チャレンジ №109

年甲斐(年齢にふさわしい思慮分別)もなくではなく、この年になってきたからこそチャレンジせねばと思った。
なんのこと?それは、マラソンのレース。
パン屋にとって、大事な要素はパンへの情熱。もちろんそれは基本。
しかし、この折々帳でも何度か言ってきたが、前提として体力あってのこと。
パン屋にとって最も必要な要素は、足腰の強さ!
それが最近、自信を無くしかけている私である。

ママはこの1月3日、還暦同窓会ってやつに参加するために、いそいそと身づくろいして出て行った。
そうなのだ、もう還暦がまじか!
定年制のないしかも創造的な仕事として、パン屋にあこがれ、パン職人を目指したのではないのか。しかし現実は、寄る年波にもまれもまれ、「足が痛い」「腰が痛い」の日々。
これでは、70過ぎまで働くことができそうにない。
私は年をとっても第一線で活躍する日野原先生や山田洋二監督にあこがれる。
せめて、70過ぎまでは第一線でパン職人として働きたい。

35歳ごろ2度ほど入院した。過労での頭痛。くも膜下出血寸前みたいな状況。恐ろしい痛みにもうダメ!みたいな。37歳ごろ念願のワンちゃんを飼った。ハスキー。名前は「康平」。このコーちゃんと健康のためジョギングを始めた。コーちゃんがいたから、3日坊主の私もジョギングを続けられたかなと感謝している。
ジョギングを始めた人がどんどん深みにはまっていくコースに例外にもれず私もはまり込んでいった。
始めて半年後10キロレースに出る。感動、感動。
それから、ハーフマラソン、フルマラソン、駅伝の選手などもやった。
いえ、勘違いしないでください。そんな速いわけではないのですから。駅伝というのは、淀川沿いを走る、ローカルなレースがあり、大阪枚方市の知り合いが始めた「ルンルンシックス」というチームに参加したわけで。そのチームのすっごく速い選抜選手6名は、その大会でも毎年入賞をはたす。私は4チームのD(つまりAからDまで)で走る。

そして50歳を最後にレースを遠のいた。
感謝している。私が前職を30年続けることができたのは、ジョギングのおかげだと思っている。
子どもたちと走っても、負けることはなかった。体力的な自信は、精神面にまで影響する。
子どものレベルまで下がって、一緒にいろんなことを楽しむことができた。
(体力がなければダメって言ってるわけじゃあないんですよ)

ジョギングはパン屋になるまでは続けてきたが、パン屋になってからは、なかなか時間が取れず、以前のようにはできていない。
その結末なのか、足腰の痛み。そして半ば自信喪失の私なのである。

還暦を前にして、目標を立てた。
よし、毎年マラソンのレースに出るぞ!
11月ごろ立て続けに見た「日本列島縦断、最も過酷な山岳レース」や「三浦雄一郎の挑戦」などのテレビ番組。そして、68歳にして東京マラソンに挑戦するママの実兄の姿。
彼らがやるのに私に出来ぬはずがない、という単純な感動性の性癖が災いしているのかもしれないが。

九州のマラソンレースを探した。パン屋がお休みの1月6日の日曜日。レースは必ず日曜か祝日。パン屋が忙しいのは必ず日曜か祝日(涙)。
ない!仕方ない、関西方面まで範囲を広げてと。
ありましたね。大阪堺市の大泉緑地公園でのハーフマラソン。
ちょうどいい、久しくあっていない大阪時代の同僚とも会おう。

計画はいいが問題は練習。マラソンはどれだけ準備したかが大切。たとえばフルマラソンを走ろうと思えば、月最低200キロから300キロは走れないと完走はできない。逆に言えば、練習ができていれば誰でも完走できるのがマラソン。能力の問題ではなく、努力の問題。それがマラソンの人間的たる所以。

