新しい一歩 不安を織り交ぜながらも、足を進めよう。

DSCN4635[1]結構深刻っぽい前回の折々帳から早やひと月が立った。オニパンの今後の道筋をどう確立していくか、それは私やママの問題だけではなく、お店の持つ社会的責任でもあると感じている。この連休、昨年と打って変わって、たくさんのお客様でにぎわったオニパン。年々感じる期待感。流れる水は腐らぬ、だとすれば、ここにとどまっていてはだめだ。新しい一歩を踏み出さない限り、停滞、そして見えない未来へと続くのは当然のことだろう。

DSCN4652[1]98年から記録しだしたパンの研究ノート。おいしいパンを焼くために、それなりに努力してきた。以前より目指してきた方向は、食べ物として安全で安心、そして何よりおいしいこと。パン屋をするのであれば、より良き・より高き方向へ。結果として、無添加・天然酵母・国産小麦・自家製手作りがその目指すべきものと考えた。しかし、未熟な知識とパン作りの技量なさゆえ、多くのミスや考え違いも繰り返してきた。恥ずかしいお話だが、たとえば白砂糖は体に良くないということは分かっていたが、白くない三温糖をよいものと思い違いをしていたり・・・。現在は粗製糖を使っている(結構値段が高いのだが)。

マーガリンやショートニングはもちろんのこと、酸化防止剤、生地調整剤なども使わないことを決めた。日本パン技術研究所で習ったときは、柔らかく日持ちのするパン作りには欠かせないと教えられたが。

ただ、どうしても引っかかったのが小麦のことだった。

私は、パン屋になろうと決めて、東京の「あこ庵」というパン屋で修業をした。以前折々帳でも修業時代の愚痴を書いたことがあった。あこ庵のあこ酵母を使ったパンのおいしさに憧れて、修行をスタートしたものの、仕事や人間関係の辛さもあり、精神的に参ってしまったときがあった。あこ庵は、外麦を中心としたパン作りをしていて、私自身の目指すものとは違っていた。情けない話だがあこ庵から逃げ出したい気持ちも手伝って、別の修行場所を探したことがあった。近くの町田市に国産小麦で有名な「ピッコリーノ」というパン屋があり、研修も同時に行っていた。

DSCN4653[1]あこ庵が休みの日に、すがるような気持ちで、ピッコリーノに出かけた。オーナーの伊藤さんは本もたくさん出していて、その弟子たちはたくさんパン屋を開いているということだった。私は、話を伺い、今後どうするか考えた。伊藤さんが惚れこんでいる国産小麦のパンもたくさん買った。岩手の南部小麦は特に惚れ込んでいるとのこと。私は東京で修業する以前から国産小麦を使って食パンはよく焼いてきた。ノートに記されている国産小麦の種類を数えると12種類に上る。南部小麦も知っていた。私は、ちょっと癖のある(醤油っぽいかな)味には、なじめなかった。それらの国産小麦パンを下宿に戻って食べた。もしおいしいと感じられたらピッコリーノに修業先を変えようと、期待を持って食べたことを思いだす。結果は残念だった。あこ庵の社長は当時「国産小麦でパンを作ることは、剣道着を着てテニスをやるようなもの」と言っていた。西洋から伝わってきたパンは、現地の小麦でないとうまさを引き出せないということだ。いくら伊藤さんが仰っても、うまいと感じられなかった私が現実にあった。

オニパン開店に向けて、いろんな小麦でパンをつくった。胃袋をつかむ食パン(私は主食の食パンが最も大事なパンだと思ってきた)の粉を何にするか。カナダ産のセノーテに決まった。1CWという最上位クラスの小麦だ。おいしいということで、開店2周年の前に、湯布院の老舗旅館「玉の湯」に卸すこととなる。しかし私には、いつも国産小麦のことが頭から離れなかった。日本の農業の将来を考えるにつけ、食の安全を考えるにつけ、国産小麦はついてまわる。地産地消、ポストハーベスト・・・さまざまな言葉を聞くにつけ、国産小麦に結びついて響いてくる。

