パン屋の修行時代(精神編)

パン屋では足かけ7カ月の修行だった。途中やめようと思ったこともある。肉体的な苦痛は何とか我慢できる。しかし、感情的な苦痛は、思いっきりの良い私の性格からして、「やってられるか」と切り出してしまいそうになる。初めの一カ月は、職人さんと50を超えた年寄りの私との遠慮のし合いで事なきをえていた。しかし、慣れてくると、うだつの上がらない私へ徐々に焼きが強まってくる。正当な注意やアドバイスなら受け入れられるが、どう考えても嫌がらせ的な対応には(そういう職人さんも中にはいる)、我慢も限界になる。宿へ帰って、疲れた体で一人いると、情けなくなってくる。今までの自信とは何だったのか。退職するまでの仕事で培ってきた人生観や精神力は、職人の中ではたいして役に立ちそうになかった。自分に自信がなくなりかけていた。体力的なものもあるが、何より話し相手のいない状況は、気持ちを弱くさせていく。好きな音楽や映画を見て気を紛らわそうとレンタルの店に行く。しかし、身分証明書や住所を証明するものがないということで受け付けられなかった。世間の弱者のみじめさを初めて感じた。マザーテレサが言った「最も不幸せな人々は、貧しいものや重病の人々でもない。誰からも関心を持たれない人々」と言ったそうだが、存在を認められない状況は、体から元気をそぎ落としていくことが実感された。私は5月下旬に4日間休みを取って、大阪へもどった。心地よい夢のような4日間だったことを、日記に記している。元の仕事の仲間たちから、励ましの言葉や早すぎる「開店のお祝い」などもいただいたり・・・。東京の修行先のパン屋へ戻り、修行再開。しかしうまくはいかない。また落ち込む。そんな時、宿の数軒先にある居酒屋に立ち寄った。お店の名は「かどかど」。「いらっしゃいませ!」明るい元気な声と、笑顔が私の目に飛び込んできた。店長さんは私より数歳若そうな40代後半のかわいい女性。何かがポット私の中ではじけた。向かいのカウンターに座っているダンディーな年配の男性がいた。その方はお客ではなく「かどかど」のマスターだった。私はパン屋の修行で東京へ来たこと、なかなか修業は難しいものだ等話した。気持ちが軽くなる自分が分かった。それから4カ月、初めは週に一度だけ、そのうち週に2~3度通うようになる。
「かどかど」は、本当に個性的な人々が集まってくる居酒屋だった。
そして、それもそのはず、店長とマスターが実にユニークな方たちだった。店長さんは、読書や陶芸が好きな人。初めて会った時、本の話になった。彼女は、浅野あつこの「バッテリー」を読みだしたと言っていた。私も、児童文学が好きで、その時点で(映画化される前から)全巻を読んでいた。それで話が盛り上がった。マスターは、別にバクテリアを開発する会社の経営をやっている人だった。天然酵母の話で盛り上がった。さらに彼の経歴が凄かった。非行少年として山形県で何度も新聞に載ったほどの”ワル”の過去も持っていた。酸い甘い、豊かな人生体験は、聞く者に対して惹きつける説得力を感じさせた。お客さんは本当に様々な人たちがいた。そこでお客同士での交流も深まった。常連の「マッちゃん」が新潟の「万寿」(有名なお酒)を持ってくるから宴会をしようと誘いがある。またある時は、韓国の新ちゃんが国から珍しい食べ物をもってきたから、宴会をしよう。こんな感じで、私はいつの間にやら、かどかどの常連の仲間入りをしていた。書けばきりがないほど、話題はある。若者との交流も忘れられない。派遣会社勤務の24歳のよっちゃん、元フィリッピンパブ店長で今はライブ活動をやっているシンガーの青さん。22歳のバイオリンのマサ。国士館大の学生さんたち・・・。本当に楽しいお店だった。マスターと話しながら涙が浮かんでくる場面もあった。
マスター言。
「職人に対して、仲間という意識を忘れてはだめ」
「ひどい指導をしてくれる人は、それなりのしんどい状況を生きてきた人」
「修行の道はけもの道。それに耐えないと力はつかない。」
「負けないで」

多摩市落合3丁目
道のかどにあったから「角角」かも。でも「火土火土」らしい。店長さんが焼き物が好きだからか。まるで、ふきだまりのような(失礼)東京下町の人情を感じるお店。こんなお店を作りたいとマジ思いました。オニパンカフェの柱時計は「コチコチ」と元気に動いています。かどかどのマスターからいただいた大切な柱時計です。

かどかどでのライブメンバー。バンド名は「ミルクホール」手前ベイクド青木、
中ファンシー宮本、奥ウエッティー日浦