収穫。新たな始まり。 №182

DSCN4822[1]多くの偶然、暖かなサポート、そして見果てぬ夢か。いろんな要素がうまくミキシングされて、パン小麦の収穫へと導いてくれた。3度目の正直なのだろうと、昨年に引き続く失敗を覚悟していただけに、いまだに信じられない感情が体に走る。スタートは昨年の10月8日。10アールの畑に、牛糞をトラック1杯入れ耕すところから始まった。PKセーブ422を35㎏追加。そして、11月8日播種。「銀河のちから」と「ゆきちから」の2種類の小麦の種をまく。

11月15日発芽。そして、昨日6月19日刈り入れ。その間、いろいろとお世話してきたが、農業者からもよく育っているとお褒めの言葉もいただいた。宇佐の農林水産試験場の方の指導もいただきながら、ここまでたどり着いた。いちばんありがたいのは、なんといっても、「ソノダハッピーファーム」の地主さん、園田さんの援助だ。言葉少ない園田さんは、私の麦への愛情も天候への心配も読みとっていったのだろう、昨日朝から収穫を始めた。「収穫を始めた!」という情報が入り、パン作りを従業員さんに頼んで、あわてて畑に直行。園田さんは、黙々とコンバインを動かしていた。

DSCN4821[1] DSCN4827[1] DSCN4830[1] 私は、麦刈りのために、バインダーという機械を買っていたが、バインダーの動かし方もよくわかっていないし、園田さんが以前より手伝ってくれそうなことを言っていたので、頼り切っていた。そのコンバインを初めて見たが、すごいと思った。速い!そして実のみを選別し袋に入れていく。バインダーだと穂の丈の部分も一緒で、収穫後「せんばこき」で実を落とさねばならない。作業が大変になる。コンバインは30分程度で、作業を終了させた。爺さん(園田さんのことをそういっている)は、無口だが、本当に親切だ。このコンバインは最近購入したものだが、いつも、ハッピーファームの隣の爺さんの畑のハウスにおいている。コメを作っているわけでもなく・・・。もしかすると、私の麦のために買っているのではないのか。そう思えてくる。それ以外に考えられない。よくわからない謎のコンバインだが、はっきりしていることは、園田の爺さんがいなかったら、刈り入れはできないということだ。ありがとうございます。爺さん。

DSCN4829[1]爺さんは袋もちゃんと用意。こんな袋が5袋になった。一袋の重さは30キロはあった。収穫は約150キロか。爺さんは、ようとれたと褒めてくれた。パン小麦はいつ収穫するかのタイミングがむずかしい。3日前まで、実がまだ柔らかかった。ろうそくのロウぐらいの感じになるときが、タイミングだという。うまく、好天が続き、グングン固まってきた。そして、この日となった。天の味方!梅雨入りだというのに、まさに奇跡みたいだ。雨にあたると、熟した実が、発芽して、それによって成分が劣化する。「穂発芽」だ。ささらに、赤カビ病になるという。そのカビ毒は人体に悪い。赤カビ病にならないための、薬は散布しているが、それでも、病気になりやすいという。だから、この日の収穫は、本当に、ありがたい話だった。しかし、これですべてうまくいくというわけではない。次に問題となるのは、収穫後の実の乾燥。袋のまま一晩放置すると、蒸れてダメになる。だから、本来は乾燥機に入れなければならない。しかし爺さんの話では、この量だと乾燥機にいれて乾燥させることができないという。この2倍の収穫がないと、乾燥機がうまく動かないというのだ。だとすればどうすればいいのか。昔の人は、梅雨の晴れ間に、天日干ししたとのこと。ええっ、そんなことできるのか。これから一週間雨が続くのに。とにかく、すぐに乾燥させねばと、仕事そっちのけで(従業員さんのおかげ、そして、お客の少ない月曜日のおかげ、奇跡は続くみたいなかんじ)、昼前に天日干しスタート。何と良い天気なのか。暑い!

