パン屋の休日 塚原の山を登る №114

ついに憧れの山を制覇!それは富士山でもエベレストでもありません。
身近な身近な山。私たちが暮らす塚原高原にそびえたつ鞍カ戸(くらかど)岳、内山、伽藍(がらん)岳。
 つらいですねえ。私のパソコン技術だとこんな風にしか写真説明ができない。とりあえずわかるでしょうから我慢してください。
塚原から見える山容です。この姿を見て、地元の方々は涅槃像といわれています。確かにそう見えてきます。神秘的で、侵しがたい雰囲気を感じさせます。
私とママは、いつかこの山を制覇し、この山のてっぺんから、塚原を見下ろしてみたいと思うようになってきました。塚原に生活して、丸5年。美しい塚原高原になくてはならない山々。この山々に登ることは、塚原を深く知っていくうえで、必要欠かせない条件かも。

鞍カ戸岳は、尾根伝いに鶴見岳へと続く。塚原から猪せ戸(やまなみハイウェイ)に抜けるエコーラインの峠あたりにある鶴見岳西登山口より入る。味気ないがれ場を馬の背までのぼり、左方向へ道をとると鞍カ戸へたどれる。
鞍カ戸には、Ⅰ峰、Ⅱ峰、Ⅲ峰があり、Ⅲ峰が一番高く、また頂上としても立派で見晴らしもよい。
鞍カ戸Ⅲ峰に向けての馬の背という尾根道は、まさに馬の背のような切り立った道だ。所々はしごやロープがあり、結構スリルがある。

1344mの鞍カ戸岳頂上。西には由布岳を眺望し、北下には塚原が。ついに、見たぞ!
塚原を上から見下ろせた!しかし、塚原全体が見えるわけではなく、立石山のふもと、塚原牧場あたりは見えるものの、それより南の地域は下の山が邪魔している。
この尾根道の先は、舟底(ふなぞこ)と呼ばれる谷に続く。そして内山、伽藍岳がその先にあるわけだ。4月10日は、ここまでで、引き返す。次回は、伽藍岳方面(塚原温泉)より内山を制覇するぞ!

5月8日、塚原温泉手前。何と清々しい天気か。空は澄み切ったブルー。若葉が黄緑葉(紅葉に代わる言葉はないのか?)して、まるでゴッホのような色彩に彩られる景色。

山肌が削られた鉱山の色も複雑で美しい。さまざまに色が混ざり合う。
塚原越より内山に向かう。塚原越は、明礬温泉に続く道や内山・鞍カ戸・鶴見岳縦走路の起点ともなる。

塚原越から明礬に続く険しい登山道がある。
「兎落し」と呼ばれるその道に踏み入ると10メートルほど先に大きな岩があり、その下より、蒸気が噴き出している。熱い。
次回は、この道を踏破してやろうと考えながら、また内山の方へ足を進める。

内山頂上に向けての道は、ほぼ尾根道。ここも、鞍カ戸岳同様、両側がけわしい崖になっている。鞍カ戸に比べれば、まだ道もしっかりしていて、案外緩やかで歩きやすく、心地よいトレッキング道みたいな場所も多い。そうかと思えば、ロープにしがみつき、急斜面に張り付くようなところもある。刺激があり、面白い!景色もいい!眼下に別府湾が広がり、日出、杵築、国東まで眺望できる。ママは、内山がとても気に入ったようだ。

内山より塚原を望む。鞍カ戸よりも広く、塚原全体が見渡せる。

内山頂上付近で、扇山方面へのポイントがある。この道もいつか制覇してやろう。

この先は、頂上から舟底へと続く。
舟底は、急斜面で、雨の日などは転げ落ちる危険性もあるとのこと。今日はママと舟底への冒険を決行する気で家を出た。


内山の頂上で記念写真。

頂上から大分方面を望む。

舟底に着いた!やっぱり急だった。しかし、転げ落ちるほどではなかった。舟底は、とても広い。巨大タンカーのの舟底だ。景色もよく別府湾が一望。反対に別府から見れば、ここがしっかり見えるのもうなずける。

反対を見るとこんな感じ。右斜面が内山側、左は鞍カ戸側。なぜか、太い大きな鉄のパイプが横たわっていた。

さて次回は、塚原越から、明礬温泉へ。
「兎落とし」の難所だあ!

