ああ久住高原!畜産農家を訪ねて

 前回の続き。

久住に行ったのは、チヨウさんの家へ荷物を運ぶためと今一つは話題の畜産農家の実態を見学するためだった。チヨウさんが塚原に現れ、そのお世話をするなかで知り合った行政や畜産関係の方を通じて、初めて大分県の畜産農家について話を聞く機会に遭遇。大分県の肉牛市場や畜産農家の話は、興味をそそるものがある。チヨウさんは、竹田市の地域おこし協力隊に就職することになった。その仕事内容は、畜産農家のヘルパーだ。畜産農家は、牛のお世話で、1年365日、家を離れることはできない。仕事を休むこともできない。しかもほとんどの農家が高齢化で状況はより深刻。そこで考え出されたのが、ヘルパー制度。ヘルパー組合に参加し一定の費用を支払うことで、ヘルパーさんをお願いできることに。月に何回かお休みを取り、お茶をしたり小旅行へ行ったりできるようになった。竹田市は北海道に学び、日本でも先進的なヘルパー制度を作り出している。その組合長が前回紹介した植木さんだ。植木さんから資料もいただき、少し勉強させてもらった。ヘルパー制度は実にいい制度だ。なぜこんなことに気が付かなかったのだろう。国にとって大切な農業を守り発展させていくために、働きやすい労働条件は必須の問題なはずだ。朝から晩まで拘束され、それが一年中となったら、だれもあとを継ごうなんて思わない。情熱のみに頼る精神主義では発展できるはずはない。そして、もう一つ大事なことは、儲かるということ。生活ができる儲けが出ないことには、人も集まらない。

現在肉牛の市場は右肩上がりだそうだ。世界的に日本の牛肉は評価が高く、知っての通り、国内でも牛肉は高価なものとなっている。そして、最近も新聞報道されたが、豊後牛のブランド化が進んで、人気も出ている。子牛の場合買取価格は一頭80万から100万くらいの値がつくという。将来性のある仕事となっている。

 

 「100頭牛舎」という呼び方で、100頭が畜産農家の一つの目安みたいになっている。これが普通で、大きなところでは500頭とか。これらの写真は子牛さんたち。思ったのは、とてもかわいく人なつっこい。ストレスなく、かわいがられて育てられているんだ。だから、目が優しい。写真からもわかるように、フンもなく牛舎がきれい。世話が行き届いている。当然なのかくさい匂いがない。

 すごいなあと思ったことがあった。それがこの写真。これは、子牛たちが、ご飯を食べている場所。子牛が近づくと、自動的にえさが出る。食べすぎないのかなと思った。ところが、そうはならないように工夫がされている。子牛の首輪には、それぞれの個体のデーターが登録されてあり、それぞれに食べる量がコンピューターでコントロールされるようになっているというのだ。

 

子牛たちの餌場の裏側はこのような機械が備え付けてある。一日のえさの量が決まっていて、それぞれの子牛が今どれだけ餌を食べているか計算され、一日量まで来ると出ないことになる。なんとも合理的な仕組みだ。食べすぎることもないし、逆に食べる量が少ない子牛もチェックできる。こんな優れた機械・設備があったのだ。かなり前から導入しているという。さらに驚いたのは、畜産農家への支援・補助体制。この機械購入するのに300万円かかるらしいが、9割補助で自分で出したのは30万円だったそうだ。畜産農家は国からも期待されている分野だそうで、補助支援体制も充実しているとのこと。パン屋などは全く期待されてもなく、すべて個人の資金。(笑)

地域おこし協力隊での仕事は、月15日(一日7.5時間)働いて給料は16万8千円。住む家も補償してくれます。3年間の任期。条件は相当いいが、大切なのは姿勢や情熱、将来の目標。きつくてもねばりづよくがんばれないと続かない。

国の将来を見据えて、どこに税金をつぎ込み、事業や研究を進めていくか。心配な事象があちらこちらで散見されるが、畜産農家の分野ではぜひがんばってほしいと思う。チヨウさんや植木さんのおかげで、いろいろと社会勉強をさせていただいた。ありがとうございます。

ああ久住高原! 畜産農家と素晴らしい自然、おいしいピザとワイン!