DSCN4838[1] 夕方まで、1時間おきに撹拌。中は少し湿った感じだ。そして、夜になる前に、家のガレージに移動。扇風機を一晩中かけておいた。

DSCN4840[1] これが、今日の朝。しかし、昼前には曇って、さらに雨が降りそうな雰囲気だ。私はあわてて、コメリでイグサのござを買ってきた。そして、自宅のあまり使わない2階の部屋にござを敷き、ここで乾燥させることにした。1週間もすれば、多分乾燥するだろう。

DSCN4844[1]あと製粉。これも、地元塚原の農業者の方から、庄内の製粉所を紹介していただくことになっている。何をするのも、いろんな方のお助けがなければ、前に進まない。

うまく、パン小麦が製粉できれば・・・夢が広がる。塚原の土と水と空気で育ったパン小麦を使って作る食パン。名前は「塚原高原食パン」だ。由布市では、パン小麦がつくられてない。岩手県産のしかも未来を拓く「銀河のちから」が収穫できるということになれば、ちょっとしたニュースだ。塚原高原が注目を集めるお助けにもなる。

日々の努力や創意工夫が豊かな暮らしにつながるような、そんな仕事をしていきたい。パン屋であることが喜びとなれるような、自信をもっておすすめできるような、そんな仕事であればなあと常々思っている。

そんな仕事への夢をいだいて、新たな始まりだ。

パン屋の休日 やっぱり山でしょう。 大分百山(大岩扇山、倉木山、雨乞岳、熊群山)制覇。

DSCN4658[1]このひと月、大分百山のうち、4山を制覇した。仕事の面で、いろいろと課題も山積している状況ではあったが、とりあえずゴールデンウィーク、コモレビカフェなどの一年で一番激しい期間を切り抜けたこともあり、体力づくりとストレス解消のため、せっせと山行を敢行した。詳しくはかけないが、参考までに表面を舐めるように記録する。

疲れた体のリフレッシュ・メンテナンスは、ゆるい運動とフレッシュな環境が良いと若いころに知った。近場で探すと、豊後森の大岩扇山(おおがんせんざん)があった。自衛隊の演習場である日出生台に続く、玖珠側の山だ。玖珠にはメサという台形の形をした山が多くある。溶岩台地とのこと。メサを初めて見たときUFOの着陸場かと思った。不思議な形で、神秘的でさえある。有名な万年山(はねやま)や切株山(きりかぶやま)もそうだ。日出生台の横を通る県道をまっすぐ道なりに進んでいった。初めての道。のどかでたくさんの牛たちが放牧されている。5月17日12時過ぎに登山口に到着。そうきつくもない整った道を歩いていくとまず目に入ってきたのは「涙石」。

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上に上ると、森町の景色が。森町は昔、久留島氏の城下町で、参勤交代のときこの岩に上って、故郷の町を眺め涙したとのこと。参勤交代も(以前、日出の七つ石山のことで折々帳にも書いたが)最終は日出の豊岡に出て、江戸に向かったそうだ。この道は山を越え由布岳の北側を通り日出へと続いていた。だから、そんなに急坂もなく大岩扇山の頂上まで登山口から小一時間で到着。途中、昔の雰囲気がのこる八丁坂などもある。

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メサの頂上台地は平べったいですねえ。

続いて、5月23日。倉木山へ。湯布院に来た頃(9年前ぐらいか)一度登ったことがある。その時は、あんまりぴんと来なかった。今回あまり乗り気ではなかったが、スタッフの川野さんも腰痛メンテで行くというので、ママと3人で行く。行ってよかった!倉木山は良い山でした。

DSCN4674[1] 登山口。心地よい空気(時期もあるかもしれませんが)、森林浴を兼ねながら、しっかり整備された山道を。それなりに途中の景色も見えつつ、山麗コースは快適。途中分かれ道があり、「急登コース」とあった。少し気になりながら、快適山麗コースで頂上へ。