5月15日。塚原越から、一気下降し、明礬温泉へ出るコースはいかがなものかと考えた。
やはり山は登るものだ。それで、明礬温泉から塚原越へ、登ることにした。途中、秘湯、鍋山の湯を通るコース。この秘湯は、2年ほど前か、殺人があった場所だ。現在は通れるようになっている。途中に立札。左はへびん湯、右は鍋山の湯。

途中。開けた道。左は大平山(扇山)。

鍋山の湯近く。まさに禿鷹のような場所。所々より、ガスが噴き出している。塚原温泉の付近とよく似たような雰囲気がある。

ここだあ!鍋山の湯だ。こんなところでお風呂に入るのは、ちょっと勇気がいるなあ。
特に夜は真っ暗で怖いだろうな。
温泉は熱い!!湧水で薄めていた。

ここから、塚原越へ挑戦。道はよくわからんが、何とかなるだろう。

甘かった。アマちゃんだ。何とかなるだろうと、テープを頼りに登って行ったものの、途中で道を間違えてしまったようだ。大変なところに足を踏み入れる。

怖かった。これでおしまいかと思った。急斜面。足元は、乾燥した土。ぼろぼろ。岩も多い。
上を見上げた。すると、たくさんの岩が土より露出。一つ岩が崩れれば、次々と崩れ落ちそうな場所。実際、たくさんの岩が下に落ち積み重なっている。我々の足が、衝撃を与えれば、それでおしまいになりそうな状況が・・・。

「ママ、ここは、非常に危険だ!!何とか横に行って、木が生えている場所へ移動しよう!!」
私の意図が通じているのかいないのか、ママは怒ったように、「そんなこと言ったって、動くの大変なんやから」と、なかなか動こうとしない。
文句言っている場合やない。ここで死んだら、しょうもない。こんな死に方は、意味がない。
私は、冷や汗を垂らしながら、必死で、移動。ママもこの状況が理解できないまま、私の後を、文句を言いながら移動。とにかく、助かった。あ~こわ。

このあと、道なき道を、必死で登る。すると、何とかちょっと道っぽいところを見つける。
おお!靴の跡らしきものがある。助かったかも!
すると、下で、ママの声。「あ~、大変やあ。頭をうったあ!首が~!晃英さん、助けて~。」
これは嘘ではない、ホンマの話。
私は慌てた。ママにいったい何が起きたのか。火事場の馬鹿力か。さっと、ママの所へ降りていった。太い木の枝が横に張り出している下にうずくまるママ。「う、動けない。」とママ。
斜面に取付いて登っていて、頭を上げたとき、上に木の枝があったわけだ。無防備に頭を打ち付け、足まで電気が走った。それでしびれたようだ。

その直後の写真だ。ママを後ろより撮った。
しばらくこのまま休憩。下は転げ落ちるような急斜面。これが「兎落し」か。

この後、二人は、正式な登山道を発見。案外しっかりとした道を、塚原越まで歩く。
ついてみると、この道は、「兎落し」ではなかった。塚原越から始まる、十文字原へ続く道だった。ということは、まったく正式なルートではない道を横切って、うまく違う登山道に出くわしたというわけ。それにしても、あぶない山行だった。

というわけで、次回は、「兎落し」を、塚原越から、明礬温泉の方へ下ることにした。これならば、間違うことはないだろう。

自家製発酵器 完成!

ブログが途絶えて、早一か月。ちょちょっと気楽に書ければいいのだが、状況が許さない。ネタがないのではない。ありすぎる。しかも、中身の濃いネタがありすぎるのだ。

今回の話題、その発祥は、遥か10年前、大阪の地に由来する。
パン作りに取り組む中年のおっさんであった私は、パン生地をいかに上手に、安く、しかもたくさんの量、発酵させることができないものかと思案していた。

天然酵母の元種を使って、パン生地を発酵させるのには、結構な時間を要する。オニパンカフェの現在の製造工程では22度で約13時間。パン屋にはドーコンという便利な発酵器があるので、苦労はない。
しかし、一般家庭でパンを作ろうと思えば、まず一番頭を悩ませるのは、発酵の管理だ。
1次発酵は、番重に生地を入れて発酵させるため、湿度はさほど気にかけなくてもよい。
要するに温度を一定に出来ればそう難しいことではないのだ。
2次発酵(オーブンに入れる前の最終発酵のこと)は、天板に成形した生地を生でのせるために、乾燥は最大の敵であり、高い湿度が求められる。この2次発酵は湿度管理ができる発酵器が必要となるため、簡単とは言えないものがある。
10年前の私は、1次発酵を簡単にできる方法はないかと考えていたわけだ。

夏の暑いとき、天井の方を見ていると、ふと目に留まったものがあった。
そう、エアコン。  これだあ~!

