狩野英子さんにエネルギーをもらう №111

狩野(かのう)さんという方が、昨年まで塚原に住んでいた。
時折オニパンカフェにも来られて、カフェを楽しんでいた。
狩野さんは、私の高校の先輩にあたる人で、そういう関係もあってか、徐々に親しくなっていった。
私と同様、狩野さんも塚原観光協会に入っていた。彼女は著名な画家で「狩野英子美術サロン」というギャラリーを開いていた。
なんでこんな人(方)が、塚原に住んでいるのだろうと不思議に感じた。

狩野さんはオニパンのクリームチーズデニッシュが好きで、しばしばカフェでコーヒーとクリームチーズデニッシュのひと時を味わっていた。
何気なく彼女が口にする言葉が、私やママに、新鮮な感覚をもたらすことも多かった。
「パン屋はうどん屋や寿司屋とは違うものよ。」
「へぇ?」
「日本人は、そのカウンターに並んでいるデニッシュに
行ったことのないヨーロッパを思い起しているの。」
「はぁ?!」
「つまり、パン屋にはおいしい食としての要素だけではなく、夢や憧れを
求めてきているのよ。」
時代は国際化でヨーロッパも近いものになったが、「異文化への憧れ」
との指摘は、私にとって「なるほど!」と共感するものがあった。
私はパン屋を始めるにあたって、おいしいデニッシュが並ぶお店を夢見ていた。
その私のあいまいな思いを、的確に言い当てていた。
狩野さんは只者ではないな。

狩野さんは以前女性で初めて別府市立美術館の館長を務められている。
狩野さんの肩書を書き並べるとすごいものがある。
私は門外漢でもあるし、特に美術(図画工作)については、小学校時代通知表で2のランクであった(1から5までの評価)ことからも、美術音痴だと自負しているくらいで・・・。
だから、狩野さんのギャラリーですごい絵画をみても、(どうしてこんな絵がかけるのだろう、うまいなあ~)で終わってしまう。
彼女の作品があのルーブル美術館に展示されているとか台湾の故宮博物院にも展示されているとか聞くと、とにかく(すごいんだあ~)とはわかる。
その彼女のキャリアをここで紹介しようと思っているわけではない。
身近な中高年、特に80歳にもなる彼女の生きる姿勢に打たれた私。
そこん所が書いてみたくなった。

2年前の冬、狩野さんがコーヒーを飲みながらこんな話をしていた。
「私、塚原のすてきな自然をもっと子どもたちに触れて知ってほしいと思ってるの。」
「そうですね。塚原はいいですよねえ。」
「それで、スケッチ大会みたいなものを開いて、子どもに絵をかいたり、自然と触れ合う機会をとれたらって思って・・・。」
観光協会の一企画として開催できればという提案だった。
観光協会の企画は、「塚原高原まつり」にしても、すべてお膳立てした企画に参加していただく
形で、参加者自身の創造的な取り組み(参加型)は、目新しいと思った。
しかし、こんな大胆な企画を、純粋な思いで提案する高年齢の彼女に、
「う~ん、立派だ!」と素直に感じた。
一人では無理だと、高校の後輩でもある私に相談を持ちかけたのだろう。

その後、相談しつつ、同じ塚原観光協会の美術家の桑野先生にも参加いただき、夏の塚原高原祭りで「塚原高原 子どもアート」という企画で実現することになる。
狩野さん、桑野さんと私で何度も会議を開き、準備をし、5月から8月までは毎週休みの日に、準備に走り回った。私としては、子ども相手の企画に、久々に心躍り、忙しさも喜びとなった。
会議の場での狩野さんは、いつも話の聞き役であり内容的には桑野さんや私の提案が中心となっていた。
狩野さんは自分の思いは色々とある方だ。若いころより一人でフランスに渡り絵の修業をされ、結婚してから家庭を守り、50過ぎてご主人が亡くなってからは、一人でまた世界に出られ美術家として多くの仕事をされてきた。自立心の強い彼女は、いつもいろいろな人たちとうまく暮らすすべも持っている。「年を取ってきたら、人の話を聞ける人間にならなくっちゃね。」と話していたことを思い出す。

2011年8月27日がやってきた。「子どもアート」の当日だ。
日曜日。当然、私はパン屋のお仕事。でも心は祭り会場にあった。
桑野さんから℡。「絵は無事に完成しました!」
「やったー!」
でも大変だったろうなあ!!
子どもを扱う難しさ!桑野さんにしてもほぼ70歳。狩野さんはほぼ80歳。しかも暑い中。
ご苦労様です!!