DSCN4677[1] 倉木山は良い山でした。そして、下山は気になった「急登コース」を下ることに。写真を撮っていないが、かなり続く藪。背丈ぐらいの藪を漕ぎながら進む。時々、出っ張った石もありつまづきそうになる。そして藪を抜けると、例の急登。言い換えれば激坂。一歩間違えば、転落。こけたらおしまい。結構長い激坂に、足が棒のように。景色なんて何もない。倉木山は、コースを間違えると、全く「ダメな山」でした。

5月30日。由布市周辺の山として登ってないのが雨乞岳(あまごいだけ)。この山は、倉木山への道をさらに突き進んでいくと(倉木山登山口からさらに5キロほど先か)ある。

DSCN4685[1]こんな山道(林道)を進んでいくと、取りつきに出会う。注意してないとうっかり見落としてしまいそうだ。道路の脇に小さなオレンジの標識が。

DSCN4690[1] DSCN4692[1] ここから山の中へ。さあがんばるぞと思ったら20分ほどのぼると、尾根道へ。左に道をとって、20分も歩いただろうか、そこに雨乞岳の頂上が。

DSCN4695[1]眺望も今一つで。雨乞三山といわれる城ヶ岳、倉木山、雨乞岳三つとも登ったが、一番物足りない山だった。

そして、今日、6月14日、ついに、ついに、あの、恐げな山、熊群山に行くことに。この山行にはママは同伴せず。ママはミヤマキリシマを見に、オニパンのお客様の若い子と扇が鼻・星生山へ。私は、やさしき助っ人上田家具製作所のオーナーと。熊群山は危ない山と聞いているので、滑落とかした時に家族に連絡をしてもらわないと困るので同伴してもらった。もし上田さんがえらいことになったら、奥様に申し訳が立たないのだが・・・。

DSCN4759[1]だいたいがこの石段、石段っていうものじゃあないと思うんだけど・・・。ずーっとロープがあって、そのロープをもって上がらないと、下手をして足滑らせると、大変なことになる。人生で一番重くなっている私にとって、息を切らせるのにものの3分もかからなかった。「鬼のつくった99の石段」だって。どこかで聞いたような。「オニがつくった99塚」が塚原。日本中にあるのかなあ。でも、この石段は99以上あるぞ。そう感じた。これが終わって熊群神社上宮にたどり着くと・・・またもや出てきたのが、本物の崖。

DSCN4760[1] DSCN4763[1] DSCN4765[1] これはないでしょ。まあ、若者の上田さんは楽しげに登ってるけれど、私はなんせ人生最大の重さなので、ちょっときつい。パン屋で鍛えている上腕部があるので、腕で登っていく感じかな。しかし、足場がしっかりしていないので、冬や雨降りの後などは無理だ。息が慣れてくると、楽しくなってくるやんちゃな自分も感じたが。

DSCN4766[1] 途中一か所展望のきく場所が。石祠(いしほこ)がある所。由布岳がきれいに!

DSCN4767[1]登りきると、そこに待っているのは天国的な広場。平坦だけで幸せを感じられる。人生厳しいことが続くと、平凡な生活こそ幸せだと・・・平坦は天国だ。そして、どこが山頂なのかは全く分かりにくいメサの頂上部。表示があるのでそうなのかという頂上。木で囲われているから展望はなし。

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DSCN4773[1] そして、昼ごはんは、例の展望の良い石祠で。愛妻弁当です。

DSCN4778[1] DSCN4780[1] この辺りは、秋のころ黄葉するそうで、また来てみたい。熊群山はこのひと月で登った山の中で最も存在感のある山だった。期待を裏切らず、私の自信を培ってくれた。次は、あの、もっと怖げなのこぎり山だ~。減量せねば。

 