2011年ころだったか、国産小麦の未来を拓く「ゆめ」の「ちから」を持つ、新しい品種が開発されたと知る。その名も「ゆめちから」。あまりに強いグルテンを形成するということで、他の品種の粉とブレンドして使うという超強力小麦だ。私は、なんとかその粉を手に入れようと卸業者に頼んだ。あまり市場に出回ってないということもあり、国からの補助も認可されてないとのこと。江別製粉という大手から販売されていた。セノーテの3倍の値段。それでも、その粉を購入し、地元の小麦、「ミナミオノカオリ」とブレンドして、玄米生地をつくった。オニパン初の国産小麦の生地の誕生だ。その後ゆめちからは、日本を代表するパン小麦の一つとなっている。それでも、他の粉の2倍近くの価格だ。なんとかおいしい国産小麦のパンを作ろうと心砕いている小さなパン屋の気持ちどれほどわかっているのだろう。

2014年、「ゆめちから」を超える、あるいは引けをとらないというパン小麦が岩手で開発研究されているという情報を拾う。私は、その情報に色めきたった。すごいなあ、どんなだろうなあ・・・。その思いが募って2015年、種子を研究開発している岩手県農産物改良種苗センターより取り寄せる。10アールの広さで、ソノダハッピーファーム(貸してもらっている農園)播種。しかし、安易な獣害対策で、一夜にして鹿のミッドナイトレストランとなる。

2016年、再度「銀河のちから」の栽培に挑戦。今回は、鹿対策として300メートルの鉄柵をいろんな方の協力も得て施工。

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宇佐市の農林水産研究所の方にアドバイスをいただきながら、栽培を続けてきた。トラクターを使って種をまいたり、バインダーを使って一冬3度麦踏をしたり・・・。肥料を3度やったり・・・。詳しくこの折々帳で報告はしていないが(また、だめになったらカッコつかないし)、どんどん成長している。

DSCN4592[1]これは4月。そして・・・・

KIMG0921[1] KIMG0920[1] ついに5月穂を出すまでに成長!

そして、5月9日。開花です。

KIMG0927[1] KIMG0928[1] KIMG0929[1]

今日、「銀河のちから」の開発者でもある岩手県の農研機構の谷口さんという方と直接お話しする機会が得られた。「銀河のちから」は、雨に強い品種で、収穫の時期に雨にあたると大概の麦は質が劣化するとのことだが、「銀河のちから」は大丈夫とのこと。うまくいけば、収穫も現実のものとなるかもしれない!

「銀河のちから」へのこだわりを書いてきたが、この粉は昨年ぐらいより市場に出てきた。まだ作っている農家は少ないが、いずれ青森のほうへも広がると谷口さんが仰っていた。この小麦を製粉している地元岩手の会社「東日本産業株式会社」に直接お話をし、オニパンに小麦を送ってもらうことにした。また、岐阜県のパン小麦を製粉している「サンミール株式会社」さんにも直接交渉で送っていただくことに。大手仲介業者を通さないことで、お手頃(といっても高いが)の価格で購入が決定。これにて、オニパンの国産小麦化への道は大きく開けた。しかも、銀河のちからが、オニパンの主力小麦になるとは、想像にもしなかったことが現実のものに。

DSCN4635[1] DSCN4636[1] ここで、もう一度「銀河のちから」の袋のカットを。お客様にママが「今度、銀河のちからという小麦を使うことになったのよ。」というと、そのお客様は、「そう、岩手県産やね。」と答えたそうな。いい命名だねえ!と、私も後になって気づいた。そうです、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から来たのです。岩手といえば賢治、賢治といえば「銀河鉄道」なんだ。