エアコンは温度を一定にすることができる。これを使って、1次発酵できないかと思案した。
結果、初代自家製発酵器を作ることになる。

方法はこうした。

エアコンの周りに、コンパネでコンパクトな部屋を作り、普段は扉を開いておき、1次発酵行の場合は、発酵室として使用する。

この方法で、パン作りは、飛躍的に楽になった。

最近、作るパンの量が増えている。一台のドーコンでの1次発酵が厳しくなってきた。
新しくドーコンを買うには、工房のスペースもなく・・・・、さらには資金も必要となる。
ドーコンは高い!いいお値段!!新車が一台買えるのだ。

ならばあの大阪時代の発酵器を作ろうか。きっとあれならうまくいくはずだ。

発案より半年。塚原の工房古野さんにお願いして、自家製発酵器を設計した。
古野さんとのコラボで5月、ついに完成。
連休明けより、実用に入っている。
その姿を見てください。
「2代目自家製発酵器オニパンオリジナル号」


制作中の発酵器。壁の中は厚さ100ミリの断熱材を仕込んでいます。

製作者古野さんにはオニパン開店以来
いろいろとお世話になってきました。

完成した発酵器の巨大さ、重量には、私もビビりまくりでした。古野さんの工房からオニパンカフェまでどうやって運ぶのか・・・。
とにかく大変で、怖かったなあ。


これ、トラックからどうやって降ろすの。
荷台にあげるときには、フォークリフトでできたけど。

近所の人に応援を依頼して、男4人で何とか降ろせました。


後ろにエアコンを取り付けました。
発酵器の室内は、全面分厚い断熱材に取り囲まれているので、少しの過熱で一定の温度を維持できます。
氷河期が来たら、中に避難し、人肌のぬくもりだけでも、暖をとることができそうです。


設置場所は、車庫。

中の様子。たくさんの生地を入れることができます。

てなことで、これからはたくさんのパンの注文にも大丈夫!!
でも、問題は働き手。
私一人では無理、無理、ぜったいむり~。(NHK,「あまちゃん」の小泉今日子の演技が印象的で、つい思い出してしまいました)

次々回で、働き手(ニュースタッフ)の話題を提供します。お楽しみに。

日曜(火or水)大工 №112

私は日曜大工が好きだ。
30歳半ばのころからだろうか、徐々にその世界に足を踏み入れだしたのは。
決して丁寧で見栄えのするものを作るわけではない。
出来上がったものを眺めるに、必ずといっていいほど、傾いていたり、ゆがんでいたりする。
それは、図面や作る手順等を無視し、ただ思いつきと情熱だけで制作するという、まだまだ子どもの工作の域を出ないレベルに由来しているのだろう。

しかしどう表現すればよいのか、これを作ろう!と思いつき、作り始めると、すべてを忘れ、その作業にのめりこんでしまう。(この部分をどうつなげるとうまくいくだろうか)などと考えるとき、あらゆる雑念・不安・悩み・欲望が消えうせ、全身全霊がかってに、その作業に注ぎ込まれる。
時間の経過?もう、時間なんて全くわからない。時間どころか、今自分が置かれている状況(今日中にすべき仕事やいまやらねばならない要件)は吹っ飛び、今目の前にある物(材料)に関わることのみが頭の中を忙しく、いや、とてつもないスピードで走り回る。
完成間近になると、私の制作欲はいよいよ頂点となる。いけいけ!ここだ、ここを磨け!
う、う、腰が!腰が!まあいい、もうちょっともうちょとだあ!!
腰や肩が痛くとも、気づけば変な体勢で2時間くらい作業に没頭していることはよくあることだ。
大阪で暮らしているとき、30代から50代にかけて、結構な数のへんてこりんなものを作った。
折々帳№105で紹介したテレビ台もそうだ。