新しい一歩 不安を織り交ぜながらも、足を進めよう。

DSCN4635[1]結構深刻っぽい前回の折々帳から早やひと月が立った。オニパンの今後の道筋をどう確立していくか、それは私やママの問題だけではなく、お店の持つ社会的責任でもあると感じている。この連休、昨年と打って変わって、たくさんのお客様でにぎわったオニパン。年々感じる期待感。流れる水は腐らぬ、だとすれば、ここにとどまっていてはだめだ。新しい一歩を踏み出さない限り、停滞、そして見えない未来へと続くのは当然のことだろう。

DSCN4652[1]98年から記録しだしたパンの研究ノート。おいしいパンを焼くために、それなりに努力してきた。以前より目指してきた方向は、食べ物として安全で安心、そして何よりおいしいこと。パン屋をするのであれば、より良き・より高き方向へ。結果として、無添加・天然酵母・国産小麦・自家製手作りがその目指すべきものと考えた。しかし、未熟な知識とパン作りの技量なさゆえ、多くのミスや考え違いも繰り返してきた。恥ずかしいお話だが、たとえば白砂糖は体に良くないということは分かっていたが、白くない三温糖をよいものと思い違いをしていたり・・・。現在は粗製糖を使っている(結構値段が高いのだが)。

マーガリンやショートニングはもちろんのこと、酸化防止剤、生地調整剤なども使わないことを決めた。日本パン技術研究所で習ったときは、柔らかく日持ちのするパン作りには欠かせないと教えられたが。

ただ、どうしても引っかかったのが小麦のことだった。

私は、パン屋になろうと決めて、東京の「あこ庵」というパン屋で修業をした。以前折々帳でも修業時代の愚痴を書いたことがあった。あこ庵のあこ酵母を使ったパンのおいしさに憧れて、修行をスタートしたものの、仕事や人間関係の辛さもあり、精神的に参ってしまったときがあった。あこ庵は、外麦を中心としたパン作りをしていて、私自身の目指すものとは違っていた。情けない話だがあこ庵から逃げ出したい気持ちも手伝って、別の修行場所を探したことがあった。近くの町田市に国産小麦で有名な「ピッコリーノ」というパン屋があり、研修も同時に行っていた。

DSCN4653[1]あこ庵が休みの日に、すがるような気持ちで、ピッコリーノに出かけた。オーナーの伊藤さんは本もたくさん出していて、その弟子たちはたくさんパン屋を開いているということだった。私は、話を伺い、今後どうするか考えた。伊藤さんが惚れこんでいる国産小麦のパンもたくさん買った。岩手の南部小麦は特に惚れ込んでいるとのこと。私は東京で修業する以前から国産小麦を使って食パンはよく焼いてきた。ノートに記されている国産小麦の種類を数えると12種類に上る。南部小麦も知っていた。私は、ちょっと癖のある(醤油っぽいかな)味には、なじめなかった。それらの国産小麦パンを下宿に戻って食べた。もしおいしいと感じられたらピッコリーノに修業先を変えようと、期待を持って食べたことを思いだす。結果は残念だった。あこ庵の社長は当時「国産小麦でパンを作ることは、剣道着を着てテニスをやるようなもの」と言っていた。西洋から伝わってきたパンは、現地の小麦でないとうまさを引き出せないということだ。いくら伊藤さんが仰っても、うまいと感じられなかった私が現実にあった。

オニパン開店に向けて、いろんな小麦でパンをつくった。胃袋をつかむ食パン(私は主食の食パンが最も大事なパンだと思ってきた)の粉を何にするか。カナダ産のセノーテに決まった。1CWという最上位クラスの小麦だ。おいしいということで、開店2周年の前に、湯布院の老舗旅館「玉の湯」に卸すこととなる。しかし私には、いつも国産小麦のことが頭から離れなかった。日本の農業の将来を考えるにつけ、食の安全を考えるにつけ、国産小麦はついてまわる。地産地消、ポストハーベスト・・・さまざまな言葉を聞くにつけ、国産小麦に結びついて響いてくる。