あまりに内容が濃すぎたからか、なかなかパソコンに向かえなかった。体調が今一つだと、文章を書くのにも踏ん切りがいる。う~ん、今日こそ書かなきゃとやっとスタートを迎える。7月24日(火)の久住高原ミニトリップ(小旅行)は、以前より予定されていたビッグイベントだ。もはや、必然的、宿命的な臭いさえもしてくる。

それは、韓国のチヨウさんが、ふらりと塚原に現れたときよりプロローグが始まる。プライベートなことなのであまり深入りすることはできないか。・・・とも思ったが、ここは、遠慮せず、少し踏み込みたい。

40歳になるチヨウさんは、日本に来て7年になる。日本人の奥さんと韓国で結婚し生活を続けていたが、日本での暮らしに夢をもったのだろう。奥さんの実家の大阪で働き家を持ち、子どもたちも気づけば7人。一生懸命働くも、なかなか自分に合った仕事に巡り合えなかったようだ。話を聞くといろいろな仕事をやっている。家は農家で韓国では農業をしていたそうだ。大学の工学部を出ているので、機械にも詳しく、自分で家を建てた経験もある。だから、いろんなことができるし、知識も豊かだ。ふらりと現れて、オニパンで多くの手助けをしてくれたことは、今までinfoで紹介したのでここでは省く。

40歳のころ、一番人生に惑う頃だろう。私もそうだった。今の仕事は40のころ考え始めた。「四十にして惑わず」とは、反対の意味で、「四十のころ今までの人生を振り返り、今後の生き方を決めよう」みたいな諭しだと最近思うようになった。チヨウさんは、「大分県は農業をする人を求めている」と知り、ふらり関西汽船に乗って、別府にやってきた。そして電車に乗り、由布院駅に降り立った。さて、それからどうしたものかと歩きながら、立ち寄ったユースホステル「カントリーロード」で「畜産とか農業とかやってるところありませんか」(正確ではないが・・・そこまで聞いてないので、ゴメン。)と尋ね、それだったら、塚原がいいんじゃないとのことで、塚原まで歩いてきたようだ。それにしても、その行為というか、ある意味無謀にまで思えるその行動力に、チヨウさんが置かれていた状況や、自身の思いの強さがにじみ出ている。

塚原で岩田画房の奥さんにお世話になり、次にうちにやってきて、その後畜産農家などを何軒か紹介し、案内した。皆さん親切にお話ししてくれ、チヨウさんも感激したようだ。オニパンで泊まり食べる代わりに、家の仕事を数時間してもらうことにした。国際的な制度でウーハー制度というのがあるらしい。6時間の労働で、食事と宿を保障するというもの。それを適用。

県外より農業等をする青年を募集し地域おこしを行っている大分県。特に、豊後高田市や宇佐市、そして竹田市などが有名。県の職員さんに連絡を取り、その方とチヨウさんはその市を訪問した。とても親切な方で、休みの土曜日であったにもかかわらず行動したり・・・。一緒にまわっている中で、竹田市が行っている地域おこし協力隊が一番チヨウさんの思いに合っているということがわかり、その面接に踏み切ることに。2月10日、雪の日に塚原に現れ、その面接は3月の終わり。そして、その面接の会場で植木さんという畜産農家の組合長(正確ではないけど)と、運命的(大袈裟か)な出会いをすることになる。地域おこし協力隊の面接には、審査員として、植木さんや市長さんまで参加していたそうだ。チヨウさんの面接場面で、チヨウさんのことが気に入った植木さんは、その後いろいろとチヨウさんのお世話に奔走する。チヨウさんは植木さんを連れてオニパンにやってきて、その夜、深夜にわたる大宴会をしたことはinfoでも書いたと思う。初対面だったが、意気投合し、よく話しよく飲んだ。

チヨウさんは、4月より地域おこし協力隊員として今後3年間給料をもらい活動することになった。そして大阪の奥さんとも話合いを重ね、奥さんも8月より久住に移り住むことに。7人の子どもたちも移住!過疎化の進む久住にとってどれだけ喜ばしいことか!移り住む家も市が用意してくれることになった。古いが広くきれいな家だ。ここからやっと、本題に入る。