これは一種の病気なのだろう。何かを作ろうと考え出すと、そのことがいつも頭の周りにちらつき、飛び回っている。大巨人のもじゃもじゃ頭に巣をつくった小鳥が、その巨人の頭の周りを、付かず離れず飛び回っているあのシーンみたいな感じで。
その作り方がわかり、あるいはいいアイデアが生まれるのは、決まって朝方のベッドの中だ。
ひどいときは、朝3時ごろより目覚めて、眠れない時もある。
ママはそんな様子を見て、「病気やわ」という。
確かに、病気の一種かもしれない。
体は疲れ、寝不足にはなっても、心にはとても良い病気だ。
何せ、楽しくてたまらないのだから。

近頃の作品を紹介しよう。
その①
パン屋の商品を並べるカウンターの仕切りが邪魔で仕方なかった。
パンも見づらいし、パンを入れる籠もうまく入りにくい(サイズがおさまりにくい)。
あ、そうか!だったら、取ればいいじゃないか!そのことに気付いた。

仕切りをとって(右上の写真)、とてもスッキリ。
さらに、大小様々の籠にパンを入れて並べるのは、手間からいって、結構大変。
紙もはさみで切ったりして、時間もかかる。だったら、カウンター全体に広がる広いパンの
受け皿的なものを作ろうと思い立った。
グッディーで材料を買ってきて、日曜大工。

これにパンを並べるとどうなるのだろう。わくわくする。

その②
パン屋を始めた5年前、オープンカフェはとてもっきれいな芝生が広がり、目の覚めるような美しいスペースだった。

それが、2年ほど前から、モグラの野郎が、いっぱい穴ぼこをつくり、地面をもりあげる。
右上の写真の黒い斑点のように見えるのは、モグラが盛り上げた地面。
何とかならないものかと、いろいろ考えた結果、モグラ退治は難しいとのことで、モグラが顔をあげられないように、上から石を敷こうと考えた。
塚原の人形館「いま」のオーナーに以前話を伺った、宇佐開発という会社が持っている鉱山みたいなところで分けてもらえる、てっぺい石(平たい石)を使おうと思い立つ。
軽トラで、宇佐開発へ。山に落ちているてっぺい石を500キログラム軽トラに積んで持ち帰る。

石を敷くためのスペースを軽く掘り(左写真)、石を敷いてセメントで周りをかため、目地には固まる砂(ホームセンターでうっているやつ)を入れる。
椅子やテーブルも白くペンキで塗りかえる予定。

春がやってきた。オニパンもお店のメンテナンスを終えて、春を迎えたいところだ。

狩野英子さんにエネルギーをもらう №111

狩野(かのう)さんという方が、昨年まで塚原に住んでいた。
時折オニパンカフェにも来られて、カフェを楽しんでいた。
狩野さんは、私の高校の先輩にあたる人で、そういう関係もあってか、徐々に親しくなっていった。
私と同様、狩野さんも塚原観光協会に入っていた。彼女は著名な画家で「狩野英子美術サロン」というギャラリーを開いていた。
なんでこんな人(方)が、塚原に住んでいるのだろうと不思議に感じた。

狩野さんはオニパンのクリームチーズデニッシュが好きで、しばしばカフェでコーヒーとクリームチーズデニッシュのひと時を味わっていた。
何気なく彼女が口にする言葉が、私やママに、新鮮な感覚をもたらすことも多かった。
「パン屋はうどん屋や寿司屋とは違うものよ。」
「へぇ?」
「日本人は、そのカウンターに並んでいるデニッシュに
行ったことのないヨーロッパを思い起しているの。」
「はぁ?!」
「つまり、パン屋にはおいしい食としての要素だけではなく、夢や憧れを
求めてきているのよ。」
時代は国際化でヨーロッパも近いものになったが、「異文化への憧れ」
との指摘は、私にとって「なるほど!」と共感するものがあった。
私はパン屋を始めるにあたって、おいしいデニッシュが並ぶお店を夢見ていた。
その私のあいまいな思いを、的確に言い当てていた。
狩野さんは只者ではないな。