2011年ころだったか、国産小麦の未来を拓く「ゆめ」の「ちから」を持つ、新しい品種が開発されたと知る。その名も「ゆめちから」。あまりに強いグルテンを形成するということで、他の品種の粉とブレンドして使うという超強力小麦だ。私は、なんとかその粉を手に入れようと卸業者に頼んだ。あまり市場に出回ってないということもあり、国からの補助も認可されてないとのこと。江別製粉という大手から販売されていた。セノーテの3倍の値段。それでも、その粉を購入し、地元の小麦、「ミナミオノカオリ」とブレンドして、玄米生地をつくった。オニパン初の国産小麦の生地の誕生だ。その後ゆめちからは、日本を代表するパン小麦の一つとなっている。それでも、他の粉の2倍近くの価格だ。なんとかおいしい国産小麦のパンを作ろうと心砕いている小さなパン屋の気持ちどれほどわかっているのだろう。

2014年、「ゆめちから」を超える、あるいは引けをとらないというパン小麦が岩手で開発研究されているという情報を拾う。私は、その情報に色めきたった。すごいなあ、どんなだろうなあ・・・。その思いが募って2015年、種子を研究開発している岩手県農産物改良種苗センターより取り寄せる。10アールの広さで、ソノダハッピーファーム(貸してもらっている農園)播種。しかし、安易な獣害対策で、一夜にして鹿のミッドナイトレストランとなる。

2016年、再度「銀河のちから」の栽培に挑戦。今回は、鹿対策として300メートルの鉄柵をいろんな方の協力も得て施工。

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宇佐市の農林水産研究所の方にアドバイスをいただきながら、栽培を続けてきた。トラクターを使って種をまいたり、バインダーを使って一冬3度麦踏をしたり・・・。肥料を3度やったり・・・。詳しくこの折々帳で報告はしていないが(また、だめになったらカッコつかないし)、どんどん成長している。

DSCN4592[1]これは4月。そして・・・・

KIMG0921[1] KIMG0920[1] ついに5月穂を出すまでに成長!

そして、5月9日。開花です。

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今日、「銀河のちから」の開発者でもある岩手県の農研機構の谷口さんという方と直接お話しする機会が得られた。「銀河のちから」は、雨に強い品種で、収穫の時期に雨にあたると大概の麦は質が劣化するとのことだが、「銀河のちから」は大丈夫とのこと。うまくいけば、収穫も現実のものとなるかもしれない!

「銀河のちから」へのこだわりを書いてきたが、この粉は昨年ぐらいより市場に出てきた。まだ作っている農家は少ないが、いずれ青森のほうへも広がると谷口さんが仰っていた。この小麦を製粉している地元岩手の会社「東日本産業株式会社」に直接お話をし、オニパンに小麦を送ってもらうことにした。また、岐阜県のパン小麦を製粉している「サンミール株式会社」さんにも直接交渉で送っていただくことに。大手仲介業者を通さないことで、お手頃(といっても高いが)の価格で購入が決定。これにて、オニパンの国産小麦化への道は大きく開けた。しかも、銀河のちからが、オニパンの主力小麦になるとは、想像にもしなかったことが現実のものに。

DSCN4635[1] DSCN4636[1] ここで、もう一度「銀河のちから」の袋のカットを。お客様にママが「今度、銀河のちからという小麦を使うことになったのよ。」というと、そのお客様は、「そう、岩手県産やね。」と答えたそうな。いい命名だねえ!と、私も後になって気づいた。そうです、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」から来たのです。岩手といえば賢治、賢治といえば「銀河鉄道」なんだ。

そういえば、オニパンの新しい一歩は「銀河」から始まるわけで、思い起こせば、私の青春時代のあるシーンがよみがえる。

行き先が見えず、人生どう生きていったらよいか思い悩んでいたころのこと。演劇部に入り、自分を変えようともがいていたとき、初めて見たプロの演劇は劇団民芸の「銀河鉄道の恋人たち」宇野重吉、樫山文江、米倉斉加年のそうそうたるキャスト人。私は、感動し、その感動がさめてしまわないようにと思ったのか、人が通らない非常階段を一人で駆けて降りたことを思い出した。