 7月24日軽トラを借りて、チヨウさんの新居へ荷物を運ぶことになった。なんせ、新居での生活に必要なものはいろいろとある。大阪の家は親せきが住むことになっているそうで、家具などを運ぶのは経費も掛かるし・・・ということで、こちらで調達できればいいに越したことはない。耳をすませば、結構うまくいくものだ。infoでも書いたが、九重のカフェ「タネトネ」で知り合ったお客さんが家を売るということで、中の家具、電化製品を全部廃棄するという話をカフェのオーナーにしていた。そこですかさず、手を挙げた。その方(Fさん)はとても親切な方で、驚くことばかり。上の写真に乗っている小さな冷蔵庫は、オニパンのお客様から頂いたものだ。大きな冷蔵庫はFさんが、オニパンまで持ってきてくれた。いざ、久住へ・・・その前に、もう一度Fさんの別荘によって、さらに頂き物がある。

  この写真が寄り道して、追加の頂き物を積んだ軽トラ。大量で怖かった。ちらりと見えているチヨウさんの新居。

そそくさと、荷物を下ろし、12時ジャストに待ち合わせの「久住ワイナリー」へ。誰とかというと、組合長の植木さん。植木さんは、私たちの来訪をとても楽しみにしてくれていて、久住ワイナリーが混むだろうということで、場所取りをしてくれていたのだ。

 

 雄大な久住の景観!塚原とは比べ物にならない。延々と続くブドウ畑!植木さんらの牧草地が利用されているそうだ。そして、ピザを中心とする工房に入ってからは、味覚と嗅覚、触覚を含め久々の垂涎の宴。感動もののひと時だった。

    これほど堪能したピザは初めて!うますぎます。そしてお得感のある値段。庶民にとってはこれが大事かも。ワインはすべて自家製。そのワインがなんともピザに合う。おいしくて、おいしくて、食べ過ぎましたよ。しかし、胃がもたれなかったのはなぜ?楽しかったからかな。食材がいいからかな。ほんとおススメです。私も絶対また行きます!

まだまだ、続きがあります。しかし、今日はここまで。続編は「畜産農家」編です。

開店10年!やっとたどり着けた現時点がオニパンの方向性を確定したスタート地点。これからはゆっくり進みたいと思います・・・。。

 目の覚めるような青空。果てしない宇宙が太陽光の青一色で描かれた涌蓋山の頂上。体調が今一つの状況の中で、私を心配して結構無理目で誘われて登った。ママにすれば、体調を心配しての(運動不足)配慮。私にすれば、ゆっくりしたいところだったが、登ってみると、不思議なもので、元気がよみがえってきた。ひと月ほど前の話だ。

 私は、4度目の涌蓋山で以前した「頂上ごろり」をやってみた。もう5年以上前のことかな。この折々帳でも書いたことを覚えている。涌蓋山に初めて登ったのが、高校2年生の3学期。50年近く前に見た景色もそんなに変わらなかっただろうな。あの日も晴れていたし。ほぼ50年後、同じ場所で、パン屋になった自分が同じ青空を見上げているとは想像すらできなかった。今年は30年に一度と言われるほどのミヤマキリシマの美しさだとか。見ごろを過ぎたその日でさえ、三俣山や久住山の扇ケ鼻の頂上付近が遠目で見てさえ、ピンクに染まっていた。

 以前からあるその景色が、同じように美しいものだったとしても、眺める自分は、50年前とは30年前とはそして5年前とは違う。以前には気が付かなかったことも気が付きそしてより繊細に見えるようになってきている。生きるということはそんなことなのだろう。自分のまわりの、あるいは自分の中の今までは気が付かなかったことがよりよく見えだし、愛おしいほどにかわいく、反吐が出るほどに醜く感じてしまう。年を取るほどに、生きてきたその人の人生観や価値観によって、その違いも大きくなってくるのだろう。

ちょっとしんみりとした出だしになった。そうだよなあ、パン屋をやりだした10年前とは違う。とくに、帯状疱疹の顔面しびれがまだ取れない状態の中では、若々しい気分にはなれない。けれど、年相応の若々しい気持ちは大事にせねばね。10年まえと同じような、行動はできないが、その分知恵を生かして(少ない分量のそれではあるが)ゆっくりと息長くね。