そういえば、オニパンの新しい一歩は「銀河」から始まるわけで、思い起こせば、私の青春時代のあるシーンがよみがえる。

行き先が見えず、人生どう生きていったらよいか思い悩んでいたころのこと。演劇部に入り、自分を変えようともがいていたとき、初めて見たプロの演劇は劇団民芸の「銀河鉄道の恋人たち」宇野重吉、樫山文江、米倉斉加年のそうそうたるキャスト人。私は、感動し、その感動がさめてしまわないようにと思ったのか、人が通らない非常階段を一人で駆けて降りたことを思い出した。

一歩踏み出す時って、必ず不安がつきまとう。しかし、それは確実に前に進んでいると信じていいのでは・・・。

 

 

 

 

 

 

オニパン 新しいスタイルの考察

不眠症に陥っていた私。半年以上は続いてきた。悩み?ない! 年かも。多分そう。若いころは、悩みも多かった。しかし、眠る体力もあった。けれど、年だけではないと最近思い出した。いつも頭の中に、あれやこれやの課題が頭をもたげてくる。脳が活動しすぎ状態になっているのでは・・・。

オニパンの直面する課題を意識しだしたのは2,3年前からか。これは、オニパンだけに言える課題ではなく、パン屋共通の課題でもある。それは、長時間労働と経営の難しさ。経営とは収益面の事。パン屋を始めてず~っとその課題に明け暮れてきた。パンを作る喜び、お客様に喜んでもらえる幸せ、そんな人間的な充実感があるから続けられるのであって、長時間労働・低賃金とくれば、確実に嫌がられる職種のひとつだといえよう。

オニパンは愛されていると感じる今日この頃。9年近く続けられているのは、そんなお客様の支えあってこそ。お客様の笑顔・期待に応えたくて、日々パンの研究にいそしんできた。近頃は、美味しいパンを焼くことができると自信も出てきた。年にもかかわらず、まだまだ創造的心も衰えていない。リピーターの方から、ほそくでいいから長く続けて欲しいといわれる。なくなると寂しいと言われる。ありがたい。心の片隅にでも「オニパン」の存在が、その人のささやかな幸せに貢献できていると思えば、「80歳までやってやろうぜ」と思ってくる。

しかし確実に言えることは、このままではオニパンは続かないということ。縮小して、少ない製造量に切り替えれば、続けることもできよう。しかし、今はそんなことは考えられない。たくさんのお客さま、そして求められるパンの質、支えてくれているスタッフの生活、地域・観光に対する貢献、その他諸々の要素が増してきたからだ。

この折々帳を読んでくれる読者は、大方オニパンのサポーターだと思っている。毎日70~100人近くの方が訪れてくれる。その方々には、私は常に本音で、等身大で、つまらないことも含め折々帳を綴ってきた。まずはサポーター読者の方々に、新しいオニパンスタイルについて、ご理解ご協力を願いたく、この間考えてきたことを報告したい。