狩野さんは以前女性で初めて別府市立美術館の館長を務められている。
狩野さんの肩書を書き並べるとすごいものがある。
私は門外漢でもあるし、特に美術(図画工作)については、小学校時代通知表で2のランクであった(1から5までの評価)ことからも、美術音痴だと自負しているくらいで・・・。
だから、狩野さんのギャラリーですごい絵画をみても、(どうしてこんな絵がかけるのだろう、うまいなあ~)で終わってしまう。
彼女の作品があのルーブル美術館に展示されているとか台湾の故宮博物院にも展示されているとか聞くと、とにかく(すごいんだあ~)とはわかる。
その彼女のキャリアをここで紹介しようと思っているわけではない。
身近な中高年、特に80歳にもなる彼女の生きる姿勢に打たれた私。
そこん所が書いてみたくなった。

2年前の冬、狩野さんがコーヒーを飲みながらこんな話をしていた。
「私、塚原のすてきな自然をもっと子どもたちに触れて知ってほしいと思ってるの。」
「そうですね。塚原はいいですよねえ。」
「それで、スケッチ大会みたいなものを開いて、子どもに絵をかいたり、自然と触れ合う機会をとれたらって思って・・・。」
観光協会の一企画として開催できればという提案だった。
観光協会の企画は、「塚原高原まつり」にしても、すべてお膳立てした企画に参加していただく
形で、参加者自身の創造的な取り組み(参加型)は、目新しいと思った。
しかし、こんな大胆な企画を、純粋な思いで提案する高年齢の彼女に、
「う~ん、立派だ!」と素直に感じた。
一人では無理だと、高校の後輩でもある私に相談を持ちかけたのだろう。

その後、相談しつつ、同じ塚原観光協会の美術家の桑野先生にも参加いただき、夏の塚原高原祭りで「塚原高原 子どもアート」という企画で実現することになる。
狩野さん、桑野さんと私で何度も会議を開き、準備をし、5月から8月までは毎週休みの日に、準備に走り回った。私としては、子ども相手の企画に、久々に心躍り、忙しさも喜びとなった。
会議の場での狩野さんは、いつも話の聞き役であり内容的には桑野さんや私の提案が中心となっていた。
狩野さんは自分の思いは色々とある方だ。若いころより一人でフランスに渡り絵の修業をされ、結婚してから家庭を守り、50過ぎてご主人が亡くなってからは、一人でまた世界に出られ美術家として多くの仕事をされてきた。自立心の強い彼女は、いつもいろいろな人たちとうまく暮らすすべも持っている。「年を取ってきたら、人の話を聞ける人間にならなくっちゃね。」と話していたことを思い出す。

2011年8月27日がやってきた。「子どもアート」の当日だ。
日曜日。当然、私はパン屋のお仕事。でも心は祭り会場にあった。
桑野さんから℡。「絵は無事に完成しました!」
「やったー!」
でも大変だったろうなあ!!
子どもを扱う難しさ!桑野さんにしてもほぼ70歳。狩野さんはほぼ80歳。しかも暑い中。
ご苦労様です!!

子どものための取り組みとして、
企画されたが、何せ、会場は暑すぎたのです。
それはとても残念なことでした。
しかし、取り組みへの思いは、最高と思っています。

子どもたちは、大分や別府などからやって来ました。大分市や由布市の全小学校に案内状を出しました。でもほとんどの学校で取り上げてもらえませんでした。
でもこれ以上来ても受け入れ態勢もできて                               いなかったしね。

下の絵が共同制作の作品です。
大きなキャンバスは、ママの力作。
ミシンで縫い合わせて巨大なキャンバスを作りました。

由布岳をバックに記念写真。
右端の方が桑野先生。
左端の方が狩野先生。

私も昼過ぎ、パン屋が少し暇になって、ゲーム指導に参加しました。
まさかパン屋になって、子どもたち相手に
昔のようにゲーム指導ができるとは思ってもみませんでした。
狩野さんのおかげです。

昨年の1月5日。そんな狩野さんが、塚原を去る日がやって来た。狩野さんは少し弱気になっていた。足が少し弱くなっていたし、車の運転をしないので、買い物などで困っていた。それまでは、助けてくれるファンの男性がおられたが、その方が病気で亡くなり、暮らしに困るようになってきた。私も時折買い物に車で送ったりしてはいたが、それも限度があった。
狩野さんには立派な息子さんが東京で暮らしており、ついに息子の力を借りる時が来たのかと考えたのだろう。東京の方へ引っ越す準備を始め、ついにその日がやってきたわけだ。