私は11月までに体重を現在より2キロ、12月中にもう1キロ減量しようと考えた。
そして、お店から、1キロごとに距離を測り、目印の杭を10キロ地点まで埋め込んでいった。こうして練習コースを整備した。一応11月は週に2回ぐらい走った。スピードは走るというより歩くっていう感じ。12月に入って雪が降ったり、年末は宮崎のパン屋さんへの研修などいろいろと用事があり、練習量が減る。忘年会や気の緩みでおいしいものをたくさん食べ、体重は以前と変わらず状態にもどる。
1月3日とても寒い一日。塚原は凍っているので、別府まで下りて別府公園で練習。そのとき、体がアップできてないのに走ったからか、6キロくらいで膝が痛くなってくる。
「やばい!!痛めたか。」

膝を痛めてしまった。情けない。1月4日5日と練習もできず。
船のチケットは早くからとっている。レースの参加料も払っている。同僚に連絡したら、1月6日は新年会を準備してくれている。
一部の人たちにも、「ハ~フマラソンに出るんだ!」なんて口にしてしまっている。「すご~い、がんばってね~」なんて、言われたりもしている。
今さらやめるわけにもいかない。(涙)

ネットで膝痛をカバーするテーピングの仕方を調べ、テープを買い込んで、船にのる。
1月5日の船は満席で、室内が異様に暑い。う~眠れない!!

1月6日大阪に着いた。堺市の大泉緑地へ向かう。会場は知らなかったが、スポーツウェアに身を包んだ多くの若者や中高年の人たちについていけば自然と会場に運ばれていく。
おお!なんかいい気分。清々しいというのか、凛として、身が引きしまる。
私もランナーの中にいる。仲間だ。その一員という気分が何とも心地よい。こんな気分久しく忘れていた。

会場ではすでに練習をしている人たち。
天気も良くマラソン日和。
ただ、私の方は右ひざがテーピングで固定されていて、つらいものがある。

公園の周回コースで1周が3キロちょっと。
当初の目標としてはキロ7分ペースで走り目標タイムは2時間30分。しかし、今の状況としては、3周から4周走れればよしとするか。


ハーフマラソンの部は参加者750人ぐらい。
50歳代130人ぐらい。
いよいよスタートの号砲(アナウンス)。
キロ7分のペースは、速足より少し速いペース。そのペースで走っていたら、私より後ろにいる人は3人ぐらいだったか。つまり、746位ぐらい。上等上等、走っているのだ。走れているのだ。でも最低3周は膝が持ってほしい。10キロ走れたら立派だ。

3周走れた!膝は多少痛いが、キロ7分のペースで走れている。もしうまくいけば5周走りたい。そうすれば、15キロ。この距離は9年前のレース以来の最長マラソン距離となる。練習でも14キロまでしか走れていない。

膝が痛い。しかし、5周走れた!!無理しなければ、あと2週ぐらい持つかもしれないぞ。
私は15キロを超えた時点で、とてもうれしくなった。しんどいけれど、この一歩一歩が新しい未知の世界に踏み出しているのだっていう感じか。もしかすると完走できるかもしれないという期待感か。苦しさが心地よいというか。

6周を過ぎる。もう確信めいた勢いで、なんとしても走りぬくぞと気力がわいてくる。6周目を走っているとき「がんばれ大分」とかなんとかいう声が聞こえたような。
そして7周目の途中、はっきりと「がんばれ大分!」と聞こえてきた。男性が私を応援している。
私は知らなかったのだが、大分から参加している人は私一人だったらしい。その男性は豊後高田出身で、私のゼッケンを探していて、6周目ぐらいで見つけ、声をかけてくれたとのこと。
そんなこんなで、私は痛みと感動で7周目力を振り絞ることができた。

ほんと不思議なのだが、力を使い果たしているはずの最後の200mくらい、信じられないようなスピードが出せる。充実したレースで、何度も経験してきたことだ。今回、痛めている膝ではあるが、すごいスピードで走れた。

ゴールしたあとじわっと目に涙が浮かんできた。
うれしい。

完走賞を手に記念写真。タイムは2時間23分!全盛時よりずいぶん遅くなったが私の中ではベストタイムだ。

お隣の方が励ましてくれた大分出身の方。
彼は60歳からマラソンを始めたとのこと。来年は70歳。

良き出会いだったなあ。
大阪に来てよかった!!