一歩踏み出す時って、必ず不安がつきまとう。しかし、それは確実に前に進んでいると信じていいのでは・・・。

 

 

 

 

 

 

オニパン 新しいスタイルの考察

不眠症に陥っていた私。半年以上は続いてきた。悩み?ない! 年かも。多分そう。若いころは、悩みも多かった。しかし、眠る体力もあった。けれど、年だけではないと最近思い出した。いつも頭の中に、あれやこれやの課題が頭をもたげてくる。脳が活動しすぎ状態になっているのでは・・・。

オニパンの直面する課題を意識しだしたのは2,3年前からか。これは、オニパンだけに言える課題ではなく、パン屋共通の課題でもある。それは、長時間労働と経営の難しさ。経営とは収益面の事。パン屋を始めてず~っとその課題に明け暮れてきた。パンを作る喜び、お客様に喜んでもらえる幸せ、そんな人間的な充実感があるから続けられるのであって、長時間労働・低賃金とくれば、確実に嫌がられる職種のひとつだといえよう。

オニパンは愛されていると感じる今日この頃。9年近く続けられているのは、そんなお客様の支えあってこそ。お客様の笑顔・期待に応えたくて、日々パンの研究にいそしんできた。近頃は、美味しいパンを焼くことができると自信も出てきた。年にもかかわらず、まだまだ創造的心も衰えていない。リピーターの方から、ほそくでいいから長く続けて欲しいといわれる。なくなると寂しいと言われる。ありがたい。心の片隅にでも「オニパン」の存在が、その人のささやかな幸せに貢献できていると思えば、「80歳までやってやろうぜ」と思ってくる。

しかし確実に言えることは、このままではオニパンは続かないということ。縮小して、少ない製造量に切り替えれば、続けることもできよう。しかし、今はそんなことは考えられない。たくさんのお客さま、そして求められるパンの質、支えてくれているスタッフの生活、地域・観光に対する貢献、その他諸々の要素が増してきたからだ。

この折々帳を読んでくれる読者は、大方オニパンのサポーターだと思っている。毎日70~100人近くの方が訪れてくれる。その方々には、私は常に本音で、等身大で、つまらないことも含め折々帳を綴ってきた。まずはサポーター読者の方々に、新しいオニパンスタイルについて、ご理解ご協力を願いたく、この間考えてきたことを報告したい。