9周年の時、オニパンの目指すべき方向等確認し、この一年それなりに努力を積み重ねてきた。「木屋かみの」さんにお願いして作っていただいた室内用の看板(コンセプトボード)やワタナベデザインさんへの依頼で改訂したリーフレットにキホンが掲載されている。

オニパンの手法は「自家製・手づくり」。原材料のキホンは「国産小麦と天然酵母」ということだ。そしてパンの目指すべき方向性は「おいしい」ということ。

安心・安全は目指すべきこととして打ち出すよりも、食べ物として当然のことであり、手法と原材料のキホンからすればそこに落ち着くということだ。安心・安全を謳えば、味は二の次でも良いというものでもなく、天然酵母だから許されるというものでもない。

 

9周年から10周年の一年間で最も大きな変化・進歩の一つは、国産小麦(銀河のちから)の自家栽培だといえる。パン小麦がオニパンの畑でできたということは、たとえようのない喜びだったし、国産小麦を中心とするパン製造へのパワーともなった。大変割高な小麦づくり(特に製粉料)となったが、できたパンの質の高さには驚かされたし、今後への期待を高めるものとなった。

 

降り続く長雨に打たれっぱなしの銀河のちから。ことしの小麦づくりは、いろいろと困難を極めた。特にひどかったのは、雑草。初期手当てがいい加減だったので、気が付いたときは手遅れ状況。昨年より作付けは増やしたのに収穫は半分以下。それでも、収穫にまでたどり着けたのは、地主の園田さん宅一家のおかげ。今年は、息子の直彦さんがとても大変な状況の小麦を彼の技術で一部分でも刈ることができた。なんといっていいか…感謝の極みだ。

今一つの変化・進歩は、自家製酵母づくり。この10年自家製酵母(オニ酵母)の研究をやってきた。これは、そんな大したものではなく、単なる試行錯誤の繰り返しで、全く非科学的な実験。それを救ってくれたのは、たまたま知り合った、福岡のベーカリーアドバイザーの荒巻氏だった。彼は、あの酒種あんぱんを輩出した「銀座木村屋」の主任研究員だった田村先生の弟子でもある。そんな彼が、うちの酵母やパンを東京まで持っていって、アドバイスを田村先生からいただいた。そんなこともあり、オニ酵母研究は「目からうろこ的な」前進。

自家製小麦と自家製酵母、そして自家製あんこと自家製桜の塩漬けをつかった純度の高い「自家製桜あんぱん」を10周年記念品としてお客様に提供した。10年目の到達点としてふさわしいかな。

さらにこの一年間の突出事項として付け加えておきたいことがある。これは、今後のオニパンにとって大切な方向性の一つになるかもしれない(いや、そうなるべきだと思う)。それは、オニパン以外の傑出した材料、具材を使ったコラボ製造の方向性。最近の人気商品となった「ホイコーロお焼き」や「タネカレーパン」。このどちらを取ってみても、完成度は高い。お客様の評価は相当なものだ。コラボ製造は今まで考え付かなかったが、これはぜひとも探り続けていかねばならない方向性だといえる。

 

オニパンの10年の到達点は、まとめながら、結構盛りだくさんで内容も濃いなあと我ながら思った。方向性としては、この基本を今後も大切にしていくつもりだ。ただ、これからは、11周年とか15周年とか20周年なんてしない。ゆっくり、細々とでも続けられたら良いと考える。10年目にしてスタート地点につけるというのは、どの職種も同じだと思っている。やっとパン屋のスタート地点に立った。まだできていない技術的な課題は多い!情けない!

10年後のあるべき姿を想像して今を生きるが私の20歳からの考え方だったが、今から10年後は決して華々しいものではなく、ひっそりと穏やかな、それでいて多くの方の心の片隅にあるようなそんなパン屋カフェ。後期高齢者に入る時期に、どれだけの労働ができるのか。誰か後を継いでもらうほど、儲かる仕事でもないし・・・。今願うのは、労働時間の短縮、長期の休み、先を心配しなくて済む売り上げ増・・・。労働者の願うことはいつの世も同じかな。それにしても、この格差社会問題多いよな。

 

