれいで、立派なお店がず~っと並んでいる。この写真は朝早くに撮ったので人の姿が見えないが、10時ごろにはたくさんの人々でにぎわっている。私は4時から1時ごろまで研修し、その後わずかでも出雲観光せねばと大社の方へ繰り出した。皆さん、朝ごはんも食べずに、休憩もなく働いていた(私もだけど)。私は疲れもあったのか、暑~い中大社方面へ歩いて行ったが、もう倒れそうで。

 

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観光とは名ばかりで、とにかく大社でお詣りして、出雲そばと名物ぜんざいだけは食べないとと、頑張った。倒れそうで。

そして、預けていたパンを受け取ろうとミケ立ち寄った。暑い!!しんど~!!というと、奥さんは「日浦さん、ジンジャーエール飲んだら。すぐ作るから。」と準備してくれた。朝も一杯作ってくれて、そのおいしさを称賛していたからか。

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生の生姜を使ってつくった手作りのもの。体の中から元気がカッと湧いてくる。生き返った!!

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ミケの宇佐美夫妻、本当にありがとうございます。 DSCN4278[1]

 

 

 

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黄昏のなか今宵の宿泊地山口へ。

ミケのパンが今夜の夕食。

充実した二日間の夏休みだった。

日常のささやかな工夫が豊かな暮らしをつくりだす・・・・暮らしの手帖(とと姉ちゃん)より №165

「とと姉ちゃん」を欠かさず見ている。最近の朝ドラの中では群を抜く出来栄えか。とにかく私にとって、面白く、ためになり、時として涙涙。ドラマの中心時代は、戦後の混乱期から高度経済成長期のころなのだろう。今は混乱期の雑誌社立ち上げの模様が話題になっている。

私が生まれたのは、戦後から数えて9年。5~6歳のころの記憶は今でもしっかり残っている。貧しかったねえ。家に畳が入っていなかった。家といっても6軒ほどの家族がそれぞれ1~2部屋でつながった長屋。もともと病院の病室を使っていて、廊下を歩くと、それぞれの家の晩飯がたちどころにわかってしまうという感じ。トイレは一つで朝の時間帯は悲惨。以前書いたことがあったと思うが、玄関に新聞紙を敷いてやったこともあった。その当時辛かったことの一つとして記憶にあるのが、服があまりなかったこと。ズボンがなく、赤い女物のを身に着けて、恥ずかしかった。

戦後の混乱期は食べ物の調達から始まって「衣食住」すべてで大変だった。しかし、そんな貧しい暮らしの中でも、人としての誇りを忘れないために、知恵をだし、工夫を重ねて暮らしを豊かに楽しくしていこうという精神で、とと姉ちゃんの雑誌社「あなたの暮らし出版」は出発する。戦争中、人々は物の価値を「国家」という抽象的なもののうえに置き、命まで含めて、「国家」を優先した。その結果はご存知の通り。とと姉ちゃんの朝ドラの世界では、日常の平凡な暮らしの中にこそ、大切なものがあると訴える。だから、その日常が貧しく、切ないものであれば、それを豊かにしていくことこそ、人としての暮らしぶり、幸せが実っていくと。

そうですよねえ、そんなこと当たり前です。私は「国家」という言葉が嫌いです。人ひとりの命には、その人が生きていく中で味わい体感する喜びや感動、時として辛く苦しくみじめな思いが詰まっているわけで。その人の人生を不思議な機械を使って追体験できるとしたら、そりゃあ「すげえことになってる」と誰でもが感じられるはず。例えば、日々練習を積み重ね、大会でそれなりの成果を上げられたら、どれだけ喜ばしく誇らしくうれしいことか。きちんと誠実に生き抜いている人々の味わっている人生の喜びや深みは、「国家」が勝手に左右できるものではない。だから憲法は「個人」という言葉を多用する。今論議されている憲法改正の草案はその個人をなくし「人」と一般化している。十把ひとからげにされちゃあたまらない。まず大切なのは、人々の暮らし。その暮らしを守るために国という制度があるわけだ。その暮らしが大変になってまで、いろんな理由を使って、お金を勝手に使わないでほしい。食べるものもなく、死んでいっている人までいるのに。ううう、つい、脱線してしまった。私、近頃よくそんなことを考える。年を取るっていうことは、自分以外のことがよく見えてくるってことかな。話を戻そう、今回のテーマは「日常の暮らしをいかに豊かにすることができるか、ささやかな工夫で」だ。休みの火・水は毎週そのことで頭がいっぱいになっている。やりだしたら止まらない。それほど、楽しいひと時になっているようだ。

この間の最大の仕事(パン屋としてではなく、個人として)は、何といってもカフェの天井の断熱。毎年悩まされてきたカフェの猛暑。並べているパンたちにも気の毒な思いをさせてきた。ミルククリームなど液体に。クリームやチーズも傷みが早くなる。部屋の中でカフェをするお客様方にとっては、不快指数も高くなる。この状況を打破すべく、昨年は広い屋根一面に遮光ネットを張り巡らし、穴の開けたホースを這わせて、水を流すという作戦に出た。ネットを張るのも大変だった。しかしあまり効果もなく・・・・しょぼ。さらに追い打ちをかけるように、そのままにしておいたネットにごみや落ち葉が絡み。取り外すのも大変。どうしたもんじゃやろのう。(とと姉ちゃんの決まり文句)