スタッフの労働時間が気になる。いくら若いからと言って、5時から~5時過ぎの労働時間は長い。まじめな二人は、私が用意する粗末な朝ごはんをなかなか食べてくれない。座って食べるわけでもないのに、仕事に追われてか、あまり食べない。下手をするとお昼ご飯を食べる1時ごろまで(すでに働き出して8時間経過)食べずに、休みなく働き続ける。飲食の仕事をしたことがない人には、考えられない過密な労働だ。ほぼ無駄口をたたくこともなく、一秒たりとも動きを止めず、機敏に動き続ける。もちろん座ることなんてない。8時間続けるのは地獄だといえる。そして、昼ごはんは30分程度。その間もお客さんは来る。一応休憩時間をとる。しかし、仕込みなどがあったりお客が多い日曜日など休憩もとらない(休憩は一応30分)。そして、2時ごろより次の日の生地の仕込みが始まる。お店閉店が4時半。片付けと、翌日の具材の補充などで5時半から6時近く。昼ごはん後4時間。計12時間以上。私は、初めてパン屋で修行した時4時から7時過ぎまで働いた。休憩1時間をひいて14時間労働。そんな日が続いた。フルマラソンを走る経験があったにもかかわらず、辛く苦しい日々。3か月くらいすると、体が慣れてきた。しかし、休みの日は体がしんどくて、なかなか趣味の時間に費やすのはむずかしかった。長時間労働は人間性をむしばむと肌で感じた。せっかく開店したパン屋をつぶしてはならないと、3年間夢中で頑張った。14時間労働を続けた。しかし、体が持たない。せめて12時間だと嬉しいなと、スタッフを増員。そして5年近くになって、正社員を雇う。ひろちゃんだ。ひろちゃんも良く頑張ってくれた。4時から勤務。そして5時ずぎ迄。一年と少しで退社。その後を引き継いでくれたのが清家さん。彼女が働き出して、しばらくして山本君も入社。二人体制でいくことに。この二人体制は今のオニパンにとって必要不可欠の体制だ。パンの製造量の確保と私たち二人(マスターとママ)の労働時間の関係から。二人体制になるまでは、私は座って朝ごはんを食べられなかった。私の場合は従業員さんよりも1時間前から仕事に入る。結構この年で、昼の1時までに9時間立ちっぱなしで労働を続けるのはつらいものがある。個人的な話はともかく、労働時間を減らすことは焦眉の課題。そのために最近始めたのが、冷蔵生地の扱い。リッチな配合の二つの生地を二日分まとめて仕込む。これで一日は仕込む生地が少なくなる。その時間を他の仕事につかえる。そして、現在私の仕事がお客様中心の対応に流れがちで、スタッフの仕事が増えている。もっと、製造中心の仕事に従事して、スタッフの負担を軽くせねばと考えている。お客様によっては、マスターは暇そうやと思っている方もおられると思う。私もお客様と話したくて、つい時間を取りすぎている。従業員二人体制に甘えてしまっていて、私がカフェにいるほどに、スタッフの労働時間が長くなっている現実をしっかり踏まえなければ・・・。ご理解を。

抜本的な改善策として考えているのが、予約制度。そして、アイテム数の減少化。オープン当初は、20数種のメニューを毎日作るのも大変で、和風パンの日、欧風パンの日と曜日で変えて、作るメニューを少なくしていた。現在は45種類ほど毎日作っているが、それが大変。30種類ほどにして、欲しいパンがあれば、前日に予約するというシステムにしたい。曜日ごとに出す商品を変えようと思う(人気商品は毎日作る)。

オニパンの目指す方向性として、良質な品質・味をさらに追求していく。経営の安定を求め、売れる商品をたくさん作るというやり方ではなく、お客様が納得し期待する商品をつくる。不味ければ、旨くする。より良い具材があれば(お値段も考えてだが)それに切り替える。おいしい食べ方を考えて、その方向で販売する。そして、オニパンのオリジナリティーを確立していく。ここが違うということを、消費者に明確にして販売していく。今まで、庶民の生活を考え、買いやすい価格を基本として商品開発をしてきたが、これからは良いものをお客様に提供することを基本として商品開発を考える。もちろん、できる限りの低価格を考えるが。しかし、現在のやり方では、お店自体が存立できない。そのオリジナリティーだが、考えはある。それは、6月の9周年に向けて準備をしようと思う。すべて切り替えるのは、すぐにできるかどうかわからない。得意の試作(商品開発の際何度もやって来た)で、答えを出していきたい。10周年までにはオニパンスタイルみたいな形が示せればいいなと考えている。

お店開店の思いは、ホームページの見出しにある通り。そして、多くの方に少なからず貢献できて来たなと最近思えるようになった。これも、オニパンを愛してくれているサポーター、ファンの皆様のおかげ。感謝してもしきれない。これから、さらに頑張って行く決意です。宜しくお願いします。

 

 

懐かしき来訪者

大阪で暮らして30年。そして別府へUターン。9年が過ぎました。まだ大分弁が苦手。出てくるのは大阪弁。そして夢はいつも大阪での夢。青春時代(と言っても24歳くらい)から中高年まで、全てのエネルギーを注入してきた大阪暮らし。仕事、子育て、仲間・・いろいろあったなあ。