やったぜ! 塚原ファン・ラン・ウォーク №188

折々帳あまりにもとび過ぎ!月に一回どころか、3カ月に一回のペース。とすると、200号に届くまでにあと4年かかる。そうすると私も68歳。う~。目標の300号にたどり着くには93歳までかかる。いくら何でもその年までパン屋をやって、折々帳を書くのは難しいだろうなあ。さて何号までだせるのか・・・。

書きたいことはいろいろとある。しかし、最近は「オニパン&つかはらinfo」にブログ調に日々の生活まで書いてしまって、折々帳の存在意義がうすれてきた。どちらかというと、折々帳はボリュームと内容で勝負みたいな感じで、書くのに身構えてしまう。時間もかかる。それで、ついつい先延ばししてしまうのだ。ごめんなさい、だから、折々帳を楽しみにしてくれている読者様、infoと併用みたいに考えてくれたほうがいいのかも。

しかしですねえ、今回は、書きたくて、書かずにはおれない心境なので書かしていただきますよ~!!

10年目にして初めてのイベント・・・それが、マラソン・ウォーキング大会とは!?      

初めからマラソン大会を考えていたわけではない。パン屋を続けていくためには、足腰を鍛えなければいけない。しかし、何か目標がなければジョギングなど続けるのもモチベーションが高まらない。やることはいろいろとあり、年とともに体も疲れやすくなり・・・・。4年前にたまたま正月休みの日曜日に大阪でハーフマラソンの大会があることを知って、3カ月ほど前より練習を重ねて大会に出たことがある。しかし、悲しいかな、大会はいつも日曜日。パン屋は日曜日はお仕事。

私の人生で今になってつくづく思うことがある。今になってこそ気が付くことでもある。私がなんとか今までやってこれた(仕事や暮らし)のは、30代後半より始めたジョギングのおかげなのではということ。30代に2回ほど調子が悪くて短期入院。タバコと過労、食事などのせいか。健康を考え、タバコを止め、ジョギングや山登りを始める。これは今までも何度も書いてきた話。ジョギングからマラソンへ。30代後半から50歳のころまではよく走った。体が軽くなり、筋力も付き、教員の仕事もジョギングや登山のおかげで乗り越えることができた。変な話だが、荒れた学校での悪ガキとの付き合いの上で、動物的な力(逃げる子どもをいつでも捕まえることができる)は、荒れた子どもたちから畏敬の対象として見られる側面がある(もちろん教師としての人格が伴っての話だが)。屋根の上に上って、卒業式の練習に出てこない7人の男子たちは、私には一目を置いてくれた。なぜって、私は屋根に上る体力があったから。もちろん、屋根に上らないでも他の教育的指導の方法はいろいろとあるが。しかし、荒れた動物的な子どもたちには、動物的な接し方も有効だと思う。殴るっていうことじゃなくて。パン屋の修行に行った時も、マラソンをやってなかったら、到底あの立ち仕事を続けることができなかったと思える。53歳の時だった。今の自分がここにいるのは、体力的側面から言えば、ジョギングを続けてきたからだと言える。

パン屋はマラソン大会に参加できない。なぜなら、日曜日にイベントがあるから。マラソン大会は本当に魅力ですよ。老若男女が入り乱れ、かっこよく走り去る人から、ふらふらで今にも倒れそうな方。しかし、ゴールをした人たちは、ほぼみなさん生き生きとした表情で充実感に満ち溢れているのですから。こんなイベントに参加できない職種の人たちがいるってのは、その人たちにとっては人生の損失、大損失と言っても過言ではない。

そこで考え付いたのは、参加できないのであれば、参加できる日に主催すればいいのだということ。人数が多くなくても、一人でなければやる気も違ってくるし、それなりに楽しいことになりそうだし。

img008 12月にチラシを制作。10~20名程度集まればやる気も出るなと考える。従業員さん(清家、川野さん)も参加するし、ママも。これだけでもやる意義はある。ウォークもあった方がいいということで(そうすれば、運動不足の人が健康を考えるきっかけにもなるし)ウォークもいれる。

ネットでマラソン大会に必要な準備を調べる。いろいろとある。エイドステーション・・・・。なるほどエイドか。それだけでなくて、ランチも考えるか。てなことで、ママと相談。ママに相談すると、ママは食にこだわるほうだから、いろいろと考えだした。