子どものための取り組みとして、
企画されたが、何せ、会場は暑すぎたのです。
それはとても残念なことでした。
しかし、取り組みへの思いは、最高と思っています。

子どもたちは、大分や別府などからやって来ました。大分市や由布市の全小学校に案内状を出しました。でもほとんどの学校で取り上げてもらえませんでした。
でもこれ以上来ても受け入れ態勢もできて                               いなかったしね。

下の絵が共同制作の作品です。
大きなキャンバスは、ママの力作。
ミシンで縫い合わせて巨大なキャンバスを作りました。

由布岳をバックに記念写真。
右端の方が桑野先生。
左端の方が狩野先生。

私も昼過ぎ、パン屋が少し暇になって、ゲーム指導に参加しました。
まさかパン屋になって、子どもたち相手に
昔のようにゲーム指導ができるとは思ってもみませんでした。
狩野さんのおかげです。

昨年の1月5日。そんな狩野さんが、塚原を去る日がやって来た。狩野さんは少し弱気になっていた。足が少し弱くなっていたし、車の運転をしないので、買い物などで困っていた。それまでは、助けてくれるファンの男性がおられたが、その方が病気で亡くなり、暮らしに困るようになってきた。私も時折買い物に車で送ったりしてはいたが、それも限度があった。
狩野さんには立派な息子さんが東京で暮らしており、ついに息子の力を借りる時が来たのかと考えたのだろう。東京の方へ引っ越す準備を始め、ついにその日がやってきたわけだ。

それから一年。
(狩野さん元気にしているかなあ)と、思っていた矢先、一枚の葉書が届いた。
狩野さんから送られたその葉書には、出版記念会の案内が載っていた。
東京の方に移られて、狩野さんは余生をひっそりと暮らしているのか(大変失礼)と思っていたが、彼女の情熱は塚原にいた時以上の勢いで熱く熱く燃えていた。
彼女の作品は出版社から高く評価され、これから出版される美術全集のトップ企画ととして選ばれ、また個展等の企画もあり、日々創作に精を出しているとのこと。
地元での出版記念会が計画されているので参加してほしい旨。

えぇ~! すげーじゃん!
なんかよくわからないけど、名だたる美術家の作品を使ったカレンダーでも、狩野さんの「別府湾の朝」という作品が1月の最初の絵として採用されている。
解説では、不確かで不安な世での、明日に希望を抱かせる夜明けを表現しているこの作品の値打ちがきっと多くの人に力を与えるのでは…みたいな感じで選ばれたようだ。

50を過ぎたころ、ご主人が病気され、失意の中で自分の郷里別府に戻ってきたときのこと。
別府湾に昇る朝日を見て、生きる希望が湧いてきた。
ほんとつらかっただろうなあ、苦しかったんだなあ・・・。
確かに!確かに!美術のわからない私でも、この絵はそれが伝わってくる。
それは、狩野さんにこの絵を描いた時のことを聞いたからかもしれないが。

風景画だけでなく、人物や祭りなどの題材ももたくさん手がけている。

モデルになった方は、狩野さんの弟子とのこと。
とても大きな絵らしい。F100って何?
有名な賞もとったとのこと。(とにかく、たくさんの賞をとっているので、素人にはその値打ちはてんでわかんない)

まあ関心のある方は、本をご購入ください。オニパンカフェにも置いてあります。

そんなこんなで、2月6日出版記念サイン会で一年ぶりに狩野さんに再会。
塚原にいたころより、生き生きとした表情。
「今、忙しいのよ!次の個展までにたくさん絵を描かないといけないの。」
私は彼女の生きる姿勢や人への細やかな心遣いに深く感じ入る。
年をとっても前を向いて生き続ける狩野さん。
とてもうれしい一日だった。