「焼けたトタン屋根の上の猫」という小説がある。どれほど熱いか。遮光ネットを張っていて、その熱さに驚いた。火傷しそうだ。その熱が、下のカフェに舞い降りていく。カフェの空間の上半分の温度は高い。テーブルの上に立つと顔のあたりがモ~っとしてくる。40度以上は確実。エアコンが効くはずがない。なんで断熱材を入れなかったの?工務店さんに訊きたい。でもその工務店は倒産している。やっぱり感。そこで考えた、どうすれば簡単に見栄え良く、断熱ができるかを。まさに「あなたの暮らし出版社」だ。結論は、発泡スチロールを天井の梁に沿わせて埋め込む。美しくする工夫は、白のスチロールにペンキを塗る。すると、珪藻土のような質感になった。発泡スチロールはカネライトフォームという名前の断熱材。ほぼベニヤ一枚の広さ。厚みは40ミリ。15枚を注文(24750円)。ペンキ代は約3500円(2缶)。一人ではなかなかできそうにない。弱っていた私の姿を見てか、心優しい上田家具製作所の上田さんが助けてくれた。

DSCN3993[1]カネライトフォームを切って、ペンキを塗る。

DSCN3995[1]梁と梁の間の間隔は、微妙に違うので調整していく。

DSCN3997[1]天井に埋め込む。入らなかったり、ゆるゆるで落ちてきたり・・・。そこは根性。あち~し。DSCN3999[1]

だいぶ要領がわかってくる。

 

 

 

 

DSCN4003[1]こうやって、できていった。完成後暑い午後に天井を触ってみた。すると~なんと~まったく熱くない。発泡スチロールの断熱ってすごい。だからエアコンを27度にしておくと、問題なく27度以下になる。すご~!!上田さんに二日にわたって手伝っていただいたが、手間賃を抜いて(手間賃払っていないが)材料費で29000円。まさに「あなたの暮らし出版社」に応募したくなる件である。

こんな感じで、不都合に感じている個所を改善していくのが無性に楽しく、夢にまで出てくる始末。幸せって日常のささやかな暮らしにあるって実感する日々。

工房、カフェの厨房からカフェスペースに出ていくときの戸口の狭さ。日々不都合を感じてきた。通販の番重を運ぶとき番重の幅いっぱいいっぱいで、時々番重を持つ手を戸口にしたたか打ちつける。そこで、食パンスライサーを置いている台を小さくしつつ、使い勝手はそのままにすることで改良。

こんな状態の台を

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DSCN4119[1]こんな風に。

DSCN4120[1]戸がしっかり開くようになりました。

ベッドの布団が下へ落ちるので(冬の時)落ちないようにするにはどうしたもんじゃろうと考えました。そこで、次のようにしました。

DSCN4114[1]畳ベッドの側面に柵を取り付けました。使わないときはこんな風に下へ垂らして。そして使うときは

DSCN4115[1]立てて、ひもを渡します。布団が下に落ちなくなりました。

とりあえずこんな風に工夫しています。

8周年 続編 №164

ささやかにママと二人、ラーメン天国でお祝い会を開いたのは6月28日。その続きも、ここにアップする。

7月3日(日)オニパンスタッフへの感謝も含め、別府で8周年お祝い会を開くことにしていた。当日、ばたばたと仕事をしていた昼過ぎ、清家さんが「従業員からの贈り物です」ときれいなお花のアレンジメントをプレゼントされた。

DSCN3975[1]DSCN3974[1]サプライズ!!予期してなかっただけに、びっくり。そして、じわじんわと、喜びが体に浸み広がっていった。従業員さんのおかげで、いまのオニパンがあるのに、ここまでしてもらったらと思うと同時に、「しっかり頑張らねば」という気持ちも湧いてきた。

夜のお祝い会は、オニパンらしく、素朴な居酒屋風料理店で。別府の「みしまじょろ」というお店。北高架商店街のレントレックのオーナーに紹介していただいたのだが、さすが別府のお店に詳しい方だけに、大満足の料理だった。DSCN3978[1]この写真を見て、昨年との違いを発見。昨年の忘年会の記念写真より、はるかに皆さんの笑顔が素敵に。オニパンのスタッフもいい感じでお仕事をされているあかしだと感じた。もう一枚アップ。DSCN3979[1]

さて、ついでながら新しい状況の写真をアップ。DSCN3982[1]

家の北側にとれた野菜の保存スペースを工作。遮光カーテンで囲い、夏場でも涼しくできると思い。年々これから収穫されるはずの農作物をどこに保存するか考えたわけだ。うまくいく予定で。

 

 

DSCN3988[1]DSCN3989[1]とりあえず何とか収穫できたジャガイモと玉ねぎを置いてみた。生まれて初めての農民生活での生産物。ジャガイモも玉ねぎもつくったことなかった。土が今一つで、小ぶりだが、なんとかできた。うれぴー!!。

DSCN3987[1]この人の努力のたまものか。

今ではこの運搬車を使って、新聞段ボールを大量に収集場所まで運んだりして頑張ってくれている。