それから一年。
(狩野さん元気にしているかなあ)と、思っていた矢先、一枚の葉書が届いた。
狩野さんから送られたその葉書には、出版記念会の案内が載っていた。
東京の方に移られて、狩野さんは余生をひっそりと暮らしているのか(大変失礼)と思っていたが、彼女の情熱は塚原にいた時以上の勢いで熱く熱く燃えていた。
彼女の作品は出版社から高く評価され、これから出版される美術全集のトップ企画ととして選ばれ、また個展等の企画もあり、日々創作に精を出しているとのこと。
地元での出版記念会が計画されているので参加してほしい旨。

えぇ~! すげーじゃん!
なんかよくわからないけど、名だたる美術家の作品を使ったカレンダーでも、狩野さんの「別府湾の朝」という作品が1月の最初の絵として採用されている。
解説では、不確かで不安な世での、明日に希望を抱かせる夜明けを表現しているこの作品の値打ちがきっと多くの人に力を与えるのでは…みたいな感じで選ばれたようだ。

50を過ぎたころ、ご主人が病気され、失意の中で自分の郷里別府に戻ってきたときのこと。
別府湾に昇る朝日を見て、生きる希望が湧いてきた。
ほんとつらかっただろうなあ、苦しかったんだなあ・・・。
確かに!確かに!美術のわからない私でも、この絵はそれが伝わってくる。
それは、狩野さんにこの絵を描いた時のことを聞いたからかもしれないが。

風景画だけでなく、人物や祭りなどの題材ももたくさん手がけている。

モデルになった方は、狩野さんの弟子とのこと。
とても大きな絵らしい。F100って何?
有名な賞もとったとのこと。(とにかく、たくさんの賞をとっているので、素人にはその値打ちはてんでわかんない)

まあ関心のある方は、本をご購入ください。オニパンカフェにも置いてあります。

そんなこんなで、2月6日出版記念サイン会で一年ぶりに狩野さんに再会。
塚原にいたころより、生き生きとした表情。
「今、忙しいのよ!次の個展までにたくさん絵を描かないといけないの。」
私は彼女の生きる姿勢や人への細やかな心遣いに深く感じ入る。
年をとっても前を向いて生き続ける狩野さん。
とてもうれしい一日だった。

 

ベトナム「研修」旅行 №110

ベトナム旅行に行ってきた。お店を休んで行くからには、「研修」という名目が必要かと、とりあえず「フランスパン」の勉強ということにした。

確かにフランスパンには強い関心を持ってはいたのだが(ベトナムは長くフランス支配下にあった歴史より、フランスの文化にも強い影響を受けている)、実際はベトナム料理を食べるだけで精一杯の日程で、わずかにバイン・ミーというフランスパンのサンドを食べた程度に終わる。
ベトナム人に好んで食されるバイン・ミー。そのフランスパンは、とてもかる~い食感で、クラストはパリパリ。オニパンのバタールはちょっと重すぎるかなと思った。パンの研修はそれで終わり。

「ベトナム」といえば、私の中では「ベトナム戦争」と切っても切り離せない印象を持っている。
多感な学生時代、私はベトナムに憧れた時もあった。強大なアメリカを相手に戦い、勝利した国。『不敗の村』という小説を読みベトナム人民のすごさに感動したものだ。
それ以降、ドイモイ政策で、急激な成長を遂げ、豊かになってきた・・・ぐらいで、ほとんど予備知識もなく、ベトナムに訪れた。

ママがベトナムに興味を持っていて、それについていくみたいな恰好で、あまりにも不甲斐ないかと感じ、ベトナムに詳しい友人に訪ねたりしながら多少の準備もしたのだが。

福岡空港を10時過ぎに飛び立ち、台北へ。そこで2時間ほど待機し、ベトナム・ホーチミン市へ。チャイナエアラインのその飛行便はお値段が安いのだ。そして、台北までの2時間、ホーチミンまでの2時間どちらでも機内食がでる。安い割にリッチ。ビールも飲んで、いい気分。機内では最新作の映画も鑑賞。ベトナム旅行のプレ企画的な充実した時間。なんか、ベトナム旅行への期待感もより高まりつつある。

ホーチミンに着いたのは午後4時過ぎだった。日本時間では6時過ぎ。ちょうど2時間の時間差がある。空港で待ってくれていた現地のガイドさんの案内でホテルへ直行。
その車でホテルへ着くまでの20分間。
初めてベトナムへ行った日本人だれもが感じ、味わうであろう共通の驚きと恐怖を私たちも共有することになる。