パンに何種類かの具材を挟んで食べる。パンも2種類だそう。スープは2種類。食べる前にカフェコーナーでぜんざい、オリジナル手作りクッキー、紅茶とコーヒー。おっと、食べるのが少ないわ(自分の食べる量で判断するので)追加にフレンチトーストも。エイドステーションには、水とエネルギードリンク、バナナとクランベリーチーズはどうかしら。

マラソンイベントというより、食のイベントみたいな感じで準備が進む。

当日が近づいてくると、準備も大変になってくる。ホイコーロお焼きを提供してくれている中島さんが前日から具材の下準備に来てくれる。清家さんも手作りクッキーをたくさん作ってくれた。このクッキーが実にうまい。3種類くらい作ってくれた。

私の方もいろいろと準備が大変だったが、地元の方を含め数名の人が前日までの準備に力を貸してくださった。

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DSCN5845[1] 残念なことに写真をあまりとってない。自分も走ることに意識が向いていて、イベントの記録を取ることが弱かった。残念です。

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塚原ファン・ラン・ウォークのテーマは「ピース&ヘルス」。平和と健康が一番というのはオニパンのテーマでもあります。参加者はウォークが17名。ラン(5キロ、10キロ。16キロ)は、合わせて27名。44名の参加者とボランティアスタッフが8名。50名を超える人たちで結構にぎやかになりました。20180328塚原FRW030 20180328塚原FRW054 20180328塚原FRW067

私は10キロに参加。ママは5キロに参加。ともに完走できました。うれし~!左の写真が私。ママは右のどこにいるでしょうか。

20180328塚原FRW059 右の人は別府のコーヒー屋の方。ほとんど練習をしてないのに10キロに挑戦。やめとけって言ったのですが、本人はやるって聞かない。しかし彼は、10キロをすべて歩きとおして完歩。初めから終わりまで。左の白い服を着ている人は地元の青年(中年?)。面白い方で、エイドステーションで私と一緒になると、飲んだり食べたりで、宴会のように。私はマラソンの途中であることを忘れそうになりました。だいぶタイムロスに。20180328塚原FRW047 20180328塚原FRW051

地元の匙やさん(左)匙やさんは3年ほど前フルを3時間30分近くで走ったとのこと。久しぶりに走るので自信がないと言ってました。地元の安川さん(右)。安川さんは救護班(お医者さんだから)をお願いしてたのに、自分も走ってみたいと、10キロに挑戦。2割は歩いたとのことだが、めでたく完走。そして、難コース16キロ組は・・・。

20180328塚原FRW037 カルカンの中村屋、工場長も参加。5名がエントリー。20180328塚原FRW128 20180328塚原FRW229 韓国のチヨウさんが参加。国際大会に。いい笑顔ですが、その後かなりきつい状況に。

20180328塚原FRW169 宇佐から参加の高橋さん。高橋さんは塚原の「ぽこあぽこ」のカズちゃんの弟さん(後で知りました)。とても軽快な走りで第2位でした。

20180328塚原FRW142 そしてこの方。由布院ユースホステルの嘉手川さん。とんでもないスピードで1位。奥様の智美さんもすごい人で、10キロコースでぶっちぎりの1位。夫婦そろってすごいランナーです。

20180328塚原FRW195 宇佐から来た高木さん。この方ずいぶんファンランしていましたね。終始笑顔でした。

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20180328塚原FRW012 家族連れ、夫婦連れの皆さん。それぞれ楽しんでいましたね。

走り終わってからのランチタイムでは、オニパンサンドやクッキーなど大好評でした。1時過ぎに終了したのですが、残って夕方まで話が弾むグループもいました。そこでは、来年の塚原ファンランをどうするかまで勝手に実行委員会が結成されている有様で。

オニパン10年の歴史の中で、初めてであり最高だったマラソン・ウォークのイベント。汗を流し、自ら挑戦するというランニングやウォーキングの本来持つ良さをかみしめたひと時でした。やり切った感動というか、やっぱりマラソンはいいなあ。主催者が自ら出場するというのは、感動も2倍で(イベントの成功と合わせ)、来年へのやる気をたぎらせるものとなりましたね。

20180328塚原FRW147 おっと、忘れてました、大事な写真。オニパン隣の田中あっちゃん。暑い中、黙々と見守りやエイドステーションの仕事をやってくれました。こんなボランティアの方々のおかげで、成功したことを忘れてはいけませんね。

来年もやりますよ(もしかすると今年の秋かも)。「ピース&ヘルス」これが一番!