スタッフの労働時間が気になる。いくら若いからと言って、5時から~5時過ぎの労働時間は長い。まじめな二人は、私が用意する粗末な朝ごはんをなかなか食べてくれない。座って食べるわけでもないのに、仕事に追われてか、あまり食べない。下手をするとお昼ご飯を食べる1時ごろまで(すでに働き出して8時間経過)食べずに、休みなく働き続ける。飲食の仕事をしたことがない人には、考えられない過密な労働だ。ほぼ無駄口をたたくこともなく、一秒たりとも動きを止めず、機敏に動き続ける。もちろん座ることなんてない。8時間続けるのは地獄だといえる。そして、昼ごはんは30分程度。その間もお客さんは来る。一応休憩時間をとる。しかし、仕込みなどがあったりお客が多い日曜日など休憩もとらない(休憩は一応30分)。そして、2時ごろより次の日の生地の仕込みが始まる。お店閉店が4時半。片付けと、翌日の具材の補充などで5時半から6時近く。昼ごはん後4時間。計12時間以上。私は、初めてパン屋で修行した時4時から7時過ぎまで働いた。休憩1時間をひいて14時間労働。そんな日が続いた。フルマラソンを走る経験があったにもかかわらず、辛く苦しい日々。3か月くらいすると、体が慣れてきた。しかし、休みの日は体がしんどくて、なかなか趣味の時間に費やすのはむずかしかった。長時間労働は人間性をむしばむと肌で感じた。せっかく開店したパン屋をつぶしてはならないと、3年間夢中で頑張った。14時間労働を続けた。しかし、体が持たない。せめて12時間だと嬉しいなと、スタッフを増員。そして5年近くになって、正社員を雇う。ひろちゃんだ。ひろちゃんも良く頑張ってくれた。4時から勤務。そして5時ずぎ迄。一年と少しで退社。その後を引き継いでくれたのが清家さん。彼女が働き出して、しばらくして山本君も入社。二人体制でいくことに。この二人体制は今のオニパンにとって必要不可欠の体制だ。パンの製造量の確保と私たち二人(マスターとママ)の労働時間の関係から。二人体制になるまでは、私は座って朝ごはんを食べられなかった。私の場合は従業員さんよりも1時間前から仕事に入る。結構この年で、昼の1時までに9時間立ちっぱなしで労働を続けるのはつらいものがある。個人的な話はともかく、労働時間を減らすことは焦眉の課題。そのために最近始めたのが、冷蔵生地の扱い。リッチな配合の二つの生地を二日分まとめて仕込む。これで一日は仕込む生地が少なくなる。その時間を他の仕事につかえる。そして、現在私の仕事がお客様中心の対応に流れがちで、スタッフの仕事が増えている。もっと、製造中心の仕事に従事して、スタッフの負担を軽くせねばと考えている。お客様によっては、マスターは暇そうやと思っている方もおられると思う。私もお客様と話したくて、つい時間を取りすぎている。従業員二人体制に甘えてしまっていて、私がカフェにいるほどに、スタッフの労働時間が長くなっている現実をしっかり踏まえなければ・・・。ご理解を。

抜本的な改善策として考えているのが、予約制度。そして、アイテム数の減少化。オープン当初は、20数種のメニューを毎日作るのも大変で、和風パンの日、欧風パンの日と曜日で変えて、作るメニューを少なくしていた。現在は45種類ほど毎日作っているが、それが大変。30種類ほどにして、欲しいパンがあれば、前日に予約するというシステムにしたい。曜日ごとに出す商品を変えようと思う(人気商品は毎日作る)。

オニパンの目指す方向性として、良質な品質・味をさらに追求していく。経営の安定を求め、売れる商品をたくさん作るというやり方ではなく、お客様が納得し期待する商品をつくる。不味ければ、旨くする。より良い具材があれば(お値段も考えてだが)それに切り替える。おいしい食べ方を考えて、その方向で販売する。そして、オニパンのオリジナリティーを確立していく。ここが違うということを、消費者に明確にして販売していく。今まで、庶民の生活を考え、買いやすい価格を基本として商品開発をしてきたが、これからは良いものをお客様に提供することを基本として商品開発を考える。もちろん、できる限りの低価格を考えるが。しかし、現在のやり方では、お店自体が存立できない。そのオリジナリティーだが、考えはある。それは、6月の9周年に向けて準備をしようと思う。すべて切り替えるのは、すぐにできるかどうかわからない。得意の試作(商品開発の際何度もやって来た)で、答えを出していきたい。10周年までにはオニパンスタイルみたいな形が示せればいいなと考えている。

お店開店の思いは、ホームページの見出しにある通り。そして、多くの方に少なからず貢献できて来たなと最近思えるようになった。これも、オニパンを愛してくれているサポーター、ファンの皆様のおかげ。感謝してもしきれない。これから、さらに頑張って行く決意です。宜しくお願いします。

 

 

懐かしき来訪者

大阪で暮らして30年。そして別府へUターン。9年が過ぎました。まだ大分弁が苦手。出てくるのは大阪弁。そして夢はいつも大阪での夢。青春時代(と言っても24歳くらい)から中高年まで、全てのエネルギーを注入してきた大阪暮らし。仕事、子育て、仲間・・いろいろあったなあ。