「もう、やめてって!いやあ、ひゃあ~、どげえして前にはいってくんの~!!あぶないっち!おれら、はさまれちしもうたで~! あ、頼むから、どいてくれんかえ~!!!」

言葉にならない、状況のすごさに、息をのむ。私たちの車がバイクに取り囲まれ、右も左も前も後ろもビュンビュンと通り抜けていく。ありえない状況なのだ。

韓国に行ったとき、車の運転の荒さにびっくりした。台湾に行ったとき、そのバイクの数の多さに驚いた。しかし、ベトナムは台湾をはるかに超えるバイクの多さと運転のすごさ。「世界一だ」とガイドさんが言っていたが、聞きしにまさる状況だ。


「ベトナムでは毎日30人の人が交通事故で死んで行ってます。」とガイドさん。
なるほど、あり得る。

ホーチミン市のホテルに着いてから、食事をとるためにお店を探しに街を歩く。
それが大変。道を渡るとき、バイクや車を避けて横断するのが、至難のわざと言おうか。人が通っていようが、数十台のバイクが一斉に突っ込んでくる。

1日目2日目とそのバイク軍団のすごさに目を奪われっぱなしだった。
ベトナムは経済の急成長で、ホーチミン市では、人口が集中的に増えているとのこと。公共交通機関のバスや電車などがなく、市民は自力で移動する。お金のない市民たちにとって、バイクは最も利便性のある移動手段なのだ。
学校が終わる時間帯、勤務が終わる時間帯などすごい数のバイクがひしめく。学校終了の時間帯に私たちが学校の前を通りかかると、次々と夫婦ずれの人たちが二人乗りで現れた。そして、子供を間に挟んで帰っていく。子供が二人いれば、前と間、つまり4人乗りで帰っていく。子供たちも慣れたもので、親の背中に紙をおいて、運転中にお絵かきをしながら、車やバイクの間をわずか数センチぐらいの間隔でも気にも留めずに走っていく!!すっげ~とだれが見ても思うはず(日本人ならば)。

さて、食事の方はどうだったのかというと、お味は○でしたね。
さすが、同じアジア人。味付けもいいですね。ヨーロッパに行った時と比べ、食事は満足しましたね。醤油など日本にはない面白い味(多分魚醤)。

野菜もお肉もおいしい。焼きそば風の料理。
いろいろと料理は食べた。
書けばきりがないので省略。

下のビールはサイゴンビール。とても飲みやすいラガービール。発泡酒に慣れている私にとっては、最もおいしいビールとして感じられた。

右下はベトナムコーヒー。ベトナムコーヒーにもいろいろ種類があるのだろうけど、このコーヒー豆は、紅茶のように香りがつけられていて、ちょっと違和感があった。入れるための道具が面白い。

大きなマスクは、ベトナムで売られていた、マスク。バイクに乗っている女性など、多くの人がつけていた。
ママの前にある白い雪だるまのような入れ物は、ココナッツジュース。ココナッツの身を削って、こんな形にしてお店に出していた。
中身のジュースは、とてもおいしく、さわやかな甘さ。
お値段は大体5万ドンくらい(日本円で200円)。
観光客用のお店なので本来はもっと安いはず。

さあて、ベトナム旅行の最大の楽しみとしていたのは、メコン川クルーズ。私の数少ない旅行で今まで最も南に行ったのが、西表島。北緯25度くらいか。
しかしである、メコン川(ミトー市)は、北緯10度くらいなのだ。沖縄の亜熱帯のマングローブの森でもすごいなあと思ったが、今回はもう熱帯なのだ。きっと感動だろうなあと期待が渦巻きっぱなし。

元来貧乏性の私は、ついつい安いものに目が向いてしまう。いや、安いものばかりを探し出そうとする。そして上手に安いものをゲットしたとき、至福の達成感を感じてしまう。
メコン川クルーズの場合も同様で、日本人向けガイド付きの旅行社が出しているオプションではなく、現地の安上がりオプショナルツアーを探した。ほぼ相場が60ドル近くするツアーでも、現地では10ドル程度で行ける。
場所を探し「キムトラベル」という旅行社で10ドルで申し込んだ。