教員時代、たくさんの仲間と語り、研究会で実践討議、教育実践の交流などやって来た。サークル連絡会などで様々なイベントに取り組んだ。若い教師の会、全生研・・いい響きだ。いろんな顔が浮かんでくる。組合大会のこと、市との交渉、他の組合との共同で首切り撤回闘争いろいろあった。労働組合というと敬遠される人も多いかも。労使協調で会社の回し者的な動きをする組合も多いからね。例えば、最近の「残業100時間未満」なんて、過労死を法律で「保障」するようなことを決めて成果みたいなことを言う組合は労働者の味方でも何でもないと思う。私が所属していた組合は、小さな組合ではあったが、仲間と話し合い、自分たちで正しいと思う方針を確立できる自立した組合だった。市や市教育委員会にたいしても、おかしなことにはものを申す。その分、圧力も激しく・・・。片方の組合(市には二つの組合があった)は多数で、行政ともなれ合い・・・組合の役員をした後は、教育委員会のお偉方、教頭・校長になっていく。たいていの人は、もめごとは嫌いだし、出世して給料や地位も高くなることを望む。だから、多数で権力のある組織へ身を置く。そんなこと当たり前。私だって、争いは嫌だし嫌われたくないし、みんなに認められたい。ただ、大学時代の経験、先輩たちの言葉、自分の生い立ちから、自分の生き方に合わない暮らしはしたくなかった。だから、30年小さな組合の役員をずっとやって来た。教育サークルもしかり。

こんなことパン屋のオヤジが言うことではないだろう。でも、自分の所属は、いまだ持って、大阪にある。だって夢はまだ90%は大阪時代の夢。今の暮らしは、大阪時代に消化不良になった夢を実現する過程だと思う。対等な人間関係。自分の頭で考えたことを実践。損得で行動を決めない。云々。

いわば同志。同僚ではない。喧嘩もした。そういう友とは、一生続く。苦しいことをともにしてきた。職場や組合で辛い思いをするとき、彼も同じように苦労している、彼も同じように頑張っている、そう思うと力が湧いてくる。一人ではないんだ、これが人を強くしていく。

I氏夫妻が塚原にやってくる。これは2回目。1回目は、8年ぐらい前か。今回は退職しての来訪。奥様は現役の教員。オニパンに訪れ、宿泊する場合、友人については条件を出すことにしている。それは、夕食をつくってもらうということ。できれば、私たちの分まで作って、ふるまってくれること。私たちには、お客様の面倒を見る余裕はない。ママは片付け、一日の売上の計算など一通り終わって、帰宅(お隣だが)するのは7時ごろ。それから、休みの時に作り置きしていた料理とその日に作る料理を15分程度で出す。食べて、パソコンで情報をチェック、ニュース、べっぴんさん、風呂。私は9時半にはベッド。そんな毎日。だから、もてなすなんてできないのが実情。

I氏は、来訪する前から、何が食べたいか入念に聞き取り。「やっぱ、大阪王将の餃子は欠かせんわなあ。」それくらいしか言わんかった。先週の土曜日(25日)朝、大阪から出て、午後由布院へ到着。電話で、材料の確認をしてきて、スーパーで買い出し。5時くらいから、料理に精を出す。

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使い慣れてない他人の台所でなので、予定7時をまわる。私たちも仕事が終わったのが7時半ごろだろうか。出来ました。凄い!

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パエリア。あんまし食ったことがない。I氏盛んに勧める。これが一番自慢なのか。

DSCN4547王将の餃子。大阪の味。

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豚の角煮。チキンのソテー。

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そして、手前右に写ってるスープ。うますぎのラーメン風味。すべてが完璧。超ゴージャスな味。I氏は今、奥さんの帰宅前に夕ご飯をつくるそうだ。大学で講師もやっているそうだが、時間があるので、夕食係。まめな人だから、これだけの料理ができるのだろう。大阪時代と変わらない、柔らかな人柄(組合での対市交渉の時は舌鋒鋭い論客)、とても幸せなひと時をいただいた。10時過ぎまで、食べて、飲んで。翌朝が辛かったが。

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