教員時代、たくさんの仲間と語り、研究会で実践討議、教育実践の交流などやって来た。サークル連絡会などで様々なイベントに取り組んだ。若い教師の会、全生研・・いい響きだ。いろんな顔が浮かんでくる。組合大会のこと、市との交渉、他の組合との共同で首切り撤回闘争いろいろあった。労働組合というと敬遠される人も多いかも。労使協調で会社の回し者的な動きをする組合も多いからね。例えば、最近の「残業100時間未満」なんて、過労死を法律で「保障」するようなことを決めて成果みたいなことを言う組合は労働者の味方でも何でもないと思う。私が所属していた組合は、小さな組合ではあったが、仲間と話し合い、自分たちで正しいと思う方針を確立できる自立した組合だった。市や市教育委員会にたいしても、おかしなことにはものを申す。その分、圧力も激しく・・・。片方の組合(市には二つの組合があった)は多数で、行政ともなれ合い・・・組合の役員をした後は、教育委員会のお偉方、教頭・校長になっていく。たいていの人は、もめごとは嫌いだし、出世して給料や地位も高くなることを望む。だから、多数で権力のある組織へ身を置く。そんなこと当たり前。私だって、争いは嫌だし嫌われたくないし、みんなに認められたい。ただ、大学時代の経験、先輩たちの言葉、自分の生い立ちから、自分の生き方に合わない暮らしはしたくなかった。だから、30年小さな組合の役員をずっとやって来た。教育サークルもしかり。

こんなことパン屋のオヤジが言うことではないだろう。でも、自分の所属は、いまだ持って、大阪にある。だって夢はまだ90%は大阪時代の夢。今の暮らしは、大阪時代に消化不良になった夢を実現する過程だと思う。対等な人間関係。自分の頭で考えたことを実践。損得で行動を決めない。云々。

いわば同志。同僚ではない。喧嘩もした。そういう友とは、一生続く。苦しいことをともにしてきた。職場や組合で辛い思いをするとき、彼も同じように苦労している、彼も同じように頑張っている、そう思うと力が湧いてくる。一人ではないんだ、これが人を強くしていく。

I氏夫妻が塚原にやってくる。これは2回目。1回目は、8年ぐらい前か。今回は退職しての来訪。奥様は現役の教員。オニパンに訪れ、宿泊する場合、友人については条件を出すことにしている。それは、夕食をつくってもらうということ。できれば、私たちの分まで作って、ふるまってくれること。私たちには、お客様の面倒を見る余裕はない。ママは片付け、一日の売上の計算など一通り終わって、帰宅(お隣だが)するのは7時ごろ。それから、休みの時に作り置きしていた料理とその日に作る料理を15分程度で出す。食べて、パソコンで情報をチェック、ニュース、べっぴんさん、風呂。私は9時半にはベッド。そんな毎日。だから、もてなすなんてできないのが実情。

I氏は、来訪する前から、何が食べたいか入念に聞き取り。「やっぱ、大阪王将の餃子は欠かせんわなあ。」それくらいしか言わんかった。先週の土曜日(25日)朝、大阪から出て、午後由布院へ到着。電話で、材料の確認をしてきて、スーパーで買い出し。5時くらいから、料理に精を出す。

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使い慣れてない他人の台所でなので、予定7時をまわる。私たちも仕事が終わったのが7時半ごろだろうか。出来ました。凄い!