20人程度でグループを作り、一日の行程でメコン川クルーズを楽しむ。
参加者は、エストニア、ロシア、イギリス、マレーシア、ベトナム、日本と国際色豊か。
ガイドの26歳の好青年は、べらべらの英語で、まくしたて、バスの中は笑い声で盛り上がること。その中で私たちは、笑うに笑えず、盛り下がる。これが格安ツアーの因果応報ってやつか。
でも、少しは分かるぞ。と強がる。幸い、若い22歳の女子二人。これが関西大の人で、日本語話すとバリバリの関西弁!おお、なつかしい!!ということで、二人の後をつけて、観光をすることに。

ベトナムの好青年がガイドさん。
プロ意識満点。とても物知りで、ユーモアに富み、私たち以外、みんなと友人になっていく。
言葉ができないということは、ほんと残念なことだと強く強く実感!
でも日本人で、この年で、こんなにしっかりした若者はなかなかいないなあと思った。

  左はメコン川クルーズの出発の港。
川といっても、とても大きな河で、船に乗っているときも海を渡っているような感じだった。

下は、着いた島でのココナッツの割り方の紹介。
ベトナムの好青年が、実演してくれた。


ココナッツを絞り、煮詰めて、ココナッツキャンデーづくりへと進む工程の説明。

かわいい馬が引く馬車に揺られて、島内を見学する。何とものどかな時間です。

食事の後の休憩時間。ハンモックでちょっと昼寝。ハンモックって、涼しくて、ゆらりゆらりと
気持ち良い。これは、塚原高原での夏場の昼寝に絶対合う!と感じた。

 この島をを離れて、別の島へ渡る。
そこでは、ミツバチの養蜂が島の産業ということでミツバチの巣を見たり、蜂蜜を味わったりする。なかなか面白い。
そのあと、熱帯らしく、大蛇の首巻イベント。これは参加者もこわごわで大喜びだった。

島の中を流れる小さな川を、4人乗りのボートで散策する。前と後ろに現地の漕ぎ手がいて、誘導してくれる。うっそうとした熱帯特有の樹林のような場所を進みゆく。

それにしても、なんと贅沢で、盛りだくさんのツアーだろう。ランチは料金込み、ベトナムの歌や演奏まできかせてくれた。

これで10ドルとは!

上の写真に写っているボートの漕ぎ手の年配の女性は、終着点に着く少し前に、私に向かって小さな声で「ティープ、マニー」とか囁く。わたしは、「はあー、なにー」と聞いたが、同じことを繰り返し、私は「うー、わからん」で終わった。

短い旅は終わりに近づいた。メコンクルーズは、とても良い時間だった。ベトナムに初めて行く人にとって、お勧めのコースだ。ベトナムの人々の昔からの暮らしを垣間見ること自体が、自分再発見の本来の旅のテーマに寄り添うかのような。現地の人々の暮らしから、いろいろと大切なものが見え隠れして、なかなか楽しい旅を演出してくれる。
これこそが、最近話題となっている「エコツーリズム」ではと思った。現地の環境や暮らしを壊さず、観光資源として、経済を豊かにする、人々の生活を豊かにする。

それにしても、ベトナムの人たちのエネルギーはすごい。
道路端で商売する人たち。大きな鍋で、肉を焼いて、パンに詰めたり、フォーに入れたりして、提供する道端レストラン。排気ガスなど気もせず、座り込んで食事するお客さんたち。


空港に向かう車の中でガイドさんに聞いてみた。普通の会社員のお給料はいくらぐらい?
「そうですね、3万円ぐらいでしょうか。」
ガソリン代は1リットルいくらくらい?
「100円以上します。」
それでは生活ができないのでは?

「貧しい人は、チップで、普通の人はボーナスでなんとか暮らします。」
「えらい官僚は、賄賂をとっています。ベトナムは小さな中国と言っています。」

官僚のことは皮肉として、ガイドさんが付け足したのだろうがみんな生きるために必死なんだなあ。
そうか、その時ふっとボートを漕いでいた年配の女性の言葉が理解できた。
「チップ、お金ください」だったのか。
悪いことしたなあ。

それにしても、貧しくても、ストリートにホームレスは一人もいなかった。
生きるエネルギーが失われる、日本という国の構造的な問題。
成熟というか、過発酵的社会の深刻さなのか。
私たちが子供のころ、昭和は、生き生きとしてたよなあ。

ベトナム旅行は、いろんな意味で刺激的だった。