 

再会

今年6月で10周年を迎えるオニパンカフェ。この10年間様々な人と出会いそして別れてきた。お客さんの場合、「別れて」という言葉はしっくりしないが、もう会えないなというケースもある。遠くの場所へ引っ越したりとか。とても親しくしていて、物理的な事情で会えなくなる場合、いつまでも心に「会いたいなあ」という気持ちが残る。しかしそれも、徐々に忘れて、いないのが当たり前になってしまう。記憶が薄くなるというか・・・。

そんなある日(2月24日)何か見覚えのあるお客が入ってきた。ママが声を上げた。私は工房で仕事をしていたので、何かなと気になった。ママが「マスター、来てえ!」と叫んだ。「マスターわかる!?」 見るとやや大柄な体躯の男性(若者)が立っていた。

「あ~!!リー君と違う?」 彼はうなづいた。 そう、あのリー君だった。

リー君は中国人。オニパンがスタートして4,5年目の2年間、スタッフとしてオニパンを支えてくれたAPU(アジア太平洋立命館大学)の学生さんだ。先に働いていた彼の彼女の紹介でオニパンにやってきた。初めて来たとき、長髪でかっこいい服装、サングラスで現れた。しゃれた車に乗り。にやけた感じで、大丈夫かなと感じた。しかし、彼女であるオータン(わたしたちが呼んでいた愛称)がとても良い子で、リー君を受け入れないと彼女に悪いかなということで働いてもらうことに。

私たちの予想を裏切って、彼はなかなかの働き手だった。しかし、初めからそうだったわけではなく、ちょっとトイレに行くといって、たばこを吸ってきたりしていた。私は臭いで分かったので、注意した。もうやめられてもいいやと思ったが、彼は謝りそれからは吸わなくなった。しばらくすると、長髪も切って、さっぱりとした若者に変わっていった。別に長髪が悪いと言ってるわけではないが、リー君は短髪で働く職人に向いていると思った。

CIMG37671 右端がリー君。6年前の写真。ホームシェアしていたマンションにママと私と娘が招かれてパーティーをした時の写真。ごちそうは中華料理だった。驚いたのはその品数とおいしさ。ある程度準備をしていたとは思うが、スピーディに料理が並んでいく。料理をしているのは、たった一人リー君だった。この写真以外にも二人女の子がいたが、皆さん座ってしゃべっているだけ。リー君一人が奮闘!リー君はあまりしゃべらないが、思いはすごくある子だと思った。

彼はパン製造にかなり興味を抱いていたようだ。仕事も熱心で、2年目の終わり頃には成形から焼成までこなせるようになっていた。窯の仕事ができるようになるとは、バイトの域を超えている。

日本語があまり上手ではなかったリー君だが、卒業の時私たちにお礼の手紙を書いてきた。大変だっただろうなあ。そして、私たちに新しい彼女を紹介してくれた。オータン(前の彼女)とは、徐々に距離が出てきていた。オータンは勉強がよくできて、オーストラリアの大学院に進路が決まっていた。リー君は勉強は苦手で、卒業も半年伸びていた。私たちとしては複雑な気持ちだった。しかし、リー君がそのことを隠さず、卒業の時に手紙と彼女を紹介してくれたことは彼なりのオニパンへの誠意だったのだろう。

リー君が中国へ帰って丸5年の時が過ぎていた。リー君は今でもパンの製造のことが忘れられないらしく、中国でパン屋をやってみたいと言っていた。私を驚かせたことはそれだけではない。彼は、結婚していて、子どもも生まれていた。そのことも、報告したかったのだろう。DSCN5722[1] これがその写真。お嫁さんはとても明るい人だった。あれっと思って尋ねてみると・・・そう、リー君が卒業の時に連れてきた彼女。結婚してかわいい子どもができたのだ。良かったなあ~!

10年お店をやっていると、こんなこともあるのか。お客様だけでなく、スタッフとのありがたい再会も。