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パエリア。あんまし食ったことがない。I氏盛んに勧める。これが一番自慢なのか。

DSCN4547王将の餃子。大阪の味。

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豚の角煮。チキンのソテー。

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そして、手前右に写ってるスープ。うますぎのラーメン風味。すべてが完璧。超ゴージャスな味。I氏は今、奥さんの帰宅前に夕ご飯をつくるそうだ。大学で講師もやっているそうだが、時間があるので、夕食係。まめな人だから、これだけの料理ができるのだろう。大阪時代と変わらない、柔らかな人柄(組合での対市交渉の時は舌鋒鋭い論客)、とても幸せなひと時をいただいた。10時過ぎまで、食べて、飲んで。翌朝が辛かったが。

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パン屋の休日 大分百山への挑戦 その二 №177 

DSCN4430津波戸山(つわどさん)529.4メートル。ガイド本には「国東半島の南西に位置する津波戸山は、凸凹の激しい地形をした耶馬渓式の山である。奇岩怪石が林立し、低山にしては鎖場などが多く、登りがいのある山である。」とある。前回の折々帳にも書いたように、田原山(のこぎり山)が当面の目標で、そこを制覇するためには、似たような山で訓練しないと、という意識で津波戸山に登ろうと考えた。崖から落ちて行方不明になれば、多くの人に迷惑をかける。そこで、上田家具製作所のオーナーのUさんに山行きの相方をお願いした。

DSCN4431登山口駐車場に車を停め、歩き出したところ。Uさんとは、これで3回目の山行き。冷静で、まじめ、几帳面な性格なので、多分前もってコース等調べ、抜かりなく準備していることだろう。私はご迷惑をかけないように、ついていけばいいか、などと気楽な感じ。

DSCN4432 DSCN4434この山は、ただ登山道を頂上めがけてたどるのではなく、88か所の霊場を巡るのが醍醐味なのだ。その88の霊場には右の写真のように大師像が配置されている。そこで拝む。この霊場巡りのコースがちょっと厳しいというわけだ。高所恐怖症の私に制覇できるのだろうか・・・。

そしてもう一つ、願掛けの意味合いも併せて。88か所巡りとは目的が違うかもしれないが、大師像にお願いしてみれば、何らかの効能もあるかもと。サイクリストのSS氏の病気回復を願ってみる。Uさんにそう伝えると、Uさんもことごとく手を合わせてくれた。

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これらの写真では、この場の雰囲気が伝わりにくい。広角度のカメラがあればわかるのかなあ。落ちれば確実に死んじゃう。風の強い日は、恐ろしくて無理。こういうところを通過しないと霊場に行けないのだ。なんとも苦難の連続。

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幅30センチ長さ1メートルの石橋を渡るUさん。両側は深い谷。その橋を渡った岩山にある大師像。眺めが素晴らしい。

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狭い岩穴を鎖伝いに降りていく。結構長く厳しい岩場を下る。私は、これは、怖いというより楽しく感じる。これまでの落ち込むことが多い人生経験から、落ち込みに強い性格になったのか。

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水月寺奥院(避難所を兼ねている)とその横にある硯石水(けんせきすい)。この後、眺めの良い展望所へ。これで、津和戸山制覇だ。

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ここでお昼ご飯。うまかった!Uさんは、奥様の作ってくれたお弁当をおいしそうに食べていた。聞くと、例の網リンゴの液を使った鶏肉の煮込みが入っていた。私のお弁当は、ママの手作り。考えてみれば、25歳よりこれまで、ずっと手作りのお弁当。感謝せねば。最近我が家は玄米ご飯。おいしいなあ。

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弘法大師像。眼がぎょろっとしていて印象的だ。

人間には88の煩悩があり、霊場を巡ることで、清らかな心になるという。その行程は悪路、難路。でも時折素晴らしい景色と心地よさを観させてくれる。人生は、そんなものなのかなあ。

 

 

 

 

パン屋の休日 大分百山への挑戦…老体にむち打ち  その一

新年の目標としていくつか考えた。今までやろうとしてやれなかったことが多すぎて、何もかもが中途半端な人生になっている。仕事としてやっていることは、まあ、それなりにやって来れたかなあと思う。しかし趣味や教養、その他目標を決めてやって来たことのほとんどが目標不達成のままこんな年になった。人生は速い。パン屋開業を目指し仕事を辞めて10年。気が付けば63歳。あと2年で高齢者の認定がもらえる。年を取るのが嫌だとは感じなくなった。ただ、年相応の素養、識見は身に着けたいし、情熱と物事を実践していくためのそこそこの体力だけは維持したい。

人生って何のためにあるの。面白可笑しく楽しい人生であればそれに越したことはない。生まれたからには、どでかいことをやって、金儲けするか、歴史に名を残すか・・・。しかし20歳を過ぎるころから、徐々に自分の人生が見えてくる。ほとんど、そんなどでかい未来はないような、大方の若者は庶民として生きていくことを覚悟する。そして、庶民としてそれなりのささやかな幸せを得ようと努力する。幸せや夢がどんな姿をしているかは、なかなか見えにくい。それは人によって違った姿・形をしているのだろう。

人生どこでどうなるかはわからないもの。ささやかな幸せや夢を求めて、つましく暮らしてきた庶民でも、必ずしも報われることはない。紛争や戦争、飢餓や貧困、天災や人災に巻き込まれることもある。交通事故や病気もそうだ。私ら家族は30年前大きな交通事故にあった。奇跡的に助かった。それはちょっとした偶然。誰にでもあるだろうちょっとした奇跡の一つだろう。私たちはだから、たまたまいただいた運のおつりで生かされているみたいな感じで、生きてきたようなもの。

だから人生って結局何ができたかではなく、何をしようとしていたかが問われるのだと思う。限られた時間の中で、何を大事にして、何を夢見て、何に向かって生きようとするか・・・・突き詰めると、残るものは、その人の持つ生きる姿勢にたどり着く。

今一瞬、それを大切に生きる。その人の生きる質がより美しくあれば、身近な人、友だちは心地よくなる。その人を愛する。その愛は、また新たな人へとつながっていく。そしてこのように生きたいという跡継ぎをつくるものだろう。少なくとも、私の早く亡くなった友人たちは私に多くのものを残して逝った。

えらく硬いことを書いているなあ。けど、まあ、これは、真理だと思うよ。年の割にまだまだ素養のない私だから、今、素養をつけ確かな識見を身に着けた品格のあるオヤジになろうと実は努力している(しようとしている)わけだ。

素養・識見についての私の努力は、疑ってかかる輩も多いと思うので、ここは体力維持のお話に限って進めることにする。

中高年の体力作りは日々の運動から。私の場合は、週一の山行か自転車みたいになっている。ここのところ3週連続で自転車したので、先週・今週と山行へ。ちらとinfoでもお見せしましたが、先週はママと日出の山へ。大分百山の七つ石山、経塚山。日出は奥が深いですねえ。地形的にみると、海からすぐ山だけれど、趣・文化・歴史など知っていくと深いものがある。恥ずかしい話、無知な私です。しかし、地元だからといって、日出の人でさえ知らない人も多いようだ。何の話かって?それを今から書こう。

DSCN4378ここにたどり着くまでの道は、それは激坂。豊岡小学校から、ぐんぐん細い道が上っている。サイクリストのSS氏が、日々トレーニングしていた道だ(と思う)。SS氏は、現在厳しい病気と闘っていて入院中。鉄人と言われるほどの人で(自転車が鉄でできていたことから)、しかし持ち前の粘り強い根性で、ぐんぐん本物の鉄人になっていったようだ。それで、彼を鉄人にした激坂のホームグランドの見学も含め、その先にある経塚山や七つ石山に登ってみようと思った。SS氏には、いろいろとお世話になっていて、頭が上がらない。前回の「自転車女子・﨤町ん」の銭亀峠挑戦で使ったクロスバイクも、実はSS氏が貸してくださった。そんなこんなで、日出に興味が出て、今回の山行となった。

さて、この山田湧水から経塚山への登山道が始まる。登っていくと、この登山道が昔、西鹿鳴越道(にしかなごえどう)という豊前、宇佐から続く重要な街道だったことがわかった。ザビエルさんが福岡の方から宇佐、安心院、この道を通って日出に出て、そこで待っていたポルトガル船に乗りこみ府内(大分市)へいって、大友宗麟と会ったそうだ。

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日出の山を越えて安心院へと通じるこの西鹿鳴越道から経塚山へ。日出の海岸から見ると、鉄塔が見える山。経塚山もう少しの所で徐々に天候も悪くなり、風と小雨が。

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この柵の先が頂上のようだけど、閉められてるし、他の所から行けるかもしれないが、あきらめる。頂上の鉄塔だけ確認して次の七つ石山へ。

ガスも少し収まり、尾根道はなかなか素敵。思わず写真を何枚か撮る。尾根が広々とした広場のような山頂の牧場か。

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さて、七つ石山頂上へ到着。そこから眺める別府湾はとても印象的だった。いつも見る別府湾の表情と違う。この角度からは初めての別府湾。鶴崎の方がぐっとこちらに迫ってくる感じだ。別府湾が広がっていず丸く見える。面白い!DSCN4393

 

 

 

 

 

DSCN4398 DSCN4400そこの後、板川山、古城山を制覇。そして殿様道路を下へ下る。

DSCN4401この道は昔2間2尺(4.2メートル)の幅があったそうだ。整備され、籠でお殿様が通っていたのだろう。東鹿鳴越道(ひがしかなごえどう)は、山香に続く立派な道で、明治初期まで3人で人力車を曳いて上ったとのこと。この山越えの道が、豊前から文化を運んできたんだなあ。今では荒れ果て廃道となっているが、日出が栄えたのもわかる。子どものころは「日出のイナカッペ」なんて言ってたが。大分百山の挑戦はその地域の歴史や文化も教えてくれるなあ。歩行時間約5時間近く。いい運動になった。

そして、昨日のこと。3月1日。津波戸山(つわどさん)に挑戦。この山は、『大分県の山』という本で「奇岩怪石が林立し、低山にしては鎖場などが多く、登りがいのある山である」と紹介されている。風が強い日や雨の時は危険とも言われている。今私の心にある意識する山・・・ちょっと(いや相当)怖いが挑戦したい目標の山として、大崩山がある。しかし、その前に大分県の山として田原山がある。別名「のこぎり山」。そそり立った岩の尾根を歩くという危険な山らしい。大分百山制覇となると、当然その山も制覇せねばならない。年々早くなる時計の針。気が付けば一年過ぎている。どんどん年を取り、体力も減少してくる。なんか、歩いていてもふらふらするときがある。急に立つとくらっとする。働きすぎか、お年のせいか。鋸山の岩場の尾根をふらつかずに歩けるだろうか。しかも私は高所恐怖症。枚方パークの観覧車が怖くて怖くて。てっぺんに来た時、どうしようもない恐怖に襲われる。いやじゃ、もう二度と乗らんぞ。もちろんジェットコースターもダメ。どうなんだろう、これと山とは違うのかな。以前槍ヶ岳に登った。その時、怖くなかった。気の持ちようなのか。自分で進む分は問題がないのかも。機械など他の乗り物などに身を任せると、信頼ができず、恐怖が募るのかも。良くはわからんが、鋸山を制覇できずして大崩はない。もっと言えば、この津和戸山を制覇せずして、鋸山もない・・・わけだ。そういうわけで、早くせねばと焦る気持ちから、一気に津和戸山登山を決行することに。善は急げだ。しかし、一人で行って崖から落ちたら、行方不明でご迷惑も掛かる。そこでやり玉に挙げたのが、一回り若い山好きな好男子、そう以前折々帳にも登場したことのある上田家具製作所オーナーのUさん。突然の思い付きで、たまたまUさんがお店に来店してきたので、即提案。ちょっと強引に誘ってしまったが、やさしいUさんは、OKしてくれた。月曜日に来たUさんと、水曜日に山行を決定。人生急がねば。

続きは来週で